第39話 とびきりスイート


 馬車での移動中、パトリシアが飽きずに窓の外を眺めていると、クロード殿下からこう言われてしまった。


「外にいいものでもあるの?」


 パトリシアは窓枠に触れている指はそのままに、隣席の彼のほうに振り返った。――今、車内には二人きりである。


「五年間、旅をしたことがなかったわ」


 ずっと自邸と王宮を往復しているだけの人生だった。だからこうして違う景色を眺めるのは、新鮮で飽きない。


 クロード殿下はあちこち寄らなければならないところがあるらしく、ブレデル国を出たあとは東に向かい、その後は北西を目指して、半時計回りにぐるり迂回してアストリュック国に戻るとのことだった。


 このルートならば、途中でふたたびブレデル国の土を踏むこともないようなので、パトリシアはホッとしていた。パトリシアからすると、ブレデル国は故郷というよりも、つらい思い出ばかりが残る場所だった。もっと年月がたてば、もしかすると、全てをひっくるめて懐かしく思えるのかもしれない。けれど今は、とてもじゃないがそんな気分にはなれないのだった。


「旅に出られなかったのは、聖泉礼拝があったせい?」


「ええ。あれは一日も欠かせないの」


 長いあいだずっと『役目を仰せつかったのだから、責任を持って、しっかりやらなければ』と自分で自分を追い込んできた。それなのに終わり方はずいぶんと呆気ないものだった。アレック殿下との婚約破棄とセットで、もうお役御免だと言い渡されて、それきり。


 担当を外されることは、元々パトリシア自身が望んだことだ。以前、『私にはもう無理です』とグレース王太后殿下には伝えてあり、念願が叶った形である。現に、アレック殿下からそれを告げられた時は、とても嬉しく感じた。


 それでも、いざ責務から解放され――朝ケイレブ聖泉に行く必要もなくなって、窓の外をぼんやりと眺めている時に、なんともいえない複雑な気持ちになったのだ。『あんなに頑張ってきたのに、こんなふうに簡単に終わってしまうのね』と。……『今までご苦労様』と、誰かに労らって貰いたかったわけでもないけれど。


 別にパトリシアがやらなくても、代わりの誰かがやるだけで、なんの問題もなかったのだ。そのことはあらかじめ分かっているつもりではいたのに、いざそうなってみると、想像していた以上の虚無感に襲われ、力が抜けてしまった。もちろんホッとしたというほうが大きかったのだが、生活の大部分を占めていたものが突然消えてなくなったのは、結構な衝撃だった。


「これまでに国を出たことは?」


「十四歳になる前に、二度だけ」


「そうか」


 クロード殿下はパトリシアの話を聞く時に、どんなことでも興味深そうな表情で相槌を打ってくれる。さして内容のない、面白くないであろう話であっても、彼は独自の解釈を加えながら、意味のあるものに変えて、消化していっているのだろうか。


 クロード殿下が口角を微かに上げる。


「何? 思っていることがあるなら、言ってくれ」


「あなたは話している時、いつも楽しそうに見えるわ」


 正直にそう伝えると、彼は『おや』という顔をした。


「参ったな。そこまであからさまに態度に出ているとは思わなかった」


「自覚がないの?」


 パトリシアはくすりと笑みを漏らしてしまう。


「君はどう思う? 僕が楽しんでいるとするなら、その理由について」


 パトリシアは考えてみた。


「……好奇心が旺盛だから?」


「それもあるかもね」


「クロード殿下はいつも頭をフル回転させているみたい。たまには考えるのをお休みしたほうがいいわ」


「もしかして――僕が知的好奇心から、君に関心を示していると、本気で思っている?」


「違うの?」


 パトリシアから純粋な瞳を向けられ、クロードは『やれやれ』とため息を吐く。


「僕は君だけに親切で、君だけに関心を向けているとは思わない?」


「それはないわ」


「なぜ言い切れるのか……」


「だってクロード殿下は、ミラーさんと喋っている時も、同じ感じよ」


「嘘だろう?」


 これには心底ぎょっとさせられた。クロードは本当に自覚がなかったからだ。


「本当よ。――ねぇ、本当に、あなたは誰と話している時でも、態度があまり変わらないのよ。基本的に楽しそうだし、たぶん……いつも頭の中で、誰も思いつかないような面白いことを考えているのね。だってあなたの発言はとても変わっているもの。時に皮肉交じりなこともあるけれど、嫌味な感じはしないわ。瞳が輝いていて、チャーミングだから」


 そう語っている時のパトリシアの瞳こそキラキラしていたから、彼女はもしかすると、クロードの良い点を教えてあげているつもりなのかもしれない。けれどクロードからすると、これは微妙な内容だった。


 ――誘拐同然に衝動的に連れ出した意中の女性に、『あなたは私と話している時も、側近のミラー氏と話している時も、同じ態度よ』と言われてしまったのだ。互いの意思疎通について、見直さねばならない点があるのは確かだった。


「君の見解は的外れだと思う」


 台詞こそ辛辣な内容ではあったけれど、声音はどこか甘く、瞳は真摯にパトリシアだけを見つめている。パトリシアは少し混乱して、頬を赤らめてしまった。


「……ええと、そう?」


「僕の態度を見て、君への特別な想いは感じられない?」


「それは……でも……」


「君は窓の外ばかりではなく、別のものも見るべきだよ」


「たとえば?」


「たとえば、馬車の天井とか」


 クロード殿下が指で天井を指し示してみせるので、パトリシアは笑い出してしまった。


「いやよ、私、天井なんて見ない」


「そう言わずに」


「いや」


 彼が戯れのようにパトリシアの腕を取り、くい、と思わせぶりに引く。パトリシアはいや、いや、と首を振ってみせるのだが、彼はパトリシアに囁きかけるのだった。


「――ほら、僕の膝を貸してあげるから、寝転んで」


「絶対だめ!」


 じゃれあっているうちに、パトリシアは結局上体を倒されてしまい、クロード殿下の膝に頭を乗せていた。『私たち、何をしているのかしら』と可笑しくなったパトリシアがくすくす笑い出すと、クロード殿下も笑みを浮かべながら、手のひらで彼女の瞳を覆い隠してしまった。


「これじゃあ何も見えない。天井を見て欲しいんじゃなかった?」


「このまま僕の声を聞いて」


「いいわ」


 彼女のふっくらした唇が綺麗に笑んでいるのを、クロードは見おろし、瞳を優しく細めた。


「――これから君の素敵なところを僕が挙げていくから、どこまで黙って聞いていられるかのゲームだよ」


「それは全部でいくつあるの?」


「百個」


「嘘よ! そんなにあるはずない」


「信じていないの?」


「信じられない」


「君が耐えられれば、百個聞くことができるよ。どう?」


「OK、じゃあ始めて」


「一つ目――……」


 クロードは笑み交じりに、けれど落ち着いた口調で、愛に溢れた台詞を彼女に告げていく。


 二つ目くらいでパトリシアの頬は真っ赤に染まり、三つ目にさしかかった頃には、彼女は笑みを引っ込めてしまった。


 そして早くも四つ目で、彼女はギブアップを宣言することに。


「もう無理よ。恥ずかしくて、聞いていられない」


「まだまだ序盤じゃないか」


「お願い、もうやめて」


「君に懇願されると、ぞくぞくする」


「ひどいわ……」


「――可愛いパトリシア」


 クロードは彼女の目隠しを解き、悪戯に彼女を見おろした。


「これで理解できた? 窓の外ばかり見ていると、こういう目に遭うからね」


「私……さっきの発言を撤回する」


 パトリシアは眉尻を下げ、ほとんど半べその顔でそんなことを言う。


「へぇ、そうなの?」


「あなたはミラーさんに、こんなことをしないもの。皆に平等じゃない。私にはとびきり意地悪だわ」


「人聞きの悪い。僕はね――君にはとびきりスイートなんだよ」


 クロードは楽しげに彼女を眺めるのだった。


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