5 白い草原の名を持つ男

 皮膚がひりひりとする。熱湯をかけられたのだ。当然、火傷になっている。


 アリーシャは足を強く踏みつけながら自室へ戻ろうとした。

 途中の薔薇の風景など一切気に留められない。


 最低な男である。何度だって言ってやる。最低な男である。


 ぶつぶつと聞こえない程の小さい声でアリーシャはヴィクターを詰った。

 ヴィクターの名前を出さないように注意するだけの理性はまだあるようだ。

 通りがかりの侍女らはアリーシャの姿をみてくすりと笑っていた。

 今は何とも思わない。ヴィクターに比べれば可愛らしいとさえ思える。


 自分に対して冷たい視線を送ることしかしなかった男、王太子ヴィクターのことを思い出すと苛立ちで頭が沸騰しそうだ。


 花姫はあの男の妃、花嫁になるための教育制度である。

 今自分がこの王宮にいるのはあの男の花嫁になるためである。


 冗談ではない。こちらからお断りである。


 今となっては処刑が決まる前まで王太子の花嫁になることを期待していた自分が哀れでならない。

 一刻も早く2回目のジベールへの直訴を考えなければならない。

 曲がり角からすっと黒い影が出て来たのに気づかずアリーシャは思い切り体当たりしてしまった。

 相手を弾き飛ばしてやると威勢よく考えていたが、あっさりと跳ね返されてしまった。アリーシャは空しく後ろへと倒れ尻もちをついてしまった。


「失礼、大丈夫ですかっ」


 聞き覚えのある男の声にアリーシャは首を傾げた。


 誰だっただろうか。


 顔をあげてみてアリーシャは口をぽかんと開けた。

 黒髪に合わせたかのような黒い外套を身に着けた長身の男であった。ヴィクターよりも背が高い。


「あ、あなたは……」


 思わずアリーシャの声は震えた。その様子に男は差し伸べた手を一度引いてしまう。

 一瞬だけでも陰りをみせた顔は美しく一瞬見とれてしまった。

 男の声と顔で思い出した。

 この男は回帰前のアリーシャの首を刎ねた男である。

 名前は何といったかわからないが苗字は知っている。山村にいても彼の苗字はアリーシャの耳に届いていた。


 シャーリーストーン。


 代々、処刑人を輩出する家門の名である。

 死神と呼ばれ、多くの人々から畏れられていた。本名を呼ぶのも畏れられ、二つ名で呼ばれることの方が多い。


「もし宜しければお使いください」


 アリーシャの顔をみて男はハンカチと軟膏の入った容器を差し出した。

 よほどひどい顔をしていたのだろう。

 突然の男の声にアリーシャは思わず受け取ってしまった。

 触れたその時に思い出したのは彼がアリーシャの肩に外套をかけてくれたことだ。

 処刑前、悪女と罵られ石を投げつけられたアリーシャを気遣ってくれた男だと実感した。


「捨てていただいても構いません」


 男は困ったように笑い、立ち去ろうとした。


「お待ちになってください」


 アリーシャは立ち上がり男を呼び止めた。


「名前を教えてください」


 アリーシャの言葉に男はしばらく沈黙した。何を言っているか理解できなかったのだろうか。


「返す時、お礼の手紙を書きたいのであなたのお名前を聞きたいの」

「返す必要はありません。そのまま捨てていただければよいです」


 必要以上に接触されるのを避けようとする態度にアリーシャは面白くないと感じた。


「何故そのように言われるのですか?」

「私の名をご存じでしょう」


 先ほどのアリーシャが震えた様子で自分の名を知っていると思ったようだ。


「ご存じないから聞いているのよ」


 苗字は知っているが、名前は知らない。あの時は他人の名前を新しく覚える気力がなかった。

 仮に死神と呼ばれていても男は紳士だとアリーシャは知っている。

 淑女が名前を知りたがっているのだから答えるべきであろう。

 なかなか解放しようとしないアリーシャに男はようやく自分の名を教えてくれた。


「シオン・シャーリーストーンと言います」


 丁寧な所作でアリーシャに恭しく礼をした。名乗り終えた後に陰りのある表情を浮かべる。

 改めて処刑人の名であると知られてアリーシャの反応に身構えているのだ。


「綺麗な名前ですね」


 アリーシャの言葉にシオンは驚いた表情を浮かべた。じっとアリーシャを見つめる。


「その軟膏は1日2回朝夕綺麗な水で洗った後にお付けください」


 照れた様子で説明口上を述べ、ささっとアリーシャの前から立ち去った。

 アリーシャより年上の癖に初心な反応が可愛らしい。

 あの時は落ち着いた様子の男だと思っていたが、面白い一面を持っているのだな。そう思うと気分がよかった。

 この時は王太子への苛立ちが消えていたことにアリーシャは気づかなかった。


   ◇   ◇   ◇


「お帰りなさいませ、アリーシャ様」


 部屋に帰った時、変わり果てた自身の部屋にアリーシャは茫然とした。くすんだしみだらけのカーテンは取り替えられ、床には埃が一切見当たらなかった。ずっと変えられることがなかった寝台のシーツも真新しいものに変わっている。

 そして何よりも自分を迎え入れた侍女は知らない少女であった。エリーではない。どこかで出会ったような気もする。


「あなた、だれ?」


 つい口にした疑問に侍女はてへっと笑って改めてカーテシィを披露して名乗った。

 ふわりとスカートが翻り、その一部をちょんと手でつまんだ仕草は愛らしく感じる。


「私はドロシーと言います。本日からアリーシャ様のお世話を任されることになりました」


 思い出した。

 処刑される前に塔の中でアリーシャの世話をしていた侍女である。

 花姫、侯爵令嬢であるため世話人が必要だと自ら名乗り出た少女であった。

 好奇心旺盛でお喋りな娘でアリーシャは彼女の他愛もない世間話に耳を傾けていた。彼女の訪問は1週間に2回だけであったが、それでも時間潰しに丁度よかった。


「ドロシーという名前だったのね」

「そうです。お掃除、お茶、衣装合わせが得意です」


 突然始まった自己アピールを他所にアリーシャはエリーがどうしたのだと質問した。


「エリーさんは異動になりました」

「異動って、どこへ?」

「ベルタ宮です」


 ベルタ宮は首都から随分離れた場所で今は皇太后が過ごされている場所だったはず。


「花姫の為の侍女のはずがお仕事をきちんとこなせておらず、クレア様……こほん。ベルタ宮の女官長が教育を引き受けると言い私と交換になりました」


 ドロシーはこの前までベルタ宮に所属していたのだ。だから見かけない侍女だったのか。


「ああ、お顔が……どうしたのですか?」


 アリーシャの熱湯をかけられた火傷の痕をみてドロシーは慌てた。


「お水と清潔なタオルを持ってきます」


 ささっと持ってきてアリーシャの顔と首筋を濡らしたタオルで綺麗にしていく。


「この軟膏、とても良いものですよ。このくらいの火傷の痕なら数日でなくなりますから」


 先ほどシオンからもらった軟膏を触りながらドロシーは目を輝かせた。


「白い草原の軟膏は人気が高くてなかなか手に入らないのですよ」


 白い草原というのは製薬会社の名前らしい。

 アリーシャも聞いたことがある。傷薬の質がたいへんよく行商人にお願いして取り寄せた同郷人がいた。値段を聞いて当時のアリーシャはめまいを覚えた。


 そんないいものをシオンが譲ってくれたのか。


「それより驚きましたね。王宮の人たち、反応が鈍くてびっくりしました」


 先ほどの様子を思い出したようだ。アリーシャの火傷の為に綺麗な水とタオルが必要だと言っても誰も動いてくれず自分で全部揃えたという。


「あんなの、クレア様が聞いたらかんかんですよ」


 うふふと笑うドロシーの顔が妙に迫力があったように思う。

 応急処置をしてもらいアリーシャはジベールの部屋へと向かった。

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