第25話 姫奈の初めて(最後)の懇願
「大変なことになったわね。身寄りのことを慮って出した決心でしょう。あなたの気ままにしたら良いと思うわ。」
文芸倶楽部の部室で缶珈琲を啜りながら、姫奈はなかなか無愛想な反応をした。過ぎし日の恨みを忘れてはいないのだろうか。そんな陰湿な女ではない。心から龍平の出した決断に同情したのだ。真面目であるからこそ、こんなことを口にした。
「わたしも学校を辞めるわ。そしてあなたについて行く。」
実は姫奈がそんなことを言うことは幾らか想定していた。しかし、なぜそんなことを言うのか問わないわけにはいかない。理由までは予測出来なかったのだから。
「その問いかけに受け答えをする必要も意味もないわ。次の質問をどうぞ。」
姫奈の龍平を見詰める眼差しはとても冷たかった。これまではずっとこんな顔色をする姫奈を避けてきた。さりとて、今日ばかりはそういうわけにはいかない。僕だって真剣に姫奈に立ち向かうのだ。姫奈にも迂闊な答弁は許さない。
「あなた馬鹿?現れは最小限に控えるという美学があるわ。わたしは思い遣りの欠如に起因したあなたの説明不足を受け容れたのだから、あなたも美学に起因したわたしの黙秘を受け容れなさい。」
龍平は退学する理由も実家に帰る合理的な動機をきちんと弁明している。しかし、姫奈が欲しがるのはそういうこととは違う。なぜ、僕について来いと唱えないのかと質しているのだ。
「あなたは本当に馬鹿な男ね。わたしが聴かなきゃなにも気付かない。言わなきゃなにも気付かない。わたしの気持ちを心得ようとする想いがないのかしら。
わたし達これから上手くやっていけるのかしら。不安で仕方がないわ。だから、連れて行ってちょうだい。これだけ頼めば受け止めてくれるでしょう。」
うん、と肯くことは出来なかった。龍平にだって連れて帰りたいという願望はあるのだ。ただ、ふたりはもう子供ではないのだ。希望だけで立ち振る舞うわけにはいかない。
姫奈に幸せを約束することが難しい。龍平はまだ、女を幸せにする為に必要なものをなにも持ち合わせていないと認めているのだ。自分の身勝手を押し通しているのではない。姫奈に気に配っているから、僕について来いとは言えないのだ。
姫奈だって龍平の気持ちを分かっていないではないか。人間とはそういうものである。口にしなければ通じ合うことはない。
しかし、中馬姫奈という女は少しだけ人間の枠を踏み越えているのかもしれない。龍平の思惑を的確にかぎ分けたそのうえで更に欲求を唱える。人の思惑を超えてくるということは凄まじいと思われるかもしれないが、これでも姫奈はいつもと比べると随分と弱々しい。
「わたしはあなたの身体に触れていないと不安だわ。あなたの隣にいることがたったひとつの悦びなの。唯一不安から解き放たれるひとときなの。
あなたの傍らにいることが出来ないと心細くて、寂しくて仕方がないわ。存在が不確かな影に怯えてしまいそう。ひとりで明日を探すことなんてもう出来ないわ。声を聴くだけでは心細いの。あなたを肌で感じていないと生きていけない。互いに感じ合っていないと凍えてしまうのよ。」
姫奈はこの世でただひとり僕と真実の愛を共にする可愛い人ではないか。恋をするのをやめるわけではない。ただ、少しだけ遠ざかるだけだ。その距離はたいしたものではない。心さえあれば容易に埋めることが出来るではないか。姫奈への情熱が冷めたりはしない。姫奈さえ龍平を憶えていてくれたら、ふたりはいつまでも結ばれたままでいられるではないか。
龍平はこれまでよりずっと姫奈を愛おしむ気分を口にして伝える、もっと真面目に向かい合う。だから、距離が離れるだけで寂しいなんて言わないで欲しいのだ。今も毎日姫奈の顔色や言葉遣いを想い浮かべることで龍平の生活は支えられているのだ。姫奈を恋い慕うことを怠ったり忘れたりすることなどあり得ない。それは契りではなく、必然なのだ。姫奈が大学を卒業するころまでには一人前の大人になると誓おう。そうしたら、一緒に暮らそうと言う。
姫奈は龍平が彼女を慕う以上に彼を慕っている。それでも彼のことを憶え続けることが出来るか不安なのだ。一見、姫奈が理想を語って龍平が現実を見詰めているようであるが、実はその逆なのだ。姫奈は肉体的な寄り添いを求めるが、龍平は精神的な寄り添いがあれば侘しいことはないという。龍平の説得にはリアリティはあるが、まったくリアルではないのだ。
目の前の姫奈はいつもの朗らかしさも晴れ晴れしさもないし、もちろん冷たい目もしていない。だからと言って、切ないだけでもない。どこか果敢な様子がした。
「もういいわ。あなたの好きなようにするといい。わたしもそうするわ。あなたと愛し合うことが幼い頃からの夢だった。でもわたしにはあなたの他にもうひとつ焦がれるものがあるの。それに夢中になればもうあなたを求めることもなくなるわ。
あなたが後にどんなにわたしを求めても、わたしはそれに応えるかどうか分からないわよ。あのとき、もっとわたしを大切にしておけば良かったのだなんて後悔してももう遅いのだから。」
そうだろう。姫奈に必要なものは僕だけではないだろう。望む道を行けばいい。僕は裏切ったりしないから。大人になったら必ず迎えに行くから。
飲みかけの缶珈琲を残して姫奈は部室を去ろうとした。背中に向かって龍平は語りかける。一週間後の正午の新幹線で故郷に帰る。見送りに来てほしいと。姫奈は、
「糞餓鬼。」
と言い残して出ていった。龍平は大人のように振る舞ったつもりだったのだが。姫奈の言を真摯に受け止めるように努めたが意味が理解出来なかった。
いよいよ東京を発つ電車に乗らなくてはならないときがきた。しかし、姫奈は約束の時間になっても顔を見せない。そもそもこれは約束だったのだろうか。約束とはふたりが納得して合意したことをいうのではないか。
あの日、姫奈は見送りをしてくれることに頷いてくれなかった。そして、姫奈が大学を卒業する頃には迎えにいくから待っていてくれという要求にも頷いてくれなかった。僕達はなにも約束していないのではないか。約束に至らずひとりよがりで去るのは哀しい。
もう一度あの可愛らしくて、凛とした顔を見てから想い出の詰まった街から離れたい。終電の時刻二十一時四十分までホームで待ったが姫奈は顔を見せないし、電話にも出てくれなかった。
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