第159話 適材適所


 あじさい館を発つ際は寂しいものだった。


 キーティング卿も娘のオリヴィアも、昨夜狂態の限りを尽くしてしまったためバツが悪かったのか、見送りには出てこなかったからだ。


 景色も薄ら寒く、空は鈍色で、今にも雨粒が落ちてきそうだった。


 祐奈は執事に「お世話になりました。キーティング卿によろしくお伝えください」という型どおりの挨拶をして、馬車のほうに歩いて行った。


 館は北通りに面して建てられており、玄関ポーチを出ると、そのすぐ先が公道になっている。そのため馬車は今、キーティング卿の私有地内ではなく、通りの端っこに停めてある形だった。宿泊中は邪魔になるので、奥の厩舎そばに置かせてもらっていたのだが、もう発つため、御者が前面道路に移しておいてくれたのだ。


 ――祐奈が馬車に乗り込もうとしていると、ふらりとウィット氏が歩み寄って来た。


 どうやら通り向こうのほうで、話しかける機会を窺っていたらしい。ここは表通りとはいえ、昨晩あれだけキーティング卿と揉めたわけだから、こうして顔を出すのは、結構な勇気を必要としたのではないだろうか。


「……あの、どうも。僕が起こしたイザコザでご迷惑をおかけしてしまったので、発たれる前にお詫びしておきたくて」


「ウィットさんは大丈夫ですか?」


 祐奈が尋ねると、ウィット氏は苦笑いを浮かべながら答えた。


「中途半端に優しく振られるよりも、かえって良かったなと思って。オリヴィアの本心も聞けたから、未練もなくなりました」


「そうですか……」


「みっともないところをお見せしてしまって、すみませんでした」


「気にしないでください。あの……これからどうするご予定で?」


「さぁ……なんだかフワフワした精神状態でして。希望もなくなってしまったし、どう立て直したらよいものか……」


 祐奈は彼の身に起こったことが、なんだか他人事とは思えないのだった。――今の彼の状態は、王都に居た時の自分と重なる。


 あの時の祐奈は、ショーから離れられたあとも、なんだか終始浮足立っていたように思う。地に足がついておらず、軸が定まっていない感じで。『自分ならきっと乗り越えられる』という芯の部分がなくなってしまっているから、存在自体がわたあめみたいにフワフワしているように感じられた。


 現実味がないのに、かといって希望もなくて。――あの時の自分は確かなものを何も持っていなかった。


「私がこれから向かうエヴェレットという国は、砂漠地帯なのだそうです。つまり雨がほとんど降らないのだと思います」


「こことは真逆ですね」


 他国のことをあまり気にしたことがなかったらしく、ウィットが片眉を上げ、感心したように呟きを漏らした。


「ウィットさん――ガルボの苗を持って、そちらに行かれたらいかがでしょう?」


 祐奈が提案してみると、ウィットは度肝を抜かれたようだった。


「いや、でも……僕はここしか知らないし……よそで生活していけるとは思えません」


「私も以前はそういう気持ちでした。ずっと狭い世界の中で生きていましたから。でも、事情が変わって……見知らぬ土地に迷い込み、さらにそこから長い旅が始まって、考えが変わったんです。自分が本当に大事にしなければならないものって、実は一つか二つくらいしかなくて、手放したらすっきりするもののほうが多かった。それまで深刻に頭を悩ませていたものが、どうでもいいことだったと気付くことができた。――嫌な思い出がある場所から、物理的に離れてみると、心がとても軽くなるものですよ」


 ――逃げるが勝ちという言葉は、まさに真理であると思う。


「アドバイスありがとう。今は無一文なので、これから転居費用を稼ぎ、お金が貯まったら、思い切ってエヴェレットに行ってみようかな」


 しかしそれではガルボの苗がだめになってしまう。


 そして祐奈は経験から学んでいる――『いつかやろう』と思っていることが、棚ぼた的に叶えられる機会なんて、ほぼやって来ないであろうということを。


 確固たる意志で、一歩踏み出してみなければ、その願いは日常の中に埋もれていってしまう。


 祐奈はらしくもないお節介を焼き、熱を込めて彼に語りかけた。


「差し出がましいようですが、今のお住まいが持ち家ならば、売ってしまえば、すぐに発てますよ。ガルボの苗をどうか有効に使ってください」


「……確かにそうですね。貴重な苗がもったいないな。家を売って身軽になって、新しい土地で一からやり直すのもいいかもしれない」


 屋敷の中からウィットの姿が見えたらしく、メイドのラビニアが出てきて、彼にぴったりと寄り添った。


「――やり直すなら、私、どこまでもあなたについて行くわ」


 ウィットは微笑みを浮かべ、彼女の肩を抱いた。ラビニアは女性にしては身長が高かったので、彼のほうが彼女の肩にぶら下がるような感じになってしまったのだけれど、それもご愛敬だろう。


 二人に別れを告げ、馬車に乗り込む。全員が着席し、車輪が石畳を噛む音を聞きながら、祐奈は感慨深い気持ちになっていた。


「雨降って地固まる、ですね。愛のない結婚をするより、ウィットさんにとっては良かったのかも」


 ところがラング准将は冷めた語り口だった。


「ウィット氏はエヴェレットに行けば、英雄扱いだ。痩せた土地に根付く貴重な穀物の苗を、大量に持って現れるのだから」


「……良いことではないですか?」


「彼は金持ちになったら、浮気するかもしれませんよ。なんせ女性を見る目がない」


 祐奈は考えを巡らせ……確かにそうだなと思わされてしまった。


 ウィットはラビニアからあれだけ真摯に想われていたのに、成功後にすり寄って来た可愛いオリヴィアに夢中になって、幼馴染のことなど顧みようともしなかった。そしてオリヴィアにひどいフラれ方をした途端、都合良く、近くに居てくれるラビニアに乗り換えた。


 彼は今、人生の谷間にいるので、ラビニアのことを大事にしようとしているけれど、この先もずっとそれが続くかどうかは分からない。


 彼が名声を得て、ふたたび目も眩むような美女に言い寄られたとしても、ラビニア一筋でいられる? ……さぁ、それはどうだろう。


 ――成功が人を幸せにするとは限らない――それは残酷な真理である。



***



 エヴェレットに近付くにつれ空気が乾燥してきた。トーヴァー付近では悩ましい顔をしていたカルメリータが、次第に元気を取り戻していった。


 エヴェレットに辿り着く前に日が暮れてしまったので、少し手前で一泊することになった。


 ダイナーのような店で食事をしていると、一つ奥のテーブル席で頭を抱えている男性がいた。くりんくりんの癖毛をした、気の良さそうな若者である。


 彼がウェイトレスを捕まえ、泣き言を零し始めた。


「僕はもうだめだよ。一攫千金を夢見て旅に出たはいいけれど、死ぬような思いをして手に入れたのが、『雨ばかりの環境でしか育たない穀物の種』だったんだ! 一体どんな顔をしてエヴェレットに帰ればいいんだい? これじゃいい笑い者さ!」


 聞く気はなくとも声が大きいので、どうしても耳に入ってきてしまう。


 ――ラング准将はどこかげんなりした様子で席を立ち、彼のもとへ歩み寄った。


 ウェイトレスは端正な騎士が自分たちのほうに近寄って来たので、ぎょっとした顔で彼のことを眺めていたのだが、ラング准将は女性から見られることには慣れっこになっているから、気にも留めていない様子であった。


 ラング准将は涙で頬を濡らしている男性の肩を叩き、


「君の悩みはトーヴァーに行けば解決する。――南東に向かえ。雨ばかり降っているその国では、皆が君のことを歓迎してくれるだろう」


 そんな言葉を送った。


 男性はポカンと口を開けて、突然アドバイスをしてきた騎士を見上げていたのだが、ラング准将は言いたいことだけ言うともう興味はないとばかりに、さっさと自席に戻って来たのだった。





 18.奇跡の穀物(終)


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