第14話 小さな奇跡


 ……蹴りたい……


 ふと胸に浮かんだその欲望は、ロザリーの全身に快感にも似た痺れをもたらした。ジワリと胸が熱くなり、その衝動が、腹部、太腿、足先へと順に伝わっていく。


 もしも――もしも今この足を、パトリシアの尻に押し当て、思い切り突き出したなら? ……そうしたら、どうなる? この取り澄ました女が、無様に顔から泉に突っ込んだら? ものすごく愉快じゃない?


 ロザリーは焦れたように、何度かその場で足踏みを繰り返した。殿下たちにパトリシアの尻を見られないよう、ドレスのスカート部分を広げていたので、こちらが何をしようが、足さばきは背後から確認できないはず。


 頭の中で計画を実行してみた。――パトリシアを蹴り倒し、泉に放り込む。それから取り乱す演技をして、


『きゃあ! パトリシアお姉様! 大丈夫ですか!』


 そんなふうに無邪気に叫べば、誰も疑いやしないだろう。だってパトリシアが自分で、泉のほうに身を乗り出していたのは、アレック殿下もマックスも知っているのだから。


 あとでパトリシアが『ロザリーに蹴られた』と証言したら、『ひどいわ! パトリシアお姉様』と嘘泣きしてみせればよい。アレック殿下はきっとこちらにつく。


 バレないわ……絶対にバレない……たぶん上手くできるわ……いつだってやり遂げてきたじゃない……ロザリーは深呼吸を繰り返し、目を大きく見開いた。彼女の瞳孔は開きかけていた。


 そっと足を持ち上げた、その時――


 木の実をついばむ小鳥のように、パトリシアが微かに首を動かした。彼女がさらに水面に顔を寄せたようである。


 すると間もなくして、泉の表面が淡く輝き始めた。そんなに強い光ではない。たとえるなら、風が強く吹き、陽光が水面に反射する角度が変わった時のような、淡い変化。輝きは数秒続き、静かに収束していった。それは幻想的な光景だった。


 もしかすると後方にいるアレック殿下たちの位置からは、先の光は目視できていないかもしれない。現象を引き起こしているパトリシアのすぐ後ろに立っていたロザリーだからこそ、この僅かな変化に気づくことができた。


 ロザリーは思わず歯ぎしりしていた。――悔しかった。なんだか自分が負けたようで。


 ロザリーはパトリシアの悪行をでっち上げて皆に広めているうちに、段々とそれが真実であるかのように思えてきて、現実と妄想の区別がつかなくなってきていた。『パトリシアはとんでもない落ちこぼれであり、実は聖泉礼拝を上手く執り行えていない』――ロザリーの世界では確かにそういうことになっている。しかし今、目の前でそれを覆されてしまった。


 いえ――いえ、まだよ。もしも今の儀式を自分がやっていたなら、もっと強い光を放てていたかも。そして将来的に儀式を自分がやるようになったら、アレック殿下にいつも後ろについていてもらい、あの尻を高く上げるポーズを自分もやって見せてやろう。


 しかし将来的な展望は、今は置いておく。大事なのは今だ。ロザリーは今ここで、『勝ち』を確定しておきたかった。


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