第23話:触れ合うふたり

「驚くほど澄んだ声だった。優しい歌だった。朝陽に輝く風景が目に浮かんだ。

草原にゆっくりと日が差し、鳥たちがさえずり、花は風に揺れ――そんな内容だったかな」

「目覚めの歌、ですね。元気になりたい時に歌う歌です」

「素晴らしかった。初めて歌が心を震わせると知った。母との思い出が蘇り、気づいたら木の上で涙を流していた――」

「そんな……」

 歌を気に入ってくれたことは聞いていたが、まさかそこまで感動してくれていたとは思わなかった。


「もっと聴きたいとひそかかに願ったら、そなたは次々と歌を歌ってくれて――」

「久しぶりだったので、たくさん歌った気がします。まさか、ディアラド様が木の上で聴いてらしたとは知るよしもなく」

「驚かせてしまわないよう、息を殺し、気配を潜めていたからな」

 ディアラドが薄く笑む。


「梢を渡る風の音に乗ってそなたの声が俺を包んだ。あのときの感覚はうまく言えないが、体の中から浄化されるような、空っぽに感じていた体の中に温かいものが満ちていくような――。気づいたら、元気が出ていた。すごく癒やされたよ」

「もったいないお言葉です」


 自分の歌声が母を失った少年の心を、そんなにも癒やすことができたとは信じられなかった。


「それで――目の前が開けた。ずっとサボりっぱなしだった勉強を再開した。各地を回って部族の長たちと話し合い、顔繋ぎをし、武芸に励んだ。今、王となってそなたの前にいる」


 そっとディアラドがセイリーンの手を取った。

「そなたのおかげだ。そなたの歌が俺に生きる力を吹き込んだ」

「私の歌が……」


 セイリーンが歌うのをわずらわしそうにしていたルシフォスの顔が浮かぶ。

 人前で歌うな、と言われて好きな歌を封印してきた。


「確かに俺は、これまでそなたとちゃんと話したことがない。だが、歌を聴けばそなたがどんなに優しく思いやりのある女性かわかる。聡明で控え目だが芯はしっかりしていて、そして愛情深い。俺はそう感じた」

 思いがけない賛辞にセイリーンは驚いた。

「そ、それに……」

 ディアラドが目を伏せる。

「ディアラド様……?」

「そなたは誰よりも美しい。ずっとこうしてそばにいたかった。俺が今、どんなに幸せかどう伝えたらいいのか……」

「……っ!!」


 ――そばにいてくれるだけでいい。


 ディアラドの言葉はいつもまっすぐで飾り気がない。

 そして嘘偽りがない。

 約束したことは必ず守ってくれた。


 彼の真摯さはこの短い旅の間に充分知った。

 もし彼が心変わりしたとしても、ルシフォスのような不誠実な真似はしないだろう。


 ディアラドがそっとセイリーンの様子を窺うように顔を上げた。

 その金色の瞳に浮かぶのは、まごうことなき強い憧憬と愛情だった。

「……」

 男性にこんなに熱い眼差しを向けられる日が来るとは思わなかった。

 なんと答えていいかわからず、セイリーンはそっと目を伏せた。

(私……少しは自信を持っていいのかな……)


 花園に吹く風が花々を静かに揺らしていく。

 さわさわと草花の揺れる音が心地いい。

 ディアラドも穏やかな表情で花園を見つめている。


(なんだろう……。この感覚は。王と二人きりなのに、すごく自然でくつろげている……)

 セイリーンは目をつむり、花園の空気に身をゆだねた。

(今ならあの日のように――気持ちよく歌えそう)


「歌を……歌っていいですか?」

 するっと自然に言葉が出た。

 ディアラドが驚いたように目を見開く。

「ああ……もちろんだ」

「す、すいません、突然!  でも、今なら歌えそうだな、って思って。 あれ以来、ずっと歌う気分じゃなかったんですけど……」

 胸がわくわくしている。歌いたいという衝動が込み上げてくる。

「よろしければ、ディアラド様のために歌わせてください。何かご希望はありますか?」

 ディアラドの金色の目が大きく見開かれ――その唇がほころんだ。


「ならば、あの歌がいい。一番最初に聞いた歌を」

「目覚めの歌ですね」

 セイリーンはすうと軽く息を吸い――大きく歌い出した。


 草原を照らす光

 それは目覚めの合図

 鳥たちはさえずり

 花々は風に揺れる


 一度歌い出すと止まらなかった。

 久しぶりに歌ったとは思えないほど声が伸びる。

 信じられないほどの解放感に満ちていく。


(楽しい……気持ちがいい……)

(私は自由だ。好きなようにしていいんだ……)


 セイリーンは心地良く一曲歌いきった。

 ディアラドが拍手でねぎらってくれた。


「やはり素晴らしいな! 近くで聴くと更に心に響く」

「ありがとうございます」


 ディアラドの興奮気味の表情を見ると、お世辞ではないのがわかる。


(いきなり王の前で歌ってしまった……)

(ディアラド様は私にお気持ちを伝えてくださったのに……)


 我に返り、セイリーンは羞恥しゅうちでうつむいた。


(こんなだから愛想を尽かされるんだわ……)

(あまりに恋愛事に疎すぎる……)


「セイリーン……そなたの歌にはやはり力があるな……」

「え?」

 思いがけない言葉に、セイリーンは驚いて顔を上げた。


「我が国には歌による精霊術を使う部族がいる。彼らは精霊王に歌を捧げ、大地の豊穣を願い、感謝する」

「歌で……」

「彼らの歌は祈りだ。人の心に様々な感情をわき起こす、素晴らしいわざだ。そなたの歌にも祈りが感じられる。……もう少し歌ってくれるか?」

「え、ええ」

 セイリーンは驚きながらも承諾した。


(よかった……。ディアラド様はご機嫌を損ねていない……)

「そうか! なら、寝転んでもいいか?」

「えっ、あっ、はい」

 セイリーンが驚きつつも許可すると、ディアラドがごろりとベンチに横たわった。

 セイリーンの太腿のすぐそばにディアラドの頭がある。

「えっ、えっ」

「ダメか?」

 ディアラドの金色の目で見上げてくる。


「い、いえ、大丈夫です」

「では――何か歌ってくれ。そなたの歌いたい歌を――」

 ディアラドは目を閉じて、すっかりリラックスしている。

 すぐそばに、輝く銀色の髪が、長いまつげがある。

 触れたくなる誘惑をこらえ、セイリーンは高らかに歌い上げた。


(はあ、気持ちいい……)


 青い空に、咲き乱れる花々に、自分の歌が吸い込まれていく。

 こころなし、周囲の花々も心地よさそうに揺れているように見える。


「音は虚空こくうに響く。世界を揺らせる――人の心も――」

 ディアラドが目をつむりながら、ぽつりとつぶやいた。

「そなたの歌は世界を変える力がある――」

「え?」

 こてん、とディアラドの顔が横に倒れた。

 くうくう、と安らかな寝息がもれている。


「ディ、ディアラド様……?」

 信じられないが、ディアラドは寝てしまったようだ。

「ど、どうしよう……」

 セイリーンはおろおろしたが、ディアラドの寝姿につい目がいってしまう。


 普段は凝視するのは失礼に当たるので、ゆっくり彼の姿を観察したことがなかった。

(こんなに間近で男の人をゆっくり見つめるなんて初めてだ……)


 ディアラドは首が長く肩幅があるが、すらりとした体は思いのほか細身だ。

 だが、全身は引き締まっており、必要な筋肉だけを残してそぎ落としたかのような力強さを感じる。


(すごく足が長い……)

 ベンチの上に放り出された足に思わず見とれてしまう。

 まるで銀色の大きな獣が側で眠っているようだ。


(王様なのに……)

(私が刺客しかくだったら、殺されちゃうのに……)

 ディアラドは完全にくつろいでくれている。自分を信用しているのだ。


(そんなに無防備で大丈夫なんですか? 触ってしまいますよ?)

 セイリーンはそっと手を伸ばした。

 銀色の髪に触れると、想像以上の柔らかさに驚いた。

 髪を撫でても、ディアラドが起きる気配はない。


(じゃ、じゃあ、もっと撫でてしまいますよ?)

 銀色の髪を撫でていると、次第に気持ちが落ち着いてくるのがわかった。

(周囲の女性を勝手に妬んで、勝手に落ち込んで……馬鹿みたいだったな……)

 ディアラドの寝顔のあどけなさがいとしかった。

(こんな子どものような寝顔をなさるんだ……)

(辺境の部族たちを統括し、大国を支配し、魔獣すら倒す苛烈な王なのに)


 だが、セイリーンの見た彼は全然違った。

 自分のささやかな一言に一喜一憂し、いつも気に掛けてくれる。


 セイリーンはそっとディアラドの長い睫毛に触れた。

「ん……」

 少しくすぐったそうに顔を動かしたが、それでもディアラドは起きなかった。


(自分より強く大きい男性を、いとしいと思うのは初めて)

(私の王様……今この瞬間だけは私の王だ)

 セイリーンはディアラドを起こさないよう、囁くように優しい歌を歌い続けた。


「あ、こんなとこにいた! 何やってんだよ、ディアラド! もう夕飯の時間だぞ!」

 探しに来たキースの声で起こされるまで、ディアラドはまったく目を覚まさなかった。


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