案5:ブリッジ文芸部・東京へ行く

 ロンドン・ブリッジ・フォーリン・ダウン・フォーリン・ダウン・フォーリン・ダウン


 公園で童歌を背に、瑞穂くんとの待ち合わせをしている。十一時二分、時間に厳しいんでと言っていた彼が遅れるあたり、先が思いやられる。僕は少しぐらいでは怒らないのに、瑞穂くんなら頭を下げまくりそうだ。やけに厳しそうだから、そんな気がする。


 日陰があって助かった。東屋を陣取り、夏休みの宿題を進めておく。数学の一枚だけを持ち歩く習慣がついた。軽くて小さくて、空き時間にパズル感覚で解いていける。汗を拭きながら、鉛筆でxの値を探す。


 電話が鳴った。瑞穂くんだ。


「荒廃さん、遅れて申し訳ないす。実は橋が落ちて、立ち往生してました」

「橋が? どこの?」

「すずしろ橋す。石神井川の」


 東京は日本で最も電車が発達している。駅を基準に生活区を決めて、出口が反対側になるだけで何も知らない土地になる。僕は石神井川と言われても、どこにあるのかぴんと来なかった。通る駅名から、石神井公園との関係くらいはありそうに思った。


「こっちは平気す。もう登ったんで」

「登る? 坂?」

「橋す。落ちたから登って、今そっちに向かってます」

「渡る途中で落ちたの?」

「踏み抜いちまいました」


 どんな橋なんだ。東京にもコンクリート以外の橋があるのか。


 公園の声が静まった。振り返ると子供たちは、まだいる。目線の先へ僕も注目した。なかなか見えないので、僕も近寄った。


 瑞穂くんだ。ポンパドールにカエルを乗せて、肩に植物の残りくずをつけて、のしのしと歩いてくる。


 子供たちは巨体への物怖じよりもカエルへの興味が勝るようで、ポンパドールを台座に寛ぐ様子をまじまじと眺めている。


 瑞穂くんがこちらに気づいた。子供たちも、瑞穂くんがこちらに気づいたと気づいた。片や屈強な大男、片や贔屓目にも貧相なチビだ。遊ぶ男の子の一人が慌てた様子を見せる。そんな関係じゃないのに、心配症め。


「すんませんでした!」


 瑞穂くんが頭を下げた。集合住宅と塀で反響する。カエルが頭から落ちる。磯臭さが鼻につく。子供たちが混乱した顔で見つめる。まいったな。僕の器じゃないのに。


「怪我を見せてよ。そのあとで遊ぼう」

「擦り傷ひとつ無いす。うまく着地できました」

「そ、そう。じゃあ行こうか」


 とにかくこの場を立ち去りたかった。子供たちの視線が痛すぎる。東京ではあまり注目されたくない。相手が子供であっても、恐ろしすぎる。


 そそくさと小路を行く。瑞穂くんの服は乾いている。夏でよかった。



 黒部先輩は始めて難色を示した。お宅にお邪魔した最初に靴を並べ直したときも、ドアと間違えてウォークインクローゼットを開けてしまったときも、いつもの飄々とした態度を崩さなかったが、今日の作品には露骨に不機嫌な顔をし見せた。応援ボタンを押すか迷い、押さずに閉じた。


「きみは今回、暑さで頭が回らなかったんじゃあないかな。家に冷房はあるかい」

「あります」


 黒部先輩は寂しげな顔を見せた。今日は初めて見るものばかりだ。黒部先輩の家も、こんな表情も、あとはクローゼットにあった肌着も。


 先輩は枕元にスマホを置き、座る位置をベッドから僕の前の座布団に変えた。隣の瑞穂くんはまだ読む途中ながら位置をずれてくれた。


「文句をつけさせてもらおう。今回のきみは、やけに調査不足だ。もし私たちが東京にいたら、と題していたのに、蓋を開けたら東京らしさが何もない。かろうじて集合住宅があるだけで、うちの近所の公園でも通るじゃないか」


 全てその通りだ。僕は何も言い返せない。東京を知らずに東京を書くにあたり、現地へ行くのが一番だが、そんな交通費を出すには若すぎた。


 指摘していないが他のごまかしも気づかれている。実際に橋がコンクリートなのか他か、どちらとも解釈できる。どんなカエルなのか、なんという植物なのか、実のところ何もしていない。


「すみません、調べようと思ったんですが」


 続きを言い淀んだ。すかさず指摘が来る。


「理由なら聞くとも。ですが、何かな」


 あまり言いたくないが、先輩の真面目な目に見つめられては抵抗も逃げられもしない。あとじされば詰めてくる。仕方がないから、尊大な羞恥心を曝け出す。


「妬いてしまって」


 大都会の暮らしに。ご近所とは似ても似つかない摩天楼の都、もしくはご近所と似ているが細かなところで最新型を見せつけるところの、どちらもが見るだけで悔しくなる。


 インターネットでは東京人が「言うほど優れてない」と卑下するが、そんなのは持てるものの傲慢だ。高身長の男が高身長のデメリットを語るとか、巨乳の女が巨乳のデメリットを語るとかの同類だ。こっちが渇望するものの悪口はますます気分が悪い。お前が求めるのはくだらない物だと言われている気分になる。


「そうか」


 先輩は短く答えた。低いイントネーションから、また気を遣わせる内容だった気がした。がっかりはさせていないと信じて、次の言葉を待つ。


「私が悪かった。そうだよな。次回作も頼んでいいかな。今度は君が書きたい物で頼むよ。必要なら資料も用意しよう。千円以内でね」


 思った以上にへこませてしまった。そこまで謝らないでと、僕が言う前に瑞穂くんが加わった。


「自分は嬉しいす。本当に一緒に遊びに行った記録みたいで、それに長命が」


 先輩は大慌てで被せた。


「うわうわうわ! 瑞穂その先は、よくない話になりそうだぞ」


 立ち上がって中腰になり、瑞穂くんの正座をぎりぎりで見下ろす。瑞穂くんが言いかけた話を耳元で検閲し、だめだと首を振る。


 仲がいい姉弟だ。羨ましいな。


「おっとすまない、蚊帳の外にしてしまったね」


 本当に、初めてのものばかりを見た。

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