第13話 私だけに笑いかけて
「……どうしたらキュンとなるんだ?」
陛下は執務机のほうに背中を向けるようにして、かたわらに佇むソフィアに対しては、今ではほとんど正面から向き合っている。椅子に腰かけたままの陛下が自然な動作で手を引くと、繋がれているソフィアはまた半歩彼のほうに近づいていた。
強引な手つきで引き寄せられたわけでもないのに、ソフィアの心構えがグラグラなせいなのか、何をされても抗えそうにない。
「どうしたらキュンとするかなんて、分からないわ」
「もっと近づいてもらってもいいか?」
「え」
「嫌なら拒絶してくれ」
たぶんノアはほとんど力を込めていなかった。誘うようにさらに引かれ、ソフィアは膝からカクンと力が抜けて、彼の足の上に腰を落としてしまった。少し開いていた彼の足のあいだに入り込み、左腿に腰を下ろした形だ。
ノアはソフィアが滑り落ちてしまわないように、スマートな手つきで彼女の腰を支え、さらに引き寄せた。ふたりの顔がありえないくらいに近づき、恋人同士の距離になる。ソフィアはすっかり混乱していた。
「わ、私、どうしたらいいの?」
「この距離はつらい?」
彼の声音は穏やかで、落ち着き払っているのに、それでもどこかに艶っぽさのようなものもあった。こちらを見つめるブルーアイが微かに細められ、美しく煌めいている。
「つらいっていうかぁ……ふわーん」
狼狽したソフィアは瞳を揺らし、どうしようもなくなって、彼の肩に手のひらを突く。
それでようやく、ノアが例のブローチをつけていないことに気づいた。
「……ブローチ」
「うん」
「どうして今日はしていないの?」
「君のおかげ」
「私の?」
「先日、君が俺を楽にしてくれた」
視線が絡む。彼が口にした内容は、ソフィアにはとても不思議に感じられる。
「私は何もしていないわ」
「あのブローチは浄化装置なんだ。私は魔力保有量が多すぎて、それが自分自身を内側から傷つけてしまう。魔法を行使することで残量を減らしたとしても、その澱(おり)のようなものは体内に残るのでクリーンにはならない。その手の澱は通常は休息を取れば排出されるはずだが、私の場合は人間が処理できる限界量を超えてしまっているのだろう――……それに睡眠を取るとまた新たに魔力が溜まってしまうので、キリがないんだ。普段はああいったアイテムを使ってやり過ごしているんだが、そろそろ限界がきていた」
「限界?」
「あれは国宝級の代物で、もう替えがない。あの手のものは使用しているとやがて摩耗し、壊れてしまう。君が触れようとしたあれは七つ目で、もうギリギリのところまできていた」
「アイテムが壊れたら、あなたはどうなっちゃうの?」
「無事では済まないだろうな」
「命に関わる?」
「そうだね」
「私に何かできる?」
「俺を助けることができる――それは君にしかできない」
乞われたソフィアは真っ直ぐに彼の瞳を見つめ返した。
――ノアは彼女の瞳を覗き込み、やはりあたたかみと哀しみが交ざり合った、不思議な色合いの虹彩だと考えていた。
「このあいだ……私があなたを少し楽にできたの?」
「ああ」
「でも完全には治せなかったのね?」
「そうだね。定期的に同じことをしてもらわないとだめみたいだ」
「私……自覚なく、浄化の魔法を使ったのかしら?」
「そうだと思う。とても強い魔法だった」
「あのね、あの……やっぱりあなたは、聖女のマギーさんに同じことをお願いしたほうがいいかも」
「……彼女ともこうして触れ合えと?」
陛下のその問いは、辻褄が合っていないように思われた。
というのも、マギー・ヘイズはソフィアと違って胸がキュンとしなくても魔法を使えるのだから、治療に際してふたりが触れ合う必要はないからだ。
ということはつまり先の台詞は、肌の触れ合いそのものではなく、どちらかといえば心の触れ合いのほうを指しているのかもしれなかった。
「命に関わるのなら、そうしたほうがいいわ」
「彼女にはこれをしない」
「だけど」
「……俺は君を困らせている? ソフィア」
とても困らせているわ……とソフィアは思った。頭の中はグチャグチャだし、心の中は嵐だ。目の前にいる彼の瞳から視線を外せないし、こんなに心臓がドキドキしているのって、たぶん病気じゃないかしら? 目元もじわりと熱いし、なんだか潤んでもいる。
「私……あなたを治せたらいいのにと思う」
「よかった。じゃあ協力してくれる?」
「ええ」
「どうしたら胸がときめく?」
ふたたびそれを問われ、ソフィアは息を呑んだ。ど、どうしたら……? どうしたら、って、そんなの……。
「私、優しくされたいわ」
「分かった」
「あ。でも、今でも十分に優しいわね」
「それなら、ほかには?」
「そうね、笑いかけてほしい。あなたはいい人だと思うけれど、ちっとも笑わないから」
「……怖い?」
「怖いというか、寂しい……ねぇ、笑って?」
「難しいな」
「助けてほしいなら、それが条件よ。私だけに、スイートに笑いかけるの……いつも。いつもよ」
「君を褒めるだけじゃだめ?」
「褒めるって、どんなふうに?」
彼は少し考えるように間を置き、やがて肩の力を抜くと、大切な人を慈しむような視線でソフィアを見つめた。
それはソフィアにお願いごとを聞いてもらうための演技なのかもしれなかったが、対面している彼女には、彼の本気が込められているように思えたのだ。
ノアが伸ばした左手のひらが、ソフィアの背中にそっと当てられる。
――ソフィアは彼に抱み込まれ、護られている心地になった。助けを求めているのは彼のはずなのに、ソフィアには逆のように感じられた。
「君との出会いは、私の人生で最高の出来事だった。――可愛いソフィア、お願いだから、どうかずっとそばにいてくれないか? 君のお喋りを聞いていたいんだ」
「……いいわ。じゃあ」
「何?」
「もう一回、『可愛いソフィア』って言って。今のやつ、気に入ったわ」
ソフィアが冗談めかしてそう言うと、彼の唇の端が上がった……あ……
「――可愛い、可愛いソフィア」
蕾が花開く瞬間を見ているかのようだった。それはソフィアだけに向けられた無防備な顔で、キラキラ光る陽光や、色鮮やかな草原、突き抜けるように澄んだ青空――そんな普遍的な光景にも似た、鮮烈な輝きを秘めていた。
ソフィアはパチリと瞬きした。一拍置き、首の後ろあたりにジワリと熱が広がる。その熱が瞬く間に全身を巡り――……それは対面している彼にも波及していった。
――ノアは彼女から放たれる波動の心地良さに身を委ねていた。あたたかく、人に寄り添うように優しいのに、圧倒されるほどのエネルギーに満ちている。それが彼の中の淀みを綺麗に洗い流していった。
――とうとう見つけた、と彼は考えていた。唯一無二の答えを、彼は見つけたのだ。
夕暮れ時で、空には茜色が混ざりつつあった。大窓の外を流れ星が横切ったことに気づき、侍女のルースはそちらに目を向けた。
ふたたび流れ星。尾を引き、それが消えぬ間に、さらに次が。
異変を感じた側近のイーノクも窓のほうを振り返り、その幻想的な光景を目視した。空を横切っていく、数えきれないほどの光。
――ノアはもう一度夢見るような笑みを浮かべ、彼女に語りかけた。
「君は天才だ、ソフィア」
その声が耳に入り、鼓膜がジンと震える。
ソフィアは彼を見つめ、頬を染めてにっこりと笑みを返した。
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