第37話 すまなかった
同時刻、物陰にて。
「……もうちょっと早く、止めに入れただろう」
壁にもたれて座り込みながら、ヴィッキーはぽつりと恨み言を口にした。彼女の肩は、隣に寄りそう若い男に密着している。
満身創痍のヴィクトリアは上半身を起こしているのもやっとの状態で、地面に足を広げて投げ出していた。ちまたで人気のクマのぬいぐるみみたいな座り方だ。体裁を取り繕う余裕も失っており、口調も粗野で少年のよう。まるで貴族令嬢らしくない。
対し、すぐ隣に腰を下ろしている男は、立て膝に肘を置き、何事か考えを巡らせているようだった。そうしてしばらくしてから発した彼の言葉には、珍しく飾り気がなかった。
「最短で、あのタイミングだった」
最短であれだって? 本当か? ヴィッキーは身じろぎして、男の肩に顎を乗せた。そうして彼の端正な横顔をジロリと睨み上げる。――色っぽい気配は皆無であるが、距離自体は恋人同士のそれのように近い。
とにかくヴィクトリアは疲れ果てており、色々なことに気が回らなくなっていた。口もききたくないと思っていたのに、こんなふうに刺々しいとはいえ、普通に話しかけてしまっている。あとになったら『畜生! 私としたことが!』と後悔するのかもしれないが、とにかく今の彼女はそれどころではなかった。
最低最悪の権化――クリストファー・ヴェンティミリアは物憂げに瞬きし、観念した様子で傍らのヴィッキーを見おろしてきた。
相変わらず何を考えているのか分からないポーカーフェイスをしているものの、こちらを見つめる視線には、彼らしい余裕やからかいの色がない。
「――すまなかった」
クリストファーが謝ってきた。けれど謝られても、ヴィクトリアの気は治まらない。それは何に対する詫びなのだと、腹が立ってくる始末だ。
すまなかったとは何が。人を騙して利用したこと? これまで散々振り回してきたこと? 本来クリストファーがすべき聖女の躾(しつ)けを、こちらに丸投げして押しつけたこと? 半死半生の状態になるまで放置したこと?
――笑わせるなと思った。謝るなよ。いっそ謝るな。利用するなら、最後まで道具のように扱えばいい。使えるだけ使ったら、もう用済みだと、通りに放り出したまま、自分はさっさと帰ればよかったんだ。
お偉い王子様のくせに地べたに腰を下ろして、怪我人のおもりなんかするなよ。くそったれ。今度こそ舌打ちが出た。ヴィクトリアはジロリと目力を込めてクリストファーをふたたび睨み上げる。
――ところで、彼女自身は大層恐ろしげな顔を作っているつもりでも、受け取る側もそう感じているとは限らない。今回のように、女性が男性に対する懲らしめとして浮かべる顔であるなら、それは別の効果を生むこともあるだろう。
クリストファーは瞳を細めて、困ったように黙り込んでしまう。だからヴィクトリアの悪態は止まらなくなる。
「手が滅茶苦茶痛い」
「ああ」
クリストファーがそっと手を伸ばし、彼女の右手をすくい取った。それは壊れものを扱うかのような慎重な手つきだった。
子供をあやすような彼の仕草に、ヴィクトリアは思わず膨れっツラになる。
「肩も痛い。ゴリラ女に力任せに殴られた」
「……ゴリラ女。君は口が悪いな」
「笑いことじゃないぞ。全部お前のせいだ」
「なぜ僕のせいなんだ?」
「聖女はお前のことが好きなんだ。だから」
ヴィクトリアはムクれたまま、ボソボソと呟く。
「だから私が怪我をしたのは、お前のせいだ。完全にとばっちりだ」
「それはすまなかった」
クリストファーの声が柔らかい。子守歌を聴いているみたいで、眠ってしまいそうになる。
ヴィクトリアはぼんやりしてきた頭で考える。……ペギーはどこへ行った? うちの侍女は、肝心な時にいないな。王子が出て来たから、恐れ多くて近寄れないのかな。別にいいのに。さっさと邪魔しに来てくれよ。
「本当に悪いと思っているのか?」
ほとんど脳味噌を使わずに悪口が出る。これはヴィッキーの特技なのか、それとも一緒にいるクリストファーのせいなのか。
「さぁ、どうだろう」
クリストファーが答える。――この野郎。どうだろう、じゃないよ。
でも、なんでだろうな。肩の力が抜けてしまった。今の答えは、少しだけ気に入ったかも。――さぁ、どうだろう、だって。馬鹿じゃない?
そんなことを考えていると、クリストファーが口を開いた。
「聖女が君のあとをつけているのは、把握していた。――しかし、少々揉めたとて、君の圧勝だろうと軽く考えていたんだ」
「だから放っておいたのか?」
「そうだ」
ふぅん。ヴィッキーはぼんやりと地面を見おろす。そう言われてしまうと、ズタボロにやられてしまったのが、なんだか格好悪いような気がしてきた。
――まぁヴィクトリア本人だって、聖女が喧嘩を吹っかけてきた時点では、危険はないと考えていたわけだ。だからクリストファーが読み間違ったとしても、強くは責められない。
「――それで?」
先を促すように尋ねると、クリストファーが淡々とした調子で答える。
「ほかにすることもあったから、すぐに君のあとを追わなかった。しかし途中で何かが明確に変わったのが分かった」
それは聖女が呪文を唱えた、あの時だろう。元勇者はあの異変にちゃんと気づいたのか。転生して、今は能力を失っているくせに。
正義の味方ってか。ヴィッキーは皮肉気な笑みを浮かべる。こいつは正義とは真逆のツラをしているのにな。
「教会の鐘は、クリストファーの仕込み?」
「苦肉の策だ」
クリストファーが小さく息を吐く。
「地元の子供に鐘をつかせることにした。実際に手筈を整えたのはノーマンだが。それで――僕がここへ駆けつけたのと、鐘が鳴ったのが、ほぼ同時だった」
ノーマンはここにはいないから、子供に指示を出すために、途中で別れたのだろう。
ヴィクトリアは口の端を上げ、意地悪い流し目を傍らのクリストファーにくれた。
「お前。――鐘が鳴る直前、聖女の額に銃口を向けたな」
これにクリストファーは虚を衝かれたようだ。
「僕は君の死角にいたはずだ。なぜ分かる?」
「分かるさ。私は殺気には敏感だからな」
クリストファーが聖女を処刑していたら、一体どうなっていただろうか。ヴィクトリアは考えを巡らせる。政治的にまずいことになっていたのは間違いない。
だから意外だった。これまでのクリストファーの言動を考えると、聖女を撃つことなどありえない。ところがあの時の彼は本気だった。鐘の音が鳴らなければ、聖女の息の根を止めていたはずだ。
しかし彼がそれをするメリットがない。――なぁ。気づいているのか、クリストファー? お前は時々、発言と行動がチグハグなんだよ。
露ほどの興味もないと言い放ったあとで、こんなふうに助けに入ったりして。まったく馬鹿げている。
クリストファーがヴィクトリアの手を引き寄せ、血の滲んだ彼女の白い肌に、そっとキスを落とした。それは優しい仕草だった。
接触のあと、ヴィクトリアは身体がスッと楽になるのを感じた。――なんだこれ。元勇者は、こんなまやかしも使えるのか? ズルイじゃないか。こっちは転生して、何もかもを失っているのにさ。
「――今のは、魔法か?」
そろそろ限界に近かった。ヴィクトリアの身体は休息を必要としている。少し舌っ足らずに尋ねると、クリストファーがくすりと笑みを漏らす。
「そんな大層なものじゃない。まじない程度だ」
「キザなやつだな」
「いいからおやすみ、ヴィクトリア」
彼の優しい声音に従い、ヴィクトリアはそっと瞳を閉じる。……ああ眠い。眠い……
爽やかな風が頬を撫でていく。ほかに感じ取れるのは、クリストファーの上着の感触と、彼のぬくもり。そして。
――ゴーン、ゴ、ゴーン、ゴン、ゴー……ン、ガゴゴン――
まだ鳴っている。一体いつまでやる気だ。
「――おい、いい加減にしろ! ひどい鐘の音だぞ!」
ヴィクトリアは目を閉じたまま、眉間に皴を寄せて怒鳴った。クリストファーが苦笑混じりに、なだめるように彼女の髪を撫でる。
ヴィッキーが意識を保っていられたのは、そこまでだった。
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