僕のエウルリア
清水らくは
第1話
図書室には、様々な人がいる。本を読む人、勉強をする人、居眠りする人。そして奥の机で一人、ノートパソコンに向かっている少年。彼は決まって木曜日のこの時間、ここにきてパソコンに向かっている。一冊の本も借りず、誰と話すわけでもなく、五時になると部屋を出る。
そんな彼のことを気にする者は、今日までただの一人もいなかった。しかし今日、図書室の扉の前で彼を待っている人がいた。
「豊部君ね」
背の低い、切れ長の目の少女だった。
「え、誰」
睨むように見上げられた少年は、半歩後ずさった。
「二年の森塚よ。森塚空見。ねえ、あなた」
「う、うん」
「将棋が強いんですって」
少年はさらに半歩後ずさった。
「僕は強くないです……」
「僕は?」
「ええと……」
少年はもじもじと腰をくねらせて、視線を斜め後ろにやった。
「誰か強い人を知っているの」
「……エウルリア」
「え?」
「強いのは、エウルリアなんだ」
「誰、それ」
豊部光明は、クラスでも特に目立たない存在だった。見た目も地味で、声が小さくいつもおどおどしていた。孤立しているわけでもないけれど、誰かと特に仲がいいということもなかった。
ただ、そんな彼には特技があった。
「これだよ」
公園のベンチでノートパソコンを立ち上げた光明は、一つのソフトを立ち上げた。
「これ……将棋ソフトじゃない」
「そう、僕のエウルリア」
ちらりと光明に視線を向けて、すぐに空見は画面に目を戻す。
「僕のってことは、豊部君が作ったの」
「そうです。僕が作った、僕の友達です」
「将棋ソフトね」
見た目はいたって普通の将棋ソフトで、緑色のバックの真ん中に茶色い将棋盤と駒が描かれている。
「でも、僕の友達です」
空見は、少しだけ苦笑しながら操作を続けた。
「あ、秒読みとかちゃんとしてるし。本当に作ったの」
「作りました」
光明は唇をとがらせる。
空見は、淡々とゲームを始めるための設定を進めていった。
「森塚さんは、こういうのに慣れてるんですね」
「別に。相手がいないからソフトとやってるだけ」
「相手って、将棋の」
「そう。弱い人しかいないから」
空見は、対局を始めた。光明は側からその姿を見つめていた。
空見の眉間に皺がより、少し口元に笑みがこぼれた。そしてしばらくしてから、大きくため息をついた。
「おかしい」
そうつぶやいたのは、ずいぶんと手数が進んでからだった。光明は、にやりと笑った。
「負けた」
「うん」
「予想してたの」
「うん」
空見は終わった対局を巻き戻し、もう一度再生した。
「途中はよかったのに。そんなに強くないんだと思った」
「わざと……」
「え」
「相手がよくある形の定跡形をなぞってきたら、わざと途中で次善手を指すような設定にしてあります」
「なんのために」
「きれいな形を好む人は、序盤で優勢になると少し気が抜ける傾向にあるので」
「……」
「あと、マイナスの評価値の時、最善手以外をランダムに指して、形勢が接近していることを気づかせないようにしています。あと、終盤逆転が厳しい時、詰みが無くてもノータイムで指して詰みがあると勘違いさせて焦らしたり……」
「ストップ、ストーップ」
「ん」
「ねえ、自分で何言ってるかわかってる?」
空見は、おでこがくっつきそうなほど接近して、唾をまき散らしながらまくしたてた。
「わかりません」
「あなた、人間に勝つための将棋ソフト作ってる」
光明は何度も瞬きをして、そのあと首をかしげながら空見を見つめた。
「変ですか?」
「え、だって、将棋ソフトって最善を目指すものじゃない」
「そうです、どうやったら勝てるか一生懸命考えて、どうしたらエウルリアが一番気持ちいいか……もちろんまだまだ改良の余地がありますけど……」
「ストップ、ストーップ! あのね、最善って最もいい手という意味でね、計算して評価が高くなるものを……うーん、私もそんなに詳しくないんだけど」
「エウルリアは、機械じゃないんだ」
今度は空見が瞬きをした後光明を凝視する。
「厳密にはそうね。ソフトだし」
「友達なんだ」
「あのね、豊部君。何回もそう言っているけれど、あなたにとって友達ってなんなの。私にはわからない」
「……エウルリアは、優しいんです」
空見は、質問を続けなかった。友達とは何かを考えたとき、彼女にも答えはわからなかったのだ。
「なんでもいいわ。私、負けっぱなしは嫌だから。明日も対局させて」
「もちろんいいです。エウルリアも、喜ぶと思います」
空見は呆れて微笑んだが、光明は心から微笑んでいた。
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