このみ

ロッドユール

このみ

「・・・」

 なんの計画もなく、考えもなく、純はまた仕事を辞めた。ただ、すべてに行き詰まり、そこから逃げるようにして辞めた。行く当てもなく、ただその現実から逃げた。現実から逃げて逃げて、逃げて逃げて、どこにも辿り着けないまま、さらに逃げて・・。そして疲れた・・。

 学校からも、家族からも、世間からも逃げて、もう、どこに逃げていいのかさえ分からなかった。

 ワンルームの安普請のハイツには、帰る気も起らなかった。最近隣りの一〇四号室に越してきた若い十代後半くらいのガキが、夜な夜な友だちを呼びバカ騒ぎして、うるさく辟易していた。そいつの顔を思い出すだけで怒りが湧いた。

 純はすぐ近くのコンビニに入り酒を買った。そして、出るや否やそれを煽るように飲んだ。今まで昼間から酒を飲むのは自分に戒めてきた。だが、それももういいような気がした。もうすべてがどうでもよかった。むしろ、もう無茶苦茶になりたかった。自分が壊れるほどに、無茶苦茶になりたかった。

 純は酒を飲みながら、街を彷徨うように歩いた。何もかもがイラついた。何もかもが憎かった。何もかもが虚しかった。

 みんなが俺を嫌っている。みんなが俺をバカにしている。みんなが俺を変な目で見ている。みんなが俺を見下している。それがなぜか純には分かった。酒を飲んでも飲んでも、酔っても酔っても、頭が痺れても痺れても、その確信だけは消えなかった。

 気づけば、日は落ち、辺りは暗くなっていた。太陽の代わりにいつの間にか街のネオンが煌めく。それは妙な高揚感と興奮を誘う光。人を怪しく変貌させる光。この街に生きる人々は、その光に誘われるように、導かれるようにその光に集まり、熱狂し、狂っていく。

 狂うことのできない純だけが一人ポツンと孤独に歩いていた。

「・・・」

 純は立ち止まり、ふと駅前の高層ビル群を見上げる。

 純は愕然とする。都会の圧倒的大きさに。純は愕然とする。都会のあまりに多くの人波に。純は愕然とする。自分の小ささに・・。

 純は、その場にへたり込むように座り込んでしまう。行き交う人々は、そんな純を見ないように素通りしてゆく。純はたった一人、置いて行かれているような気がした。世界からたった一人置いて行かれているような気がした。堪らない孤独を感じた。堪らない堪らない孤独を感じた。何ものをも埋められない圧倒的な孤独。叫び出したかった。苦しくて、悲しくて、何かが漠然と憎くて、やり場が無くて、訳が分からなくて、純はもう、全てを捨てて叫び出したかった。狂ってしまえたら、狂って、頭がおかしくなってこの場で思いっきり叫ぶことが出来たら、その方がまだどんなにか幸せなんだろうと思った。

「!」

 その時、ふと、なんだか、自分のすぐ隣りに人の気配がするような気がした。それは、ずっと、ずっと以前からそこにあったような気がした。純は横を見た。

「!」

 すると、純のすぐ隣りにくりくりと丸い目をした丸い顔の女の子が座っていた。

「・・・」

 純のすぐ横で、純と同じようにその子はしゃがみ込み、純を見つめていた。純は驚き、その子を見つめたまま固まる。その子もそのまま純を見つめ続ける。

「・・・」

 しばし、純とその子は見つめ合った。純は戸惑い、目をぱちぱちとさせ、少女を見つめていた。

「今日仕事早く終わったの」

 その子が、笑顔で言った。なんだかうれしそうだ。

「え、ああ」

 純は戸惑いながら答える。

「わたしこのみ」

 その子の目は美しかった。幼い子どもの目の美しさだった。濁りも淀みも欠片の疑念も無い美しさ。それは純真だった。見ているだけで、怖くなる美しさ。自分の醜さを見てしまう美しさ。自分の汚さが見えてしまう美しさ。

「僕は純・・」

 純もなぜかこの得体の知れない少女に自ら名乗っていた。それは決して酔っていたからではなかった。何かそうさせる、そうしなければと思わせる何かがその子にはあった。そうしなければ彼女のその純真さを冒とくしてしまうような恐怖があった。

「いい名前だね」

 このみは微笑む。

「あ、ああ・・、ありがとう・・」

 純はよく分からないままお礼を言った。

「わたしもお酒飲む」

「えっ」

 純が手首に引っかけるようにしてぶら下げていたコンビニの袋にまだ何本か缶酎ハイが入っていた。酔いと勢いに任せてかなりの数を買っていたらしい。だいぶ飲んだ記憶はあったが、それでもまだ残っていた。

「あ、ああ」

 純はそのうちの一本をその子に渡す。

「ありがとう」

 その子はさっそくプルトップを開け、グビグビと酎ハイをうまそうに飲んだ。

「ぷはぁ~、仕事終わりのお酒は最高だね」

「あ、ああ」

 このみの目は、やはり美しく輝いていた。

 二人は大都会のど真ん中の路上で、お酒を飲んだ。お酒が尽きると、このみはどこかへ行ってしまった。純は再び一人きりになった。

 だが、しばらくするとたくさんのお酒を抱えてこのみは純の横に戻ってきた。そして、二人はさらにお酒を飲んだ。

「あっ、そうだ」

 そう言って、突然このみはバックから、何やら小さな箱を取り出した。

「マッチ」

 このみはそれを純の目の高さに指し示した。

「マッチ?」

「うん、私ね、この光好きなの」

 このみは箱からマッチを一本取りだして擦った。ボッと勢いよく炎が上がり、すぐに落ち着いた小さな炎が木の棒の先で揺れる。

「わたしこの光が好き。ね?」

 このみは同意を求めるように純を見る。

「あ、ああ」

 純は少し戸惑いながらそれを見つめる。

「なんか落ち着くの」

「・・・」

「街の灯りよりこっちの方が好き。なんか生きている感じがする」

「・・・」

 純もマッチの小さな炎を見つめた。そこには確かに生きている温かさがあった。

 二人は魅入られるようにその小さな炎を黙って見つめ続けた。


 

 ―――



「なんでこんなに生きづらいんだろうな・・」

 人のいなくなった無機質な都会の真ん中に、純が呟く言葉は、無力にかき消えてゆく。

「なんでこんなに傷つくんだろうな・・」

 終電も終わり、駅前の繁華街も、みんなどこかに突然消えてしまったみたいに寂しくなっていた。

「俺、もう疲れちまったよ・・」

 心の底からそんな言葉がポロポロ出てきた。純の心は絶望に支配されていた。もう明日も見えないくらいの真っ暗な絶望。

「俺、怖いんだ。俺、不安なんだ」

 純は膝を抱え、身を小さくした。

「俺どっかおかしいんだ。頭おかしいんだ」

 純は頭を抱えた。

 寂寞とした孤独が純を包み込んでいく。純の心は、宇宙の静寂の冷たさの中で、永遠の孤独を回り始める。もう誰とも、出会わない。出会うことのない絶対の孤独・・。

「!」

 その時、圧倒的な温かさが、純を横から包み込んだ。純は驚き、顔を上げる。このみが横から抱き着くようにして純を抱きしめていた。純は驚いてこのみを見る。

「抱きしめてあげるわ」

 そんな純を見返して、このみは微笑んだ。やさしい微笑みだった。

「辛い時は、心が冷えているんだって。だから温めてあげないといけないんだって。心が本当に凍ってしまう前に。死んだおばあちゃんがそう言ってた」

「そうか・・」

 このみの体は温かかった。確かな温かさだった。上っ面でも、言葉だけでも、理屈でもなかった。それは確かな温かさだった。

「人はみんな寂しいの・・」

「・・・」

「人はみんな寂しいの。私のお客さんもみんな寂しいの。みんなみんな寂しいの」

 純の胸に顔をうずめながらこのみは言った。

「裸になって、どんなに肌を合わせても、どんなに絡み合っても、繋がり合っても、みんな寂しいの・・」

 このみは、どこか悲しそうに言った・・。

「みんな寂しいの・・」



 ―――



 静寂。誰もいない静寂。あれだけいた人が誰もいない世界。

 ごみが散乱し、そこにカラスが、舞い降りる。暗かった世界にお日様の光が降り注ぎ、世界を正しい世界に作り変える。誰もいない世界。穢れの無い空気。闇は去った。不純は消えた。世界は今、生まれ変わった。

健全な世界に。


 このみが突然道路に飛び出した。

「お、おいっ」

 早朝で車のまったく通っていない道路だったが、しかし、片側三車線の大きな幹線道路。いつ車が来ないとも限らない。純は慌てた。

「人はねぇ」

 すると、このみが道路の真ん中で叫んだ。

「えっ?」

「人はねぇ。一人じゃ生きていけないんだよ。だから助け合わなきゃいけないの」

 このみは世界中に大演説するかのように、あらん限りの声を張り上げて叫んだ。

「都会は厳しいんだよ。だから、助け合わなきゃいけないんだよ」

 このみは叫ぶ。

「人は助け合わなきゃいけないの」

「・・・」

 純はしばし茫然とする。

「うん」

 そして、純はうなずいた。そして、このみは笑った。



 世界はまた二人の背後で動き始める。すごい速度で、激しく激しく。世界は回り始めた。

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このみ ロッドユール @rod0yuuru

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