第31話 作家としてなによりのフラストレーション
夏苗を対象とする性欲を認められた斗真は実に生き生きと動き回った。一方、入院している夏苗はひとりで散歩など外出をすることも許されなくなっていた。そもそも両親が見舞いに来て彼女を外に連れ出してやれれば良かったのだが、両親は入院費を稼ぐ為に昼も夜も仕事に追われている。
だから、夏苗を外に連れ出すのは斗真ばかりだった。斗真は進んでその役割を買って出たし、両親も彼のことを信頼してその役回りを任せた。なによりも夏苗が斗真を信頼し、一緒にいることを望んだ。記憶があるとき、ないときにかかわらず斗真の顔を見るとわたしをどこかに連れ出して欲しいとねだることが多いのだ。
昼食の終わる頃あいの十三時から夕食の始まる十八時まで外出を許されている。斗真は夏苗を記憶が明らかだった頃にふたりでよく見物した公園や街中の店に連れて歩くことが多かった。
ある日は、ふたりが暮らしていたアパートに行かないかと誘いかけた。あの部屋にはふたりだけの想い出が凝縮されている。夏苗は無邪気な笑顔で認めた。夏苗だって口にこそしないがふたりきりになれる機会を望んではいたのだ。斗真は部屋に着くとすぐに湯を沸かして紅茶を淹れた。それは、かつて夏苗が斗真に美味しいから飲んでみてと奨めたものだった。もう夏苗はそのことは憶えていないのだが。
こんなに美味しい紅茶は初めて味わったと嬉々としていた。斗真はそんな夏苗を笑って見入るのだ。夏苗の機嫌が良さそうな折に接吻を求めた。なんとも自然に唇を重ねる。互いに気恥ずかしいが気持ちの良い一瞬だった。
その快感が斗真の欲求の堰を切った。夏苗が痛いと言う程強く抱き締しめる。別に夏苗は拒んだわけではない。だから、洋服のボタンをひとつずつ外されるときも黙っている。
顔を見られるのが照れ臭いからと斗真の胸に顔を埋めたまま。初めて見る彼女の首筋から下の肌は、部屋に差し込んでくる午後の眩しい陽の光を反射させる程真っ白であった。
肌の白さと紅潮する彼女の顔色を見ると神経が悦楽と興奮に侵された。それは若い男としては当たり前の反応である。
女だって同じように悦楽と興奮に包まれる。それはいつも悦びと言い現されるのだ。悦び求め合う男女の行き着く営みはひとつしかない。斗真と夏苗はとても綺麗にひとつになった。
龍平は男と女が結ばれるときの様子には詳しくはない。経験が一度しかないのだから。だが、その一度の経験を細かに叙述すればとても情熱的な目合いの現れとなる。唯一の経験が十分過ぎるほど色っぽいものだったので、興奮と愉悦の描写はとても上手いものだった。
龍平が案じていたよりずっと自然にふたりは結ばれることが出来た。だが、一度結ばれてしまえば斗真はさらに激しく夏苗を求めるようになるのだ。夏苗も同じ心地である。
相も変わらず夏苗は三日に一度は記憶を失くすのだが、記憶が呼び覚まされた日は斗真と結ばれたこともありありと追想される。だから、ふたりが繰り返し繰り返し求め合うのはもちろんなことなのだ。小説の中でふたりは頻繁に目合った。それはふたりにとって甚だ幸せな時間であるから、龍平もその叙述を怠ることはしないのだ。
斗真と夏苗が肉体的接触を好むほど、真実の愛というものから遠ざかるものだと龍平は睨んでいた。しかし、ふたりは目合う度によりいっそう愛を注ぎ合うのだ。尚且ついっそう求め合う。紛れもなく愛の成就に向かって手を結び合って歩んでいた。真にそれを貫いていた。
小説を書き進める為にはもう斗真と夏苗から性欲というものを取り除くことは出来ない。そうでなければ物語のリアリティを支えていられないからだ。
龍平はすこぶる困っていた。ふたりは恋愛を貫いてはいるが、龍平の意義付ける真実の愛からは遠ざかっていくのだから。物語が劇的になることは痛快なのだが、自分の綴りたいこととはまったく違う。それは大変なフラストレーションなのである。
それとは別のより深刻な不満も生じた。ふたりの分かち合う愛こそが真実の愛であり、龍平が望み考え得る限り最も素晴らしいとしていたものが虚ろなものだと憶えることが苛立つのだ。
ふたりは満ち足りた佇まいをする。互いを想いやり真に美しい笑顔をする。それは愉しさや嬉しさを現す顔色ではない。愛を成す者だけが具現化出来る色艶なのだ。ふたりのその艶が妬ましい。同じ潮の流れに乗って共有する愛情表現を営むことによって更に互いを知り合い、慈しみを深めていくということが羨ましい。僕と姫奈には叶わなかったことであるからだろう。誇りを傷付けられた感触なのだ。
僕が姫奈に憶えていた慈愛というものは幻だったのだろうか。それともつまらない情緒だったのだろうか。
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