第30話 前は

 時刻は午後一時半過ぎ。

 朝一番に男子で優先パスを取りに行った、つい数ヶ月前に完成したばかりの人気アトラクションの列に並んでいる時だった。


 優先パス、といっても着いたらすぐ乗れるほど甘いものではなく、人気アトラクションにもなるとそれなりの待ち時間は覚悟しておかなければならない。

 無論、普通に並ぶよりは格段に早く乗ることができるのは明らかであるが、それでも、今を時めく高校生が時間を持て余すには十分すぎる程だった。


 並んでいる間は、基本的に時間を潰すためにくだらない会話に興じるのが景たち御一行の午前中から続く伝統だった。だが、七人という人数は全員が同じ話題を共有するには、些か人数が多すぎた。

 故に、必然的に自分の周りにいる何人かと話すことになり、七人の中でも小さいグループ分けがなされる。

 そのグループはどのように決定されるか。

 適当に並んだ順番でも特に問題はないのだが、面白みに欠けるし、いつも同じ人が近くにいて、景色が変わり映えしない可能性があった。

 そんなところに、アトラクションに乗る上で避けては通れない乗車人数の制限による組み分けがちょうどあるではないか。

 ジェットコースター系であれば二人ずつ、ゆったり乗れる系のゴンドラであれば四人、あるいは三人に分かれて乗らなければならない、と言う制限が。

 そういうわけで、今回も例に倣って会話と乗車のためにじゃんけんによって組み合わせが決められた。


 その結果が、直輝、涼也、結衣、遥香の四人グループと景、梨花、凛の三人グループであった。

 決まった瞬間、景は絶望するにも至らず、ただ放心状態と化した。遅れて実感が湧いた頃に、冷や汗が怒涛の如く吹き出す。


 だが、決定した以上、とやかく言ったところで決定が覆せるわけもなく、何より自分と梨花、凛の間に何かあると勘繰られたくはなかったので、大人しくじゃんけんによる運命を受け入れるほかない。

 絶対にそのグループ内で話さなければならないというルールはないし、事実七人が同じ話題を共有した瞬間もあったのだ。

 景は気楽に誰か別の人と話せば良いと考えたが、自業自得というべきか、積極的に消極性を重んじて後ろの方を陣取っていたために、並びが二人づつ列になって梨花と凛の後ろに独りで並ぶことになってしまった。

 他の人に話を振るには彼女たちの頭上を飛び越えなければならず、それではあまりに不自然であるため、二進も三進もいかない様となったのである。


 景は、並んでいるこの場所からゴンドラを降りるまで、永遠にも等しい無言の時間が続くことを憂い、まるで生きた心地がしなかった。

 列に並ぶ間、美しい装飾が施された柵に寄りかかって早々に時が過ぎ去ってくれるのをただ待っていると、思いもよらず梨花の方から沈黙が破られる。


「貴方はこのアトラクション乗ったことあるのかしら?」


 せせらぎのように澄み渡っていて落ち着く声が、自分に向けられたものだと気づいたのは、彼女が長い黒髪を揺らし、後ろ手を組んで寄りかかった対面の柵から小首を傾げて顔を覗き込んできたからだった。

 彼女の隣に控えていた凛は、その光景が信じられないのか、唖然として立ち尽くしている。


 混乱した。彼女が自分にわざわざ話しかけてきた理由は何か。

 自分のことを嫌っているどころか殺したいほど憎悪し、生涯消えることない怨恨を抱えているはずなのに、目の前には嫣然として真っ直ぐこちらを見つめる紛うことなき梨花がいる。

 恐怖を感じた。何を考えているのか、その心を見透かすこともかなわず、頭が真っ白になり、心臓は早鐘を打っている。しかし、彼女の美しくも底の見えない微笑みから決して目を逸らすことができなかった。


 景が何の反応もせずにに黙っていると、梨花がまるで小さい子どもでも相手にするかのように同じ質問を繰り返した。


「乗ったこと、ないかしら?」

「あ、ああ、うん」


 再度の質問によって景はようやく再起動を果たし、口籠もりながらも短く返答する。相変わらず微笑みかけてくる梨花に空恐ろしさを感じた。

 梨花もまた景に対して「そう」と短く返し、会話はここで終了かに思えた。

 しかし、景の直感が、話を続けなければならないと告げていた。

 なぜそう思ったのかはわからないが、会話が終わってしまうことに得体の知れない危機感を覚えたのだ。


「内田、さんは乗ったことあるの?」


 声が震えないように腹の底から空気を送り出して声帯を振動させる。

 音にした瞬間、彼女に質問を投げかけたことを激しく後悔した。梨花が景の声を聞くが早いか、嫣然とした微笑みが消え、景を睨むように目を細めたからだ。


 蛇に睨まれた蛙の如く身体が硬直する。

 やはり話しかけたのは不味かったのかもしれない。憎悪による罵倒、あるいは冷え切った拒絶を覚悟して目を瞑った。

 だが、予想とは裏腹に梨花から飛んできたのは温度のある叱責だった。


「内田さん、じゃないでしょう? 前は梨花って呼んでくれたじゃない」


 「前は」がいやに強調されて聞こえた。言葉を失う景に梨花がつかつかと前に出て彼の耳元で誰にも聞かれないように囁く。


「それとも、中学の頃、身籠らせた挙句に捨てた女なんて、興味ないかしら?」


 瞳孔が開いて心臓を握り締められたように呼吸ができなくなる。

 走馬灯のように中学時代の梨花の姿が頭の中に流れ込んできて、最後に耳にした彼女の言葉とその不安そうな表情、そして雪降る公園の情景がありありと蘇った。


『私、赤ちゃんができたかもしれないの』


 昼食に食べたチキンが喉元まで迫り上がってくるのを感じ、反射的に手で口元を押さえる。

 どうにか吐き戻すのは阻止したが、胃の中がぐるぐると掻き回されているようで非常に気分が悪く、彼女の言葉が頭の中でガンガンと音を立てて響いた。


 耳元から離れていく梨花はふふ、っと邪気のない優しい笑みを浮かべて景の見開かれた瞳を一瞥し、長い黒髪を靡かせて踵を返す。


 一部始終を間近で目撃した凛は何か言いたげに口を開きかける。

 だが、梨花が「ほら、列が進んでいるから行きましょう」と促したため、彼女は一瞬迷ったような素振りを見せつつも、呆然と柵に寄りかかったままの景にひと睨み利かせて前へと進んでいった。


 残された景は、後ろに並んでいたカップルの迷惑と心配が半々といった態度に押されるようにしてふらふらと立ち上がり、焦点が合わない視界で梨花と凛の後に続いた。

 気づけば、薄暗い建物の中から突き刺すような太陽の元へと出ていたが、アトラクションの内容は何一つ覚えていなかった。

 ただ、前を歩く梨花のいやに楽しそうな横顔だけが脳裏に焼き付いたまま、いつまでも離れなかった。

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