第17話 文才あるもの語る。面白い小説・文章

 旅行の当日。集合の時間になっても東京駅の改札前には龍平の姿しかなかった。颯太ともうひとりの二年生の女と姫奈は時間を十五分過ぎても現れない。なんとも不安になり颯太に電話をすることにした。呼び出し音が虚しく響くが龍平はしばらく待った。やっと電話に出てくれた颯太の声は明らかに寝ぼけている。だらしない男だなと龍平は思ったが、颯太の受け答えを聴いて腰を抜かした。颯太はそんな旅行の計画は知りもしないという。同伴すると聴いていた二年生の女も帰省しているはずで東京にはいないはずだと言う。


 つまり龍平は姫奈の罠にかかったのだ。さすがに機嫌を損ねる。もう帰ろうとしたそのとき、姫奈が息せき切って駆け寄って来た。


「ごめんなさい。遅くなって。色々と準備をしていたら遅くなってしまったの。さあ、行きましょう。」


 四人での旅行だと聴いていたのにこの場にふたりきりしかいないことを質す気にはならなかった。どうせ姫奈は内省などしないだろうし、気を利かせたつもりでいるのだろうから。 


 出まかせを並べられたことは多少忌々しいが、結局龍平にとって棚牡丹であったのだから。

 

 東京駅から地下鉄に乗って代々木上原まで向かう道中では、姫奈は借りてきた猫のように口をつぐんでいた。龍平の機嫌を損ねていると思い浮かべていたのだろう。しかし、代々木上原で特急電車に乗り換えた頃からはいつもの彼女に戻っていた。生来神妙にしているのが苦手な女なのだから。

 

 龍平に語りかけてくる題目はもっぱら芥川にかかわるものだった。やむを得ないことだろう。今日からの周遊は芥川に縁のある地を訪れ、芥川に精通することが目当てなのだ。龍平も芥川のことを好きなことを姫奈は知っている。だから、こんなことを聴いた。


「あなたは芥川のどこが好きなの?」


 答弁するのが厄介な問いかけだ。慈しむものに事情などないのではないか。ただ肌が合うから好むのだ。龍平は素直にそう返答した。


「あなたは相変わらずなにかを噛み砕いて血肉とする力に乏しいのね。そのうえで自分の意見を弁ずることが下手くそなところも相変わらずね。もうそろそろ一皮剥けていると期待したのに。」


 では、姫奈はどう口述するのか。嫌味ではなく純粋に関心があったので聴いてみた。


「芥川はわたしの好きな文章を書いてくれるの。わたしの好きな文章はね。綺麗な文章で、かつ生々しい文章なの。綺麗な文章というのは論理的で、無駄がなく、美しい言葉を使って、分かりやすい比喩表現を使った文章のことかしら。他にも綺麗な文章を作る要素は色々あるけど例えばそんな文章のこと。生々しい文章というのは登場人物や語り手の感じていることが伝わってくるような文章のことよ。もちろん文筆家の感情や思想が詰め込まれたものが一層好きだわ。


 でも、大切なのはそのバランスなの。いくら綺麗な文章でも川の流れのように目の前を通り過ぎていくだけの文章は好きじゃない。読んでいてストレスを感じない文章には惹かれない。ストレスを感じることを好むのなんておかしいことかしら。そんなことはないわ。ストレスを感じるからその文章に夢中になれるの。不満を感じるから燃えてくるの。


 だけど、生々しくてストレスだらけで感情的になるばかりの文章も嫌ね。感情移入をし過ぎるわたしをどこかで現実に引き戻して欲しいと感じるの。ストーリーや登場人物にのめり込み過ぎてしまったわたしを一気に冷却させてくれるような文章が望ましいわ。

 

 文章の中の世界とこの世をなんども往復させてくれるような文章を読んでいるときが一番気持ちいい。物語がわたしを深い海の中に連れて行ってくれるのだけど、息が詰まって死んでしまう前に強い力で水面まで引き上げてくれるような文章。わたしをなんども苦しさと快楽の往復をさせてくれる文章。そんな文章がわたしの好みね。

 

 だから、わたしは初めてページを捲った本を一息で読んでしまうという文章はあまり好きではない。何度も何度も息継ぎをしながら、何度も堕ちて行く感覚を味わいたいの。それは長編であっても短編集であっても同じことよ。」

 

 龍平はやけに嘆美してその場で小さく手を叩いた。姫奈の批評は期待以上の質だった。ああ。これこそが龍平の憧れた姫奈である。自信たっぷりで威厳のある高らかな声で隙のない私見を述べる振る舞いに品格があり美しいのだ。龍平はこれまで僕自身を尊ぶ従順な女としか、かかわったことがない。 


 姫奈はそれらの女とは対極にある。龍平にとっての憧れであるのだ。憧れというものは自らの理想の延長上にあるものだ。そういう意味では憧れと言うのは語弊があるかもしれない。姫奈は龍平の模範の枠の外にある女なのだ。こんな女が潜在すればいいなと求めたことや想像したことすらない。そんな姫奈に好感を持たないはずがない。姫奈は期待以上にそそるのだ。


 電車が湯河原に着いたのは十三時前だった。ふたりは駅の近くで蕎麦を食べてから散策を始めた。旅の予定は姫奈の頭の中に入っているだけで龍平はついて歩くだけ。湯河原という街は文豪が愛した処だった場所らしく、夏目漱石や与謝野晶子や谷崎潤一郎に所縁のある旅館や建物の跡地を巡った。


 姫奈はなんとまあ満足そうな顔をする。こんなに笑顔を長持ちさせる姫奈を見るのは初めてだ。普段は微笑を見せるのは一瞬なのだ。その後すぐにむずかしい顔をする。だから今日は龍平にとっても吉日なのだ。

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