婚約破棄された歌姫令嬢は、魔獣王に溺愛される

佐倉ロゼ

第1部

第1話:突然の婚約破棄

 大陸で最も歴史あるミドルシア王国。


 その王城では、王太子であるルシフォスの18歳の誕生日祝いのパーティーが盛大に開かれていた。


 ルシフォスの婚約者であるセイリーンが高らかに祝福の歌を歌い上げると、会場内から割れんばかりの拍手と喝采かっさいがわき上がった。


「素晴らしい!」|

「この世のものとは思えない――天上の歌声だ!」


 聴衆から巻き起こる惜しみない賛辞に、セイリーンは頬を上気させ一礼した。


 セイリーンの輝く金色の髪はこの日のために美しく結われ、色とりどりの宝石の髪飾りがつけられている。

 父であるオーブリー・サイラス公爵が娘の晴れ舞台にと奮発した装いだ。


 可憐なミントブルーのドレスに身を包んだセイリーンは、婚約者であるルシフォスの元に歩み寄った。


「ルシフォス様、お誕生日並びに成人おめでとうございます」


「ありがとう、セイリーン。素晴らしい歌声だった」


 贅沢に刺繍ししゅうほどこされ、宝石で飾られた王族の衣装を身にまとったルシフォスは、これまでで一番輝いて見えた。


 黄金の髪、薄青の瞳は見とれるほど美しく、すらりとした気品ある姿に国民の人気も高い。


 この光輝く王子が自分の婚約者だと思うと、セイリーンは面映おもはゆい気持ちになる。


 8歳のときに婚約者になってから早10年。

 お互いめでたく18歳の成人同士になった。


 今日が正式に結婚の発表になるのではないかと城内で噂され、セイリーンの両親である公爵夫妻も期待していた。


「恐れ入ります、ルシフォス様」


 セイリーンは笑顔でルシフォスの隣に腰掛けた。


 ルシフォスがじっと自分の顔を見つめてくる。

 最近ではとても珍しいことだ。


 彼は笑顔を浮かべているというのに――なぜか胸騒ぎがしてならない。


「あの、ルシフォス様……?」


「もう、この私だけの歌声を聴けなくなるのはとても寂しい」

「え……?」


 ルシフォスの薄青の瞳には何の感情も浮かんでいない。

 まるで自分を”物”のように見つめるルシフォスに、セイリーンはぞっとした。


 ルシフォスがおもむろに椅子から立ち上がった。


「今日お集まりいただいた皆様に私から大事な報告がある」


 会場中の視線が集まるなか、ルシフォスが口を開いた。


「セイリーン・サイラス公爵令嬢との婚約を、今この場で破棄する」


 ルシフォスの明快な言葉がパーティー会場中に朗々と響いた。

 一瞬にして、場は静まり返った。


「今……なんとおっしゃいました?」

 セイリーンは呆然とルシフォスを見上げた。


「そなたとの婚約をこの成年祝いの場で解消したい、と言ったのだ。セイリーン」

 ルシフォスが素っ気なく言い放つ。


 以前は優しく自分を見つめていたその薄青の瞳は今や面影もなく、背筋が凍るような冷ややかさでセイリーンを見つめている。


 セイリーンは震える手をぎゅっと握りしめた。

(どうして――こんな……こんな場でいきなり……)


 パーティーの出席者たちの間に、戸惑ったようなざわめきが広がっていく。


王や王妃の驚きの表情からも、両親である国王夫妻ですらルシフォスから何も聞かされていないのは明らかだった。


 周囲からの憐憫れんびんと驚愕の視線がセイリーンに集中する。


 ミドルシア王国では18歳で成人と認められ、正式な王位継承者としても扱われる。


 そのため、成年祝いのパーティーには国王夫妻はもちろん、国の重鎮じゅうちん主立おもだった貴族や豪商たち――国の中心を担う者ばかりか、他国の王族までが集まる華やかで重要な社交の場だ。


(ひどい……これではさらし者だわ……)


 国内はおろか、国外にも王太子の婚約破棄の報はあっという間に広がるだろう。


 ちらと見た父オーブリーの顔は怒りでわなないており、あまりの申し訳なさにセイリーンはうつむいた。


 ルシフォスがすっと頭を垂れた。さらりと金色の髪が流れる。


「セイリーン、そなたが長年私に尽くしてくれていたのはよくわかっている。

だが、私たちの婚姻は親同士が決めた。

こうして成人となり、この国をいずれ継いでいくと考えたとき、王妃として隣にいるのはそなたではない、と感じたのだ」


 すぐ目の前にいるというのに、ルシフォスの声がやたら遠く聞こえる。

 あまりの衝撃に脳が現実を認識するのを拒んでいる。


 ひどい頭痛と目眩めまいに襲われ、セイリーンは今にも倒れそうだった。


 ルシフォスの態度がよそよそしくなってきたのは気づいていた。

 だが、特にいさかいもなく、王が決めた婚約を解消するほどの動機があったとは思いもよらなかった。


(……私は王妃にはふさわしくないとおっしゃられた)

(とうにお心が離れていたのに、私は婚約者だからと慢心していたのかもしれない)


 会場に滔々とうとうとルシフォスの声だけが響く。


「二人の婚約を決めてくださった父である王に対しても、オーブリー・サイラス公爵に対しても無礼千万なのは重々承知しております。ですが、ご理解いただきたい。

一人の男として、これから国を担うであろう王太子として、生涯の伴侶はんりょは自分自身で決めたいのです」


 よどみないルシフォスの口調から、突然の思いつきではないとわかる。


(一体いつから――お心がこんなにも――)

 目の前が暗くなっていく。


「……っ」

 見かねたのか、父であるオーブリーが口火を切った。


「殿下のご意向はわかりました。ですが、こんな場で娘をさらし者にする必要はあったのでしょうか!? 他にやりようはなかったのですか!?」


 温厚な人柄で知られるオーブリーの怒りに満ちた発言に、皆が固唾を呑む。


「お父様……」

 さらし者という言葉が、改めてセイリーンの心に深く突き刺さった。


 国中の、いな、大陸中に知れ渡るゴシップだ。


 これからセイリーンはどこにいても『王太子に婚約破棄された憐れな令嬢』として見られることになるのだ。


「誠に申し訳なく思っている、サイラス公爵。そして、何よりセイリーンに」


 ルシフォスが深く頭を下げる。

 気位の高い王太子の初めて見せる最大級の礼に、場は一気にざわついた。


「あのルシフォス殿下が……」

「自分より目下の公爵家の者に頭を……」


 一見、殊勝に見えるルシフォスの姿が、セイリーンにはなぜか観客の反応を計算に入れた演技のように見えた。


「だが、公の場――特に皆が一堂に会する場で発表する方が、いらぬ憶測を生まずに済むと愚考した上での事だ。許せ。密室で限られた人間だけで話し合い、後で発表となれば、いらぬ醜聞しゅうぶんがセイリーンにまとわりつくかもしれぬ」


 まるでセイリーンへの配慮のために仕方なくこの場を選んだ、と言いたげだ。


「こたびは私のわがまま故の決断だ。セイリーンには何のとがもない。落ち度もない。ただただ、悪いのは私だけだ。もちろん、ただ言葉で詫びるだけではなく相応の慰謝料を渡すつもりだ。私の領地である南部地方のレント領をサイラス公爵に譲る」


 ルシフォスの発言に場が再び大きくざわめいた。


「すごい……」

「領地ですって……」

「しかも南部の……」


 公爵家からの反駁はんぱくをあらかじめ予想し、完璧に対応を考えていたとしか思えないなめらかな対応だった。


 王族からの丁寧な陳謝、そして慰謝料としての領地献上。

 王太子にここまでされては、権威ある公爵でも何も言えない。

 見事に先手先手を取られ、口を封じられた。


 セイリーンはふう、と息を吐き、考えを巡らせた。

(こちらに一切準備をするいとまを与えない、畳みかけるような奇襲攻撃……)

(つまり……それほどまでにルシフォス様は私との婚約を破棄したい、ということだ……)


 絶望が心を黒く重く染めていく。


「ですが――!」

 父がそれでも抗議をしようとしたのを見て、セイリーンは椅子から立ち上がった。


 盤上ばんじょうのゲームで言うところの詰みの状態だ。

 あとはこれ以上はずかしめを受けないよう、父の立場を悪くしないよう、毅然と対処するしかない。

 

「もういいのです、お父様」

「しかし、セイリーン! こんな勝手で一方的な――」

「人の心だけはどうにもできません。私は殿下のお気持ちを尊重したく存じます」


 声が震えないよう必死で心を落ち着かせ、静かに口に出すとルシフォスの緊張がふっと緩んだ気配が伝わった。


「皆、静まれ」

 ルシフォスの父で現国王であるランドルの言葉に、会場は一瞬にして静まり返った。

 皆が固唾を呑んで見守る中、国王が口を開く。


「まず、セイリーンにこれまでルシフォスに尽くしてくれた感謝と謝罪を。ならびにこの婚約を結んだサイラス公爵家にも謹んでお詫び申し上げる。そして、ルシフォスからだけでなく、私からも慰謝料として領地と金品を約束する。仔細しさいは改めて言い渡す」


 再びざわめきが巻き起こった。

 国王自らの謝罪と慰謝料の申し出など、だれもくつがえすことができない。

 最後の一撃だった。


「ルシフォスの身勝手な申し出とはいえ、一生を共にする結婚相手を自分で決めたいという息子の意志を親として尊重したい。申し訳ないが、この不躾な申し出を承諾してくれるか、セイリーン」


「はい。これまでお世話になりました」


 セイリーンは必死で声が震えないよう、涙がこぼれないよう振る舞った。


「セイリーンには誠に申し訳ない結果となってしまった。公爵家に対してだけではなく、そなた個人にもできるだけのことをしたい。今後、何か頼みがあれば遠慮なく申し出てくれ。力になる」


「ランドル陛下にはこれまでずいぶんと可愛がっていただきました。そのお気持ちだけで充分です」


 セイリーンは丁寧にドレスをつまみ、周囲がはっとするような美しい礼をしてみせた。


「では、ルシフォス殿下。私はこれで失礼致します。婚約者でもない者が殿下の隣にいるわけには参りませんので」


(早く、早くこの場を立ち去りたい)

(でなくては、涙がこぼれ落ちてしまう……)


 セイリーンが口早に挨拶をしたときだった。


「では、俺と結婚してくれ、セイリーン!」

「えっ……」


 周囲を押しのけるようにして現れたのは、漆黒の毛皮のマントを羽織った長身の青年だった。

 印象的な金色の目がまっすぐセイリーンを見つめている。


「ま、魔獣王、ディアラド様……」

 セイリーンは思わず彼の二つ名をつぶやいた。


 ディアラドは半年ほど前、辺境の大国グレイデン王国の王となったばかりの20歳の青年だ。


 セイリーンは呆然とこちらに歩み寄ってくるディアラドを見つめた。

(な、なぜグレイデン王国の王が私に求婚を……?)


 驚いているのはセイリーンだけではなかった。


「グレイデン王国の王……」

「辺境の国の王がなんでセイリーン様に?」


 再び会場にざわめきと衝撃が走った。


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