第五話 朝のひと時


目が覚めた。女の規則正しい寝息が聞こえてくる。この部屋には窓が無い上、城の中だ、太陽が届くはずもない。時計は壁にかかっていたが、俺は字が読めないので何時かわからない。


暇だな。外の空気でも吸いに行きたいが、この体で歩けるかどうか。そうだ、どのくらい動けるか検証してみよう。寝返りは、よし、なんとかできた、第一関門クリアってとこか。さてハイハイはどうだ。身体をベッドのふちに向けるために、時計回りに旋回してみる。んん?意外と動けるぞ?第二関門クリア。ベッドのふちまでハイハイで進み、床を覗き込む。


「んん~~・・・」


これは、思ったより怖いな・・・。身体が小さくなると一気に世界が変わって見えて、1m程の段差がまるで断崖絶壁だ。ん?崖なら昨晩飛び降りたな。


(やって、みるか)


先ず、体を左に旋回。体の右側面をベッドのふちギリギリに寄せる。そしてゆっくり、ゆっくり右足を中空へ・・・。


おし、ここまで来たら行くしかないだろ!更に体を左に旋回して、下半身を宙ぶらりんにする。後は床に足が着くまで後ろにずり下がるだけ。くッ、長い、まだか床は!もう胸までふちに来ているぞ!


「ふぅぅぅーー」


俺は覚悟を決めた。落っこちるリスクはあるが、いくしかない!


かわいらしい腕に力を籠めベッドを押し、胸を一気にずり下す。


「うぅっ」


ずしんと足に衝撃が来た。痛い。


「うぉ、お、あ」


重心がずれ、コロンと後ろに一回転。ちょっと目に涙が滲む。泣かないぞ、クソ。


今の足の感触から察するに、多分立てる。この体は生後一年ってところだろうか。


しかし、ここで重大な問題に直面した。


ドアノブに、手が届かない。


(ここまで、か・・・)


ああ、すべて徒労に終わった。畜生、詰んでいやがる。俺は体育座りでドアノブを恨めしそうに睨み付ける。


(何やってんだろ俺)


貴様との戦いはまた今度だ、ドアノブよ。


手持無沙汰でぼーっとしていると、急に疑問が湧いてきた。前の世界の俺はどうなっているのだろう。


消えたのか、死体は残っているのか、はたまた存在自体無かったことにされたか。




(もし失踪なんてことになってたら、どうなるかな)




親は、多分泣く。しかしそれは俺の失踪を悼んでのことではない。自分が一番可愛い人達だから、息子が居なくなった可哀そうな親、という設定で周囲の人たちの注目を集めようとするだろう。そのために泣きわめき、同情を買うために必死になって、ひとしきり構ってもらったらそれで終わり。俺の捜索などロクにしないだろう。後は一人だけ、親友と呼べそうな奴がいる。そいつには申し訳ないな、礼の一つも言えずに消えちまった。しかし、失踪した俺を見つけ出すために捜索隊を組んだりすることは無い。そのくらいの距離感だ。バイト先は、俺が居なくなっても回る。所詮は一介の学生に過ぎないのだから。


少し引っかかるのが、俺がこの体になるはずだった男の子の人生を、奪ってしまったのかもしれないことだ。まぁそれは俺のせいじゃないと言えばそれまでだが、どこかに割り切れない自分がいる。


俺にできることは、この子の分まで幸せになることだろうか。月並みだが策がそれしか浮かばない。そうすることで俺は、罪悪感に悩まされずに生きることが出来るだろう。


覆水盆に返らず、切り替えろ。正論だ。だが、俺はそこまで強くない。


(ゴチャゴチャ理屈捏ね繰り回しやがってクソ野郎が。ホントは全部どうでもいい癖に)


醜く自己正当化に勤しむ自分に反吐が出る。でもそうしていないと自分を保てない気がするのだ。それもきっと、弱さ故。


(ああ、くそ!だめだ、良くない。せっかくの幸せに生きるチャンスじゃないか!俺の得にもなるし、この体の本当の魂のためにも、それがいいだろ!)


俺は頭を振って良くない考えを追い出す。落ち着け、落ち着け。考えてもしょうがないことは考えるなよ。まずは目の前のことだろうが。




「ん・・・。あれ!?ジェット!?」




布団を蹴飛ばし体を起こした女と目が合った。


(あ、やべ、怒られる)


そう思った途端に、身体が硬直してうまく動かせなくなる。それと同時に、子供の頃の記憶がフラッシュバックした。何でもない、子供の失敗。精々ちょっと忘れ物をしたとか、コップの水を溢したとか、その程度の。そして、そんなことで俺にキレ散らかす母親。ビンタされるとき、あからさまに避けると余計に機嫌が悪くなるんだよな。だから、さりげなく衝撃を逃がすのが上手くなったっけ、


女がベッドから飛び降りてこちらに近づいてくる。


(殴られる!!)


咄嗟に腕で顔を守り、体を縮めて腹部を守る。


「良かった。どこへ行ったかと思ったぞ~?」


女は俺を抱き上げる。


(あれ?)


「焦らせてくれたな?ま、おかげで目が覚めた。食事にしよう」


殴らないし、怒鳴ったりもしないのか、この人は。


俺を左手で抱えながら、女は扉を開け部屋を出ていく。


「さぁ~て、離乳食など作ったことはないが、取り合えず柔らかくすればいいのかな?」


沢山の窓から光が差し込んでいて城内は明るく、塵が浮いているのが白く輝いて見える。


不思議な気分だ。前の世界で味わったことがない、何とも言えない気分だ。


しかし、悪い気はしないな。


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