Anh.20『愛さずにはいられぬこの思い』

 ―第3場―

『苦境に甘露の花園』


 ―2022.2.15 37歳―

「昨日はありがとうございました。昼休憩ですか?」

偶然エレベーターで一緒になったいつきが、Marlboroの箱をちらつかせながら純麗子すみれこに話しかけてきた。

「ええ、コンビニへ」


「……あの、もし良かったら下のカフェへランチに行きません?」


「ごめんなさい。サンドウィッチを買ったら、すぐ戻らないと……。やりかけの仕事があるので」

本心では彼とカフェに行きたそうな彼女が、断るのには理由がある。


 樹の妻の姉家族は、純麗子と同じマンションに住んでいて、譲二の兄家族とも仲が良かった。

カフェに二人でいる所を、もしも近親者に見られでもすれば、家族やマンション住民を巻き込んだ面倒に発展するのではないか……と、危機感を抱いているのだ。


 沈黙のエレベーターが、無情にも1Fへと近づいていく。階数表示に急き立てられるように、彼の方へ向き直る。


「あの……、今夜、“Virtualダイバーシティ”のバッティングセンターで待ってます。ハンドルネームはアルファベットでR・a・……」

しかし、彼女が話し終わる前に扉が開いた。

休憩帰りの社員達が、二人の降車を待ち構えている。

結局返事も聞けずにコンビニへ向かった純麗子は、そっと物憂げに振り返り、カフェに入っていく樹の背中を見つめた。


 “Virtual-Earth”へ彼が来る確証は無いが、エントリーを済ませてバッティングセンターへ足を踏み入れる。すると爽快な打球音と共に目に飛び込んで来たのは、勢いよくスイングする樹の姿だった。

「永瀬さん――!」


「もしかして、門叶とがさん?」


「はい……。でも、Rayレイと呼んで頂けますか?」


 “Ray”とは、ビジネス用、プライベート用とは別に存在する3体目のアバターで、小説家として活動する為のアカウントだと彼女は説明した。

小説を書き始めたのは、作品世界が闘病中の彼女を救った経験からだろうが、きっかけをくれた譲二すらもRayを知らないようだ。

優羽ゆうや樹と会う時に使用するアバターがRayなのは、創作活動の一環だという言い訳からか、ただ単に周囲への警戒心からなのか……。


「来て下さってありがとうございます。永瀬さんだって、すぐに分かりました」


 会社で『Snow Crashスノウ・クラッシュ』を使用する事がない樹は、アカウントを1つしか持っていないらしく、アバターも実際より歯が綺麗な事と、ヒゲの剃り残しが無い事以外は実物と変わりなかった。


「ですよね。アバターの着せ替えとか面倒で……」


「現実の自分の姿よりも、アバターの方が素の自分をさらけ出せるというデータもあります。

永瀬さんのように同様の見た目でいられるのは、現実世界とは違う自分になりたいと望んだり、実際には成り得なかった面影を求めたりはされないからなんでしょうね」


「いやぁ……、俺はハマるのが怖いだけですよ。

門叶さ……あ、えっと、Rayさんが言うような『プロテウス効果』により、アバターの外見が自己の行動特性や外向性に変化をもたらせば、実生活にも影響が及ぶって聞くし。

それで現実世界に対して、非現実感・空虚感・非自己所属感を感じてる人も少なくないんでしょ?」


「確かに、現実世界で抱え込んでいた不快感や欠乏感があらわとなり、『思い巡らせていた理想の実現はメタバースでしか叶わない!』と結論づける人もいます。

逆に、人が変わったように現実世界で何か行動を起こす事も――。

良い方向に進むか否かは、人間が生まれ持つ性質に委ねられているのかもしれません」


 彼らは小難しい話はそこまでにして、バッティングを始めた。会社で見かける姿とは別人のように、樹は生き生きとバットを振り、良い当たりが出れば輝く笑顔で彼女にガッツポーズを掲げる。

純麗子は彼の甲子園出場経験を知っていて、此処へ誘ったのだ。


 樹は以前、同期の優羽と同じマーケティング部でしのぎを削っていた。

しかし40歳を目前にした今年、優羽は主任になり営業企画室を任されたが、樹は経理部への異動を命じられた。

入社してからずっと、マーケティング部 広告戦略室で直向きに努力を重ねてきた彼は意気沮喪し、人とあまり関わらなくなった。純麗子はそんな樹が気掛かりで仕方ないようだ。


「あの、実は“Virtual豊洲”に、私がRayとしてデザインしたカフェがあるんです。一緒に行きませんか?」


 屋外に出た彼らは一直線に高度を上げ、ウェブマッピングの鳥瞰図のように目的地を定めたら、またも一直線に豊洲へ降下した。


 純麗子が案内したカフェの店内には、15個のまあるい玉ねぎ型バンブーテントが配置され、フロア一面を彩る美しい花畑の中で光るキャンドルランタンが足元を照らす。

天井にはまばゆいばかりの星空が映し出され、川のせせらぎや葉擦れの音が微かに流れる。

テント内は淡いピンクの丸型マットレスと、ペールアイリスやクリームイエローのふかふかクッションで敷き詰められており、月をモチーフにしたペンダントライトの温かな灯りが、寛ぎの空間に癒しを添えている。


 チョコレートケーキを美味しそうに頬張り、早々と平らげた樹は、バンブーテントの内壁に寄り掛かり足を伸ばした。

武骨だが指の長い手が、バットを構えていた手が、すぐそこにある。少しずらせばれる距離だ――。

純麗子の心臓は高鳴り、体の中心が熱く火照る……。

何かを察した樹は、マットレスの上で指をすべらせ、彼女の手を握った。

甘い生クリームとほろ苦いチョコクリームの味が、口の中でゆっくりと溶け合う。


 ――ガチャ、バタン。

バスルームの外でドアの開閉音が響いた。

譲二だ。


 純麗子はそっと唇を離し、

「楽しかったです」と一言告げて、もう一度優しく柔らかな感触を確かめるように小さくわすと、リモートシールを剥がして湯から上がった。





 この物語は、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。作者の人生とも全く交差しない、詮索謝絶の完全なるフィクションです。

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