第140話 過ぎ去りし日々/聖女来訪③ 恨みつらみ
フリンはそう時間をかけることなく龍の置物を手に入れてきた。言葉巧みに店主を丸め込み、ずいぶん安く買い叩いたようである。
『生粋の詐欺師ね』とアンは考えていた。フリンを眺める彼女の視線は冷めきっていた。
――とはいえ約束は約束だ。アンはフリンのために時間を割くことにした。こちらは特に旅を急いでいるわけでもないから、こんなふうに流れに身を任せてみるのもたまにはいいだろう。
とりあえずどこか、落ち着いて話ができる場所に移動したほうが良さそうである。
フリンにそう告げようとした時、アリスが後ろから右腕を掴んできた。
「サンダースが来たわ。……機嫌が悪そう」
アリスがこちらの耳元に顔を近付け、早口に呟く。
――この時、アンは正体のよく分からない怒りを覚えた。
今のアリスの振舞いは不作法だと感じたためだ。突然腕を掴んできたのも、すごく接近して耳元で囁きかけてきたことも。
彼女がつけている香水の匂いが妙に鼻についたし、それに口臭も気になった。元居た世界でいうところのコーヒーのようなものをアリスは好んでよく飲んでいたから、接近されるとその匂いが強くするのだ。普段はそんなに気にならないのに、なぜかこの時は妙に癇に障った。
たぶん……日本に居た時だったなら、同じように腕を掴まれて、話しかけられたとしても、何も感じなかっただろう。だからこの時不意に湧き出てきた怒りの根源は、アリスがどうこうというよりも、受け手であるアン自身の内面のほうに問題があるのかもしれなかった。
――それからサンダース。
こいつの機嫌が悪いかどうかなんて、知ったこっちゃないわ、とアンは思った。ゴロツキ風情が、何をこちらに指図するつもりでいるのか、と。この大男が怒っていようが、いまいが、アンには関係ない。
アンが黙りこくっているので、アリスが焦れたように続ける。――こんなマズイ状態なのに、あなたは分かっていないの? と言わんばかりに。
「あなたが知らない相手と親しげに話しているせいよ。フリンとはここですぐに別れましょう。そうでないと、私があとでサンダースに殴られちゃう」
アンはアリスのほうを振り返り、冷めた瞳で彼女を眺めた。――するとアリスがチラチラと左のほうを気にしているようなので、次いでそちらに顔を向けてみると、確かにかなりご機嫌斜めな様子のサンダースが、のしのしと地を踏みしめながらこちらに歩み寄って来るのが見えた。
――放っておけばフリンに殴りかかりそうな勢いである。
対面しているフリンが身体を強張らせた気配がこちらにも伝わってきた。
アンはサンダースに声をかけた。
「そこで止まりなさい、サンダース」
「アン様。そこにいるのは何者ですか」
「何者でもない」
――ああ、なんて面倒なのかしらとアンは思った。
それでおかしな話なのだが、この瞬間、アンはアリスと入れ替わることを決めていた。
そうすればもう、こんなふうにアリスから、サンダースに殴られるだなんだのという、つまらない泣き言を聞かされずに済むでしょうから、と。
そしてサンダースには少し学びが必要だとも考えていた。
彼はずっとお山の大将でいたものだから、尊大で我慢が足りない。しかしアンは彼にそのままでいられると困るのだ。しっかり変わってもらわねばならないが、自分で一から調教するのも骨が折れる。
――そうなると、アリスの下にサンダースをつかせるというのは、彼にとっては意外と良いトレーニングになるかもしれなかった。
サンダースは長年軽く扱ってきた女に尽くさなければならなくなる。護衛騎士たちの視線があるので、これからはずっとその演技を続ける必要があるのだ。そしてアリスは目端の利く女であるから、上手く調教役をこなすだろう。
――アンのほうは、これでサンダースと距離が置けるので、気分的にだいぶ楽ができる。
別にずっと交代したまま行こうというわけではない。『国境を越えるまで』とかリミットを設けて、入れ替わりを楽しむのだ。
その頃にはこの大虎もいくらか慎み深さを身に着けているだろうから、そうなってからアンは聖女の立場を取り戻せばよい。
――そう決めた瞬間、ふと強い気配を下から感じた。
引き寄せられるようにそちらを眺めおろすと、フリンが抱えていた龍の置物が、淡く光ったように感じられた。宝玉の表面が、水面のように揺らいだような……。
やはり波長が合う。アンの中で解消しきれていないマグマのような怒りと、宝玉の持つ屈折した波動がピタリと重なる。――共鳴し、引き合った。
アンは右手を伸ばし、宝玉に触れた。
その瞬間、手のひらと玉が溶け合うような不思議な感覚に包まれた。境界がなくなり、トロリと、溶けたバターみたいに絡み合う。
何かが中に浸入してきた。それは膨大な情報量だった。
そして頭の中で声が聞こえた。
『――ガーナーの聖女。汝は炎の女王――』
アンは意識することなく、笑みを浮かべていた。
瞳が揺れ、しばしぼうっとしたあと、ゆっくりとフリンに視線を転じる。
「……あなたと話すことはもうなくなった。用は済んだ」
「しかし、それでは約束が違う」
「この宝玉を持って行きなさい。次の仕事で役に立つはずよ」
フリンは西海岸に面した大都市カーディンから、少々後ろ暗い仕事を請け負ったばかりだった。癖の強いポッパーウェルを内部から崩壊させなければならず、どうしたものかと頭を悩ませていたのだ。
――たった今、聖女から告げられた台詞は、この仕事の助けになるのだろうか?
はっきりとは分からなかったのだが、とはいえフリンは聖女にこれ以上縋れる立場にない。向こうが『これで終わり』と言えば、もうそれきりなのだ。
サンダースと呼び掛けられたあの暴力的な大男の存在も脅威であったし、どのみちここは退くしかなさそうだった。
「アン様。あなたはこの宝玉が欲しかったのでは?」
「もういいの。フリン、あなたが持って行って」
アンは宝玉に触れた瞬間、これがガーナーから来た聖具だということを正しく理解していた。宝玉がそれを伝えてきたからだ。
ガーナーの神父は、聖女歓迎のための準備を怠ったばかりか、聖具を売り渡してすらいたのだ。到底許すことはできない。
アンは抹殺リストの二番目にガーナーの神父を加えた。
リストの一番目に載っているのは、転移初日にアンを犯したあのクズどもだ。
――アンは決めた。王都に移り、魔法を習得し、抹殺リストを順に消し込みしていこう。
しばらくは退屈しなそうだ。
もう少したてば、もう一人別の聖女も異世界からやって来るようだし……。
どんな女が来ても負ける気はしなかった。その女が自分ほどの強さを持っているとも思えない。
しかし油断はすまい。先にこちらの世界に来た利点を最大限に利用し、覆しようのない差をつけてやるのだ。
――魔法の習得は早ければ早いほど良い。そしてアンは聖具『宝玉』から、世界の真理を学び終えている。
この聖具はアン以外とは共鳴しないであろうから、もう一人の聖女が勝てる見込みはゼロだった。
***
このあとすぐにアンたちは王都に向けて発った。
シルヴァース到着後、枢機卿にコンタクトし、早速彼を脅した。
ガーナー教会の不手際は、全て枢機卿に責任があったから、アンは彼を震え上がらせることに罪悪感すら覚えなかった。
――護衛隊を統括しているエドワード・ラング准将という人物は、かなり優秀らしく、そもそも彼が全てを取り仕切っていたなら、こんな顛末にはなっていなかったと思われる。
シルヴァース大聖堂側の下らない自己主張のおかげで、ラング准将は一部の権限を奪われてしまった。――旅が始まって以降の護衛はラング准将が取り仕切るが、それ以前は枢機卿が――という具合に、管轄がややこしく別れてしまったのだ。それこそがアンにとっては最大の不運だった。
だから聖女受け入れまでの、各教会・各大聖堂への、通達・指導は、枢機卿が責任を持って行わなければならなかった。
つまりアンが犯されたのも、腕を斬られたのも、全部が全部、枢機卿の見通しが甘かったせいなのである。
アンが入れ替わりのアイディアを話して聞かせた際、生意気にも枢機卿は反発してきた。これにアンはなぶり殺してやろうかと思うくらいの怒りを覚えた。
ここで中途半端な正義感を出すくらいなら、もっと早くに本腰を入れて、下部組織である教会に睨みをきかせておくべきだった。綺麗事は聖女に対してではなく、無能な部下に対して吐くべきである。
アンは彼を容赦なく脅してやった。
お前の進退――さらにいえば生殺与奪の権利は全てこちらにあるのだとしっかり分からせてやった。
私が犯され、左手を失った責任は、お前に取らせてやるからな、と。
屈強な男どもに犯させたあと、両手両足を斬り捨ててやるから、覚悟しておけ。
自分が国王陛下にそれを求めれば、簡単に叶うのだから、と。
それはこの上ない脅し文句であり、効果は絶大だった。
そしてアンとアリスの入れ替わりは、絶対に秘密にしておくよう求めた。その場にいたオズボーンという側近だけは内情を知ることとなってしまったが、これ以上は決して広めぬように。もちろん護衛隊長であるラング准将にも。そして国王陛下にも。
あとで隠しごとをしていた件が問題になったら、守ってやるからと約束もした。
枢機卿はガーナーの不手際で罪悪感を抱えていたこともあり、すぐに折れた。どのみち彼が生き残るには、アンに膝を折り、忠誠を誓うしか方法がなかった。
――こうして枢機卿はこの大掛かりな詐称の共犯になったのだ。
***
アンは不屈の精神で、国内に留まっているあいだに復讐の半分を成し遂げた。
旅が始まると、アリス隊から少し遅れ、アンは枢機卿を伴ってローダールートを辿った。
あらかじめアリスには、『ガーナーに到着したら、滞在を延長するように』と言い含めておいた。アンのほうは、そのあいだにやることがあったからだ。
聖女のブレスレットをアリスから一時取り戻し、アンはそれを右腕に嵌めた。そして、かつて彼女を犯したあの連中が根城にしている集落を訪れ、草木一本残さぬよう焼き払ってやった。
炎の魔法は出発地点である王都シルヴァース所蔵の聖具にて習得済だった。シルヴァースでは聖女のブレスレットを受け取るだけでなく、奥の間にある聖具に触れさせてもらい、魔法習得できる慣例なのだ。今回聖女が二人来てしまったため、習得に関しては一人目の聖女が優先され、二人目の聖女は権利を与えられなかったようだ。
――ガーナーの神父はすでに拘束されており、王都に連れて行かれ、審問会にかけられている最中らしいので、帰還後、たっぷり罰を与えてやるとしよう。
***
おおむね順調に進んでいたローダールートの旅路であるが、肝心のローダー遺跡にて、問題が起こった。
――鳥の精霊から加護を受けることができなくなった。あの忌々しい、ヴェールの聖女のおかげで!
怒りと衝動に呑み込まれそうになる。何もかもに腹が立った。
アリスに『この茶番も、もう終わりよ。あなたはただのアリスに戻るの』と告げてやると、初めは意味が分からなかったらしく、彼女は呆気に取られていた。その愚鈍さにもアンは苛立ちを覚えた。
聖女の替え玉としての役割が終わるのだとやっと理解したアリスは、あろうことか悪態をつき始めた。『そんな勝手は許されない』とか『護衛騎士たちは私に尽くしてくれている。今更あなたになんか従うわけがない』だとか――ああ、なんて身の程知らずな台詞!
無礼を申す彼女の腕を、サンダースが力ずくで捻り、立場を分からせた。アリスの顔を殴らせなかったのは、せめてもの情けだった。
『最後の花道を飾らせてあげる。――ここからカナン遺跡に転移するから、赤い扉を開けて、護衛隊の先頭を切って、行進なさい。国外に出たら、聖女交代よ』
別に、アリスは生かしてやってもよかった。彼女は功労者でもあったから。
けれどここで気が変わった。彼女の態度はあまりに不遜だった。アリスがずっとこの入れ替えを続けるつもりだったと知り、アンの心は冷めきってしまった。
だから彼女をあの奥の間に入れることにした。――彼女が悪態をつく直前までは、『ブレスレットで赤の間を開放したあとは、危険だから中には入らずに、護衛騎士たちを行かせなさい』と指示するつもりだったのだ。
運命とは、ほんの少しの差で明暗が分かれるものである。
アンはカナン遺跡にて、あっさりと手駒のアリスを切り捨てた。胸は痛まなかった。
15.真実(終)
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