第27話 婚約破棄①


 パトリシアは王宮の使用人部屋に住み込むようになっていた。北の端にある、寒くて薄汚い小部屋に。


 そうせざるをえなくなったのは、馬車を襲撃されかけたことで、王宮と自邸とを行ったり来たりする生活が送れなくなったためだ。前回は無事逃げることができたが、次も幸運であるとは限らない。


 まだグレース王太后から聖泉礼拝の任を解いてもらっていないので、王宮で毎日の務めは行う必要がある。――こうなったら無責任に放り出してしまってもよさそうなものなのに、パトリシアは馬鹿がつくくらい真面目な性格をしていた。


 薄汚れた壁紙を眺めながら、『このみじめな生活が一体いつまで続くのかしら』と考える。心情的にキツくて、時折、意味もなく涙がこぼれた。日々の暮らしの中に、良いきざしは何も見つけられない。だから心を殺してやりすごしている。パトリシアは周囲に何も期待しないことで、なんとか自らの心を守っている状態だった。


 そして今日、とうとう王太子から呼び出しがあった。用件は事前に告げられなかったものの、パトリシアには分かっていた。


 とうとう婚約破棄されるのね……パトリシアは心を乱すこともなく、静かに現実を受け止めていた。ただ、破棄されたあとの処遇については、不安がいっぱいだった。


 唯一かばってくれそうなのは、グレース王太后殿下であるが、そのツテすらも先日、パトリシアが自ら断ち切ってしまった。舞踏会のあとグレース王太后殿下の寝室に寄り、みっともなく泣きじゃくり、王太后殿下のことを責めるようなことを口走ってしまったのだ。


 きっとお怒りだわ……パトリシアはそのことで胸を痛めていた。グレース王太后殿下に対しては、実の親よりも、深いつながりを感じていたから、こんなことになってしまい、ただただ悲しかった。


 ある意味では、パトリシアをここまで追い詰めたのは、グレース王太后殿下その人が原因であるといえる。グレース王太后殿下の失策から、全ての皺寄せがパトリシアにいってしまったのだから。


 けれどパトリシアをこの世界で一番買ってくれていたのも、グレース王太后殿下なのだ。


 愛憎表裏一体、簡単に切り捨てることができない感情のもつれが、二人のあいだにはある。聖泉礼拝の真髄を知る者同士、深い部分で分かり合えていた。


 複雑なものを全て取り払ってみれば、パトリシアにとって、グレース王太后殿下はやはり唯一無二の存在であり、愛する人にほかならないのだった。



***



 高座にはアレック殿下が腰かけている。パトリシアは低い場所で床に両膝を突き、こうべを垂れ、傾聴の姿勢を取っていた。


 初めに『ここで交わされる会話は公的な記録として残される』と告げられ、パトリシアは身の引き締まる思いだった。――つまり、どんな内容だとしても、あちらは強制的に従わせるつもりでいるのだ。


 アレック殿下がどんな無茶を言い出すかと考えると、恐ろしく、震えが出てくる。――顔に大きな刺青を入れろだとか、娼婦として一日に百人客を取れだとか、耐えがたいことを強要されたらどうしよう。


 パトリシアはアレック殿下の良心にまるで期待していなかったので、今感じている恐怖はとんでもないものだった。


 ――身を震わせているパトリシアを眺めおろし、アレックは胸がすくような気分を味わっていた。


 先日はパトリシアの生意気な態度に殺意を覚えたアレックであったが、日数がたつにつれ、気分も大分落ち着いてきていた。


 というのも、(パトリシアにフラれた形となり)ご機嫌斜めになったアレックに向かって、ロザリーがこんな言葉をかけてきたからだ。


『アレック殿下! 人は寂しいと、心にもないことを口にすることがあるのです! パトリシアお姉様がおっしゃったことがなんであれ、あまり気になさらないほうがよろしいですわ!』


 これに対しアレックは、


『しかしパトリシアは嘘をつけない。心にもないことではなく、あれが本心なのだろう』


 と返した。しかしロザリーはすらすらと言葉を続けた。


『パトリシアお姉様は殿下にかまって欲しくて、わざと悪態をついたのではないですか? だから、そう――嘘をついたつもりもないけれど、やはりそれは本心ではないってことです。私を見て! というアピールだったのかもしれません。ですから殿下がそうしてパトリシアお姉様のことを気にかけていると、向こうの思うつぼですわ!』


 ――なるほど、とアレックは納得がいった。確かにパトリシアから『愛しておりません』と言われたあと、ずっと彼女のことばかり考え続けている。彼女はアレックの気を惹くことに、まんまと成功したわけだ。


 そうなってくると、こちらはあくまでも以前どおりの態度を貫き通したほうがいいということになるのか? 態度を変えたりすれば、パトリシアがつけあがるだけだから。


 彼はまだこの時点で、パトリシアを自分の所有物のように考えていた。


 この場でのやり取りを公的な記録として残すことにしたのも、パトリシアに圧をかけるためだった。そうすることで、彼女も『これは冗談ではないのだ』と実感するだろうし、自分が崖っぷちに追いやられているのだと気づけるだろう。


 彼女がショックを受け、肩を落とし、自らのあやまちを悔いる瞬間が見たい。


 パトリシアが縋ってきたら、すぐに許してやるつもりはないのだが――でも、そうだな――情けをかけてやるかどうかは、あとでよく考えてみるとしよう。


 とりあえず今日は、パトリシアを絶望のどん底に突き落としてやらなければ。


「パトリシア・カミングス――そなたと私の婚約は、これにて破棄される。たった今から私たちは赤の他人だ」


 パトリシアは注意深くこれを聞いていた。


 婚約破棄――ここまでは予想どおりだ。パトリシアにとって重要なのは、このあとの部分。聖泉礼拝からいつ解放されるのか? そして自分はどこにやられるのか? ひどい目に遭わされるのか?


 体を強張らせているパトリシアを眺めおろし、アレック殿下はショックを受けているのだなと解釈した。彼の声音に勝ち誇った感情が滲み出る。


「その後の君の処遇だが、隣国――アストリュック国の第四王子との婚約が決まった。輿入れ後は、二度とブレデルの地は踏めぬものと思え」


「え」


 感情を抑え、静かに俯いていたパトリシアが、呆気に取られた様子で顔を上げる。普段冷静沈着である彼女が、途方に暮れているようだった。


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