第33話 回想:聖泉礼拝の失敗


 聖泉礼拝のメインパートである『感謝』と『交流』は、内容がかなり特殊である。


 パトリシアは、初めてグレース王太后殿下から聖泉礼拝について教えを受けた際、『本当にそれでいいのだろうか』という、なんともいえない気まずさを覚えた記憶がある。そしてその後ろめたい感覚は今もあまり変わっていなかった。


 泉のそばになるべく近寄り、祈りの言葉を唱える――ここまではいい。これは次に行うことの準備のようなものだから。


 問題は祈りを終えたあとだった。


 典礼担当は泉に顔を浸し、その水を口に含む。しかしそれを飲み込んではいけない。口中に一旦入れたものは、そのまま吐き出さなければならないのだ。


 一般的に神事に臨む者は、身を清く保ち、感謝と敬意をもってそれを行うものである。聖なるものを拝領する――つまり体内に取り込むという儀式の流れであれば、パトリシアも抵抗を覚えなかったはずである。


 しかし聖泉礼拝の儀式構成はこれとは大きく異なる。


 典礼担当が口中に一旦含んだものを、聖なるものの中に流し入れるわけで、それは不浄に当たるのではないか……どうしてもその思いが消えない。飛躍しすぎかもしれないが、聖泉で排泄行為をするのと、(程度の差はあれど)そう変わらないのでは? という気がしてしまう。パトリシアからするとこの行為は、なんだか禁忌めいて感じられるのだった。


 しかし決まりごとなので致し方ない。パトリシアに拒否権はなかった。


 そして典礼担当は口中のものを吐き出すことで、泉に試されることとなる。


 ――この一日、嘘をつかず、清く過ごしていたか? ジャッジはとても厳しい。


 それを行った際、泉が淡く光れば成功だ。合格点をもらえたということになる。


 初めて不合格をくらったのは、十四歳当時、儀式を始めたばかりの頃のこと。あの時感じた焦りは強烈で、パトリシアを根底から揺さぶり、魂に傷を刻み込んだ。


 泉がドス黒く濁り、嫌な臭いが漂ってきた。それは数秒のあいだ続いた。パトリシアにとっては永遠にも感じられる時間だった。


 汚染はすぐに収まり、元の聖なる泉に戻ったものの、パトリシアは『とんでもない失敗をしてしまった』と慌てふためき、グレース王太后殿下に助けを求めた。


 当時はグレース王太后殿下も後ろで儀式を見守っていてくれたので、すぐに助けに入ってくれた。グレース王太后殿下が『感謝』と『交流』パートをやり直し、泉が淡く輝き、無事に上書きすることができた。


 つまり本来ならば、典礼担当は一時代に、少なくとも二名は必要なのだ。一名がメインで、ほかにサブが要る。失敗した場合はそのまま放置せず、ただちにやり直さねばならない。


 ところがグレース王太后殿下は、若い頃からサブを置かず、一人で儀式を行ってきた。ほかに任せられる人材がいないから、と言って。責任感の強い性格であったから、『無理にサブを置く必要はなく、自分が失敗せずに完璧にやり遂げればいい』という、視野の狭い考えに固執していたのだろう。


 グレース王太后殿下は完璧であることを、後任のパトリシアにも求めた。今回のパトリシアの失敗――一度目は大目に見るが、ここでしっかり修正しておかねばならない、と。


 グレース王太后殿下は今回の失敗の原因が、パトリシアの愛想笑いにあることを告げた。


 一体どこが不適切だったのか? いまひとつ理解が追いつかないパトリシアに、グレース王太后殿下が詳しく説明する。


『先程の朝の挨拶ですよ、パトリシア。あなたはわたくしに微笑みかけました。それについては覚えている?』


『ええと……いいえ。私、笑っていましたでしょうか?』


『微笑んでいましたよ』


 まるで自覚していなかったので、パトリシアは虚を衝かれてしまった。


 パトリシアは軽薄な心情でそれをしていたつもりもなかったのだが、泉の判断では『不適切』ということになるらしかった。


『楽しい気分ではないのに、笑いましたね』


 グレース王太后殿下から厳格な口調でそう指摘され、パトリシアは恐縮しながら、自らの精神状態を振り返ってみた。


『申し訳ございません。その……実は、『少し眠くて、体がだるいわ』と思っていました』


『そういった負の感情を抱いたこと自体は、責めはしません。けれど、楽しい気分ではないのに笑みを浮かべたのは、嘘をついたという罪になります』


 グレース王太后殿下はパトリシアが『少し眠くて、体がだるいわ』と考えていたことについては、まるで怒っていないのだった。


 そうではなく、気が進まずケイレブ聖泉までやって来たのに、顰めツラをするでもなく、対外的に笑みを浮かべたことを責めている。


 けれど……とパトリシアはほんの少しだけ納得できない気持ちになった。


 確かにだるいという気持ちはあったのだが、それでもグレース王太后殿下にお会いして、儀式を見守ってくださることについて、心強いな、ありがたいなと感じていたのは真実なのだ。それなのに心の片隅に、負の感情が一片でもあったならば、『嬉しくない気持ちがどこかにあるのだから、暗い顔をすべき』と判断されてしまうの? それって厳し過ぎるわ、と。


 それでパトリシアは、『神の裁きは厳格であり、ルールは向こうが決めるものであるから、こちらは極力気をつけるくらいしか対処のしようもない』ということを学んだ。――つまり、『今ものすごくハッピー!』という時以外は、笑みは一律で見せないようにしなければだめなのね、と。


 けれどこれには注意しなければならない点が一つ。――心から楽しく思っている場面では、逆に、絶対に笑わなければならないということだ。この場合は、笑わないことが嘘とみなされてしまうから。


 パトリシアは眉尻を下げ、とても難しいわ、と考えていた。そして十四歳当時に感じた『難しいわ』という苦手意識は、五年続けても、なくなりはしなかった。克服できぬまま、パトリシアはグレース王太后殿下とアレック殿下の意向により、この役目を下ろされた。


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