第34話 今日は日記になにも書き込んでくれないの?
その次の日は、夏苗に記憶があるのかないのか斗真にも医師にも判断が難しい具合だった。名前を呼びかければ返事はするのだが、それ以上はなにも話さない。今までにはない症状だった。
もしかしたら、ふてくされているだけなのかもしれない。そう案じると斗真は委縮したが、勇気を出して話かけ続けた。
それでもなにを尋ねても、はい、いいえとしか応えてくれない。斗真は夏苗の中のなにかが狂ってしまったような予感がして怖くて仕方がなかった。
さらに次の日の夏苗は間違いなく記憶を飛ばしていた。その証拠に斗真の顔を見て笑うのだ。斗真の話に相槌を打つことさせ能わないもののずっと笑っている。その笑顔こそが斗真のことをどこの誰であるか認識していない十分な証拠であるのだ。
さらにさらに次の日には体の具合は随分よさそうなものの、肝心の記憶はまだ戻っていないようだった。そして無意味に斗真に笑いかけたりしない。言うなればいつもの記憶を失くした夏苗だった。
ベッドの隣に置いた椅子で心配そうに自分を見詰める斗真に夏苗の方から問いかけた。いったいあなたは誰なのかと。なんの為に黙ってそこに座っているのかと。
斗真は自分こそが夏苗の恋人なのだと打ち明けた。幼い頃から慈しみ合って、今では愛を語り合う存在なのだとひたむきに訴えた。そうだ。いつもの記憶を失くした夏苗の前なのだ。いつも通りに振る舞わなければならない。
「そうなの。わたしはあなたのことを愛していたのね。」
語尾が過去形なの心苦しかったが、仕方のないことだ。今の夏苗からしてみれば、記憶のある自分が過去の存在に思えるのだろうから。
これ以上夏苗に衝撃を与えたくなかったし、ここにいても惨めになるだけではないかと察して斗真はその場を去ろうとした。
どれだけ真面目にふたりの恋を語ろうとも夏苗には認識して貰えない。今に始まったことではないのだが、今日に限って虚しくて寂しくて仕方ない。この先はもう夏苗に想い出して貰うことが叶わないのではないかと落ち着かない。
ところが、椅子から立ち上がったときに夏苗に引き留められた。夏苗は確かに寂しそうで不安そうであったが、その心の内は斗真のそれとはまったく違っていたようだ。
「今日はこれになにも書き込んでくれないの?」
夏苗が差し出したのは青色の表紙の日記帳。これは入院すると決まったときに斗真が買って与えたものだ。彼女と彼の想い出を書き込んでポラロイドカメラで撮った写真を貼り付けておいて、記録として残しておく為に用意したものだった。
彼女の体調がすぐれているときには、ふたりで一日の想い出を書き留めていたのだが、具合が悪い日には無理をしてそれに触れないように彼は留意していた。その日記帳には明るく楽しい記録だけを残しておけば良いと思っていたから。
今までなかったことだが、今日の夏苗は斗真の記憶はないのに日記帳の存在は覚えているようである。ふたりの写真を撮りたくてカメラをいじくりまわすが、扱い方が分からない。
夏苗が困り果てる前に斗真はそれを取り上げて、シャッターを押してふたりが並んだ絵を一枚切り取った。それを夏苗が日記帳にのりで貼り付けてその横になにかを綴ったが、それはミミズがはったような字だったので斗真には解せなかった。それを認めていたから、夏苗はそれを声にして読み上げた。
「今日はわたしの大切な人がわたしの中に眠っている大切な気持ちについて教えてくれた。わたしは大切な人の顔を見る度、とても高揚したり焦ったりしていたけど、それが恋心というものだと教えてくれた。」
胸を張って堂々と声を張り上げる夏苗は可憐だった。素直に胸のうちを明かすことはしない性格なのだが、声と胸とを張って述べ立てるその振る舞いはどこか姫奈に似ていていた。夏苗は斗真の手を握り締めて続ける。
「あなたは恋人のわたしが記憶を失くしてしまったことを嘆いているのかしら。そうは思わないでほしいわ。わたしはあなたが好きよ。記憶の頼りないわたしだけど心はしっかり働いているわ。
それが役割を果たすうちは一度あなたを忘れてしまっても、逢う度に好きになれるわ。だから毎日会いに来て欲しいの。毎日あなたに恋をするわ。それでは物足りないかしら。」
なにも足りないことはない。自分のことをいつでも憶えていて欲しいというのはあまりに身勝手で子供っぽい要求ではないだろうか。
斗真より夏苗の方がずっと前向きのようだ。もちろん斗真だって夏苗を愛している。接吻もしたいし抱き締めることを欲している。叶わなくとも、そう望める女がいるというのは誇り高いことではないか。斗真は夏苗の手を強く握り返して宣言した。
「僕は毎日逢いに来る。毎日ふたりで恋に落ちよう。それはとても胸の躍る幸福なことだ。何度も夏苗に愛を囁いて、そして夏苗が笑ってくれれば毎日鮮やかな気持ちで接することが出来る。神様が僕達だけに与えた洒落た恋愛の仕方なのだろう。」
夏苗は満足げに笑った。
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