第29話 斗真と夏苗と龍平と姫奈
龍平は今夜から小説を書き直すことに夢中になった。斗真を僕に、夏苗を姫奈に近付けるのであればどうしても書き加えなくてはならない一幕がある。女が肉体的接触を求めて、男がその所見を否定する一幕だ。
斗真と夏苗は愛し合っていたので同じ屋根の下で暮らすことにした。キッチンと八畳の部屋がひとつだけの間取りがふたりにはちょうど良い。卓もソファもベッドもひとつしかないが、狭苦しいことはなにもない。
睦まじいふたりであったが、夏苗にはひとつだけ不満があった。不満というより不安と言った方が適切だろうか。夜になり小さなベッドに並んで手を握り合って眠る。恋人の隣で眠れるということは心嬉しいことであるのだが、斗真は決して夏苗の肌に触れようとはしなかった。ふたりはまだ唇を重ね合ったことすらない。それを侘しいと感じていた夏苗はある晩ベッドで横になっている斗真に尋ねた。
「わたし達は恋人同士よね。いつふたりで愛を確かめ合うの?わたしに魅力がないのかなと鏡を覗くわ。わたしは結ばれたいわ。だってあなたを愛しているのですもの。ふたりきりになって裸で斗真君と抱き合いたいと望むのはおかしなことかしら。
わたしは普通の女だから食欲や睡眠欲と同じくらいの性欲や独占欲だってある。恋をしている女はきっとみな同じよ。素敵な贈り物よりも、優しい言葉よりも情熱的な目合いを求めるときもあるのよ。わたしは斗真君を強く求めるけど、あなたにもわたしを求めて欲しいの。あなたはそんな気分になることはないのかしら。」
夏苗の言い分はもっともである。女というものは求められ過ぎても不安になるが、まったく求められないことはもっと不安になるものだ。斗真は夏苗の頭を強く撫でまわして応えた。
性欲と愛とはまったく切り放されるものだと言う。女に愛を感じていれば、与えることも受け取ることも焦ることはないはずなのだ。女に性欲しか感じていなければ、全部まとめてさっさと済ませようとするだろう。正しい愛の目的地に行き着く為には遠回りをする必要があるのだ。そもそも近道などない。
近道だけを求めようとするのならばそれは愛ではなく性欲だと言えるだろう。愛であるならば長い道のりをゆっくりと寄り添いながら歩いて行くことがおもしろいはずだから。歩きながら会話を重ねて互いの共通点や価値観を確認していくべきである。
あるいは愛とは初めは潮の流れに逆らって泳いでいくようなものかもしれない。同じ方向を見て同じ潮の流れに乗る為には時間は必要なのだ。その時間が相手の気を引く為に必死になる自分から、一緒にいることで安心を得られる自分へと変化させてくれるのだと弁を振るった。
斗真の口舌には多少の迫力はあるが、夏苗のそれはおもしろみに欠ける。それを描く龍平の腕前が未熟なのは明白なのだが、そもそも夏苗を姫奈に近付けようと無理強いするから窮屈になるのだ。
男と女が愛し合う為には性交が必要だと言い張る姫奈の言の奥深い意味を理解していないから夏苗の口舌が幼くて拙くしか現し出せないのだ。
それを自覚していない龍平は満足していた。斗真があれだけ上等な文句を並べれば、夏苗も合点がいくだろう。すなわち、姫奈も合点がいくだろうと痛快であった。
斗真と夏苗が僕の理想とする真実の愛を目指すと望める。会心して枕に頭を預けた。やはり、龍平は小説を書く資質に恵まれていない。夏苗の口舌が興ざめであることも、この先斗真と夏苗にどんな行く末が待っているのかも測り知っていないのだから。
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