豈夙夜せざらんや、行に露多きを謂う。昼も夜も会いたいのは本当でした、さようなら。

 日は中天を過ぎ、政堂の議は終えた。欒氏らんし嗣子しし荀氏じゅんしの嗣子は参内していないため、親たちも子を待つことなく帰路につく。士爕ししょうは息子がいまだ晋公しんこうの元に侍っていると聞いて、怒りを静かにこらえながら帰っていった。君公くんこうが解放しないことには息子も帰れぬ。日を跨ぐようであれば家長の権限として連れ戻すであろう。この当時、君主の命より父の権限が強いのだ。

 けいの末席、郤至げきしも帰ろうとしていた。彼はこまごました政務に向いておらず退屈な朝政がようやく終わったと開放感にあふれている。この、義に篤く情の深い好漢は、ものごとを単純に見ており、もっと言えば直感で動く。そういったことで、理知を尊ぶ正卿せいけい欒書らんしょからは疎まれているが、郤至は全く気にしていない。

 そういった、直感だけで動く郤至である。帰ろうとせず座したままの韓厥かんけつが気になり、近づいた。

韓主かんしゅ。君公は急な不予ふよでお出にならぬ。なんじも今日はお役御免であろう。さっさと帰らぬと小者が困る」

 政堂を掃除するもの、書簡をかたづけるものなど、宮中には様々な奴隷がいる。彼らは卿がいなくなるまで、控えて待っている。韓厥が動かねば、彼らは責務を果たせない。本来、韓厥は他者の職分を侵すようなことはしない。

僕大夫ぼくたいふとしての私は職務を終えております。しかし、家長として残らねばならぬ。我が嗣子が軽々しい言づけひとつで己の責務を放りだした。私は公族大夫こうぞくたいふの父として、この政堂で待たねばならぬ。……他の職分を侵すことになれど、これは譲れぬ」

 薄い表情のまま、韓厥が返した。晋公州蒲しゅうほ韓無忌かんむきを韓厥のコピーペーストなどと評したが、これは全く当てはまらぬ。韓厥に比べれば韓無忌など豊かな表情というべきである。晋公を侍従長として支えている韓厥は、かつて司馬しばに任じられていた。現代で言わば軍政と軍務の双方を司る準大臣といったところであろうか。彼は若い頃から謹厳実直さ、沈着冷静さ、そして何より理知と胆力のある人としられ、そこに情の一切をいれないことでも有名である。情が無いわけではなく、公私をわける処世術に優れているのだ。

 その彼にとって、息子の雑で軽々しい行動は噴飯ものといえた。が、郤至には韓厥から怒りを感じなかった。

韓伯かんはくが責務を投げ出すほどのことだ。汝に顔を合わせて伏して願い失礼致しますとできぬほどのことであったのであろう。なんだ。物思うことあり遅れます、とでも言っているのか」

「他家のことです、と申し上げたいところであるが、あなたはこういったところをこじ開けようとなされる。同じ卿として改めてほしいところです。が、そこまで仰るなら、伺おう。何かご存じか」

 郤至の言葉に、韓厥が真っ直ぐに顔を向いて問うた。どうも、韓無忌の言づけ内容と郤至の言葉は一致してしまったらしい。

「親が知るは無粋、と言いたいが、ここは申し上げよう。韓伯は昨日の朝、恋をしてしまったらしい。本人が言うに『菊の香りのする女官』だそうだ」

 韓厥が少し考えるそぶりをしたあと、薄い表情のまま、そうですか、と頷いた。眉をしかめるか、それともあっけにとられるか。韓厥の鉄面皮が崩れると楽しみにしていた郤至は、少しがっかりした。が、本番はこれからである。

「ところが、わたしにはそのようなものは見えなかった。韓伯は虚空に向かい礼を言い、はにかんでおられた。あれは一目惚れでもしたのであろう」

 見えぬと言った矢先に一目惚れと言い放つ。郤至の言葉は支離滅裂であったが、韓厥が驚いた様子はなかった。まあこの壮年に驚くという作用があるのか疑問ではあるが。

「どちらにせよ、無忌むきは己の責を忘れ、おおやけの場で私人としてふるまっている。それは許されるものではない。私はあの者を叱らねばならぬ」

 深い水底のような声で言うと、韓厥が軽く目をつむった。

「えぇ。失恋確定の息子にそれは酷くないか? この宮城で見えぬ女官に恋をした。わかりやすく失恋確定だぞ? そっとしておいてやれ」

 大仰なしぐさで嘆くふりをすると、郤至は韓厥の顔を覗きこんだ。韓厥の表情は全く動かなかったが、口は動いた。

「その思い出はの者のもの。私はあのものの無責任を叱るが、失恋の悲しみは奪わない。恋は成就しても失っても、他者が立ち入るべきものではない。人生の糧というもの」

 郤至は、こいつ恋とかしたことあるんだ、と目を見開き、驚きすぎて笑った。


 中天にさしかかっていた太陽はそろりと傾き始めていた。このころの貴族は朝に政務を行い、昼過ぎには帰っていく。大臣候補である士匄しかいたちもそこは変わらない。

 初めて参内したその日から、朝に学び、終われば父に報告して帰る。韓無忌は愚直なまでに守っていたそれを、この日破った。それどころか、人前で冠を外し、貴族としてでなく人としても恥ずべき姿となっている。彼は、手に持ったかんざしだけを見つめて立ち尽くしていた。手に冠が無い。勢いで放ったらしい、と今さら気づいたのである。

「冠はこちらです。僭越せんえつでございますが、おぐしを整えてもよろしいでしょうか」

 菊の女官が冠を持って韓無忌に話しかけた。ぼやけた視界に、切れ長の美しく涼やかな目が鮮やかであった。

 韓無忌が菊女きくにょの手を取ろうとした時、

「いけません。その方は、人じゃあないです」

 と厳しい声音が庭に響いた。内宮から駆けてきた趙武ちょうぶであった。士匄はその後ろをおっとりと追いかける。趙武は正しいかもしれぬが、この場合無粋だ、と士匄は鼻をならした。

「おい、韓伯。その女官はあなたの従者か」

 勇むような趙武の肩に手を置いて、士匄は問うた。韓無忌が戸惑った顔を見せたが、菊女のほうがすかさず口を開いた。

「我が主の許しございませぬが、お答えいたします。私はこの大夫さまのはしためでございます」

「……だ、そうだが。わたしは韓伯に問うた。そこの女の僭越は許すが、あなたの答えはどうだ」

 士匄の挑戦的な口調に、韓無忌が顔をまっすぐとあげて見返してくる。相変わらず遠い目つきであった。

「私の従者だ。……ああ、私に仕える者と言おう」

 その言葉と共に、韓無忌がそっと菊女の手をとった。菊女が少し頬を染める。それは、地精の群衆たちには無かった恥じらいと感情であった。趙武がさらに止めようとしたのを、士匄は制す。

 菊の咲き誇る庭は、清々しい香りが心地よい。むせ返るように充満していたそれは薄まり、常の奥ゆかしさがあった。風が花弁をなぞるように滑り、見分けのつかぬ菊の群れがさざめくように茎と花を揺らした。秋の穏やかで柔らかい陽光の中、韓無忌が菊女にそっと手を引かれながら、堂へと進んでいく。昨日、今日と菊茶をふるまわれた場所である。促されるまま座し、韓無忌は女に頭を預けた。菊女は本当に如才なく、櫛と髪を撫でつける生薬を取り出して、梳いていく。

 髪を結い上げられながら、韓無忌は己を冷笑した。菊女は全てにおいて、ゆきとどきすぎであった。

 堂の窓から見える光景にポカンとする趙武を、士匄は後ろから肩を回し、少し身をかがめて引き寄せる。趙武が怪訝な顔を隠さず向けた。

「なんですか、気持ち悪い。いえそうでなく、韓伯が危ないです、あの女官を引き離さないと」

「お前は本当に、無粋オボコ、こっち方面に鈍いな。ちょうどよい、昨日の学びの続きだ。韓伯自身が、女の扱いをご披露される、とくと見ろ」

 は!? と叫ぶ趙武を強引に引きずり、士匄は入り口から中を堂々と覗いた。つられ、趙武も中を見る羽目になる。髪が整えられ冠をつけた韓無忌が座って女官を眺めていた。女官もその視線に合わせるように韓無忌を見つめていた。未成熟な趙武も、さすがに二人が色っぽい関係になりつつあるとわかった。

「古来、他者のこういったものは見てはならぬのがしきたりと伺っております、離してくださいっ」

 顔を赤らめて小声で怒鳴る趙武を士匄はせせら笑った。

「その作法は間違いだ。古来、他者の恋、むつむ姿を愛でるのが大夫のならいというもの。お前は特に勉強しろ。女のあしらいが酷すぎる」

 士匄の声は軽薄な響きがあったが、趙武の顔は曇った。己が未熟だったからてきの女たちは死を迎えたのではないか、という思いがあった。未熟にありがちな思い上がった発想であったが、少女を守りたい少年の本能でもあった。

 ともあれ、士匄と趙武は悪趣味にも先達の逢瀬を覗いている。

 韓無忌は声と気配でわかったが、無視をした。不躾で無神経、好奇心旺盛な後輩たちに見られようがどうでもよい。ただ、菊女を見る。ぼんやりとした視界の中で、嫋やかな体、切れ長の瞳、白い肌、が浮き上がるように映る。そのほとんどが、韓無忌の脳が作る幻の姿に違いない。

菊茶きくちゃをご所望でしょうか」

 菊女の言葉に韓無忌は首を横に振った。心の奥底に、彼女と菊茶を飲み、指を絡め、そのうなじに唇を落としたいという熱さはあった。それを浅ましいと切り捨てるほど韓無忌は傲岸ではない。

 認めねばならない。己は、この、昨日会ったばかりの女官が恋しい。

「あなたは菊を世話するものなどではなかった。菊に関わるもの、とは言ったが、世話役などではなかった」

 韓無忌の自嘲を含んだ言葉に菊女がおどろき

「畏れ多いそのような」

 と首を振る。それを制して韓無忌がさらに口を開いた。士匄は、クソ真面目なことだ、と肩をすくめながら様子を伺う。興奮と混乱と無駄な義憤で暴れそうな趙武を、とっくに羽交い締めにして口をふさいでいた。ふーふーとした息が気持ち悪いが、士匄は珍しく我慢した。

 さて、続く韓無忌の言葉である。

「あなたはあの、消えた女たちと同じものであったと言っていた。あなたは、女官ではなかった。あなたは人ではなく……あなたは人の心など本来は無く、人の姿も本来は無い」

 菊女が黙って拝礼した。そのとおりです、と言ったようなものであった。韓無忌は、薄く笑った。己を嘲笑う顔であった。

五子之歌ごししかという話があります。王が諫言を聞かず――言わせなかった話です。私はあなたに『違う』と言わせなかった、あなたに虚偽の罪を犯させ、言葉を封じていた。そもそも、全て、私の妄想が作った虚像です。あなたは一途にもそれを受けてくれた。感謝を。そして、申し訳なかった」

「いいえ。あなたさまが私に道を示してくださったのです。私たちは……いえ、感謝しております」

 菊女が韓無忌をいたわるように微笑んだ。その、柔和かつ清爽な所作は、韓無忌の心を強く掴む。恋しい気持ちが募る。

 当然である、彼女は韓無忌の理想をそのまま映した存在なのだ。

 役に立たねばならぬ地精として、韓無忌に声をかけた、までは本能の行動だった。韓無忌はそこに己に都合の良い女を、見た。地精は韓無忌の気持ちに答え、菊の香りにも似た清々しく奥ゆかしく、いたわりと優しさがあり、職分に忠実な女官となった。

 この地精を基点に同類の女官が生まれたが、始まりの女だけを韓無忌は好きになった。そして今、この菊女だけがいる。

「……私はあなたが好ましいが、あなたの心はまやかしです。あなたをそのように惑わしたのは私の不徳です」

 韓無忌の言葉は、いつもより訥々とつとつとしていたが、堂内によく響いた。士匄にももちろん聞こえている。なんと辛気臭い口説き方だと呆れた。趙武は、韓無忌の言葉に痛みと苦しみを感じ、静かに顔を向けて、じっと見る。暴れるのをやめた後輩に気づき、士匄は両手を離した。

「私は大夫さま……あなたさまに菊のものと認められ、菊茶を奉り、先程はおぐしを整えて冠のお世話をいたしました。私はあなたさまの従者、あなたさまのもの。惑わしたなどというお言葉、悲しく情けのうございます。あなたのお情けを欲するだけのものなのです。私はあなたの花です、まやかしなどと仰らないでくださいませ」

 菊女が、ついっと韓無忌の袖を取った。それは韓無忌の理想から外れていた。この女官は地精から脱皮し、人となろうとしている。一人の女として男の愛に応えたいと顔を向けていた。

 韓無忌は菊女の手を取り引き寄せた。そして、顔を触る。韓無忌にとって、それは見ることに等しい。女の顔を丁寧になぞり、形を確かめていく。想像どおりの、柔らかな唇、細い鼻、長いまつげであった。

 そのまま韓無忌が女を抱きしめるように押し倒した。趙武はさすがに生唾を飲んだ。いくらおぼこでも、これが睦事に繋がる所作だとわかる。

「いやあの范叔はんしゅく。これ、見ちゃいけないやつですよね!? あとは若い二人でどうぞ、てするやつですよね!? 韓伯のズッコンバッコンはさすがにいかがなものでしょうか!?」

「……お前、オボコのくせにホント言葉だけはエグいだな。さて、趙孟ちょうもう。お前の期待どおりになるかどうか見ものだな」

 せせら笑う士匄に趙武がゆでタコのように顔を赤く染めながら、期待してません! と噛みつくように言う。士匄は一瞥もくれずに、韓無忌ヘ視線を滑らせた。愛しさが込められた所作に、色味がない。愛欲の熱情が感じられない堂の中は、少し寒さがあった。穏やかであるが冷たい風が、空に舞う。

 韓無忌の手が、女の頬を愛しげになぞったあと、その細い首を掴んだ。どくどくと、脈打つものがあり、この女が生きていることが伝わってくる。

 菊女は、韓無忌の大きな手を喉で感じ、ぼんやりとしたあと、目をつむった。地精から脱しつつあるこの女は、男の愛はこのようなものなのか、と思った。内宮で人間の女が、頬を染めて語っていたささめごとがこれなのだと、胸のうちが喜びに満ちる。

 しかし、息苦しい、重い。菊女は苦しさのあまり、韓無忌の腕を掴み、ひっかき、もがいた。昨日までは知らなかった、恐怖さえ思った。

 韓無忌は両手に力を込めて、菊女の首を締めていく。親指を強く強く押すと、細い骨が心地よいほどだった。

「っ、ぅ、っ、ぅぐ」

 声にならぬ呻きをあげ、顔を歪ませる菊女を、愛しい眼差しで見つめたあと、韓無忌は全体重をもって、ボキュリと首の骨を折った。菊女は、窒息する前に、死んだ。目を見開き、涙を流し、口端から唾液が顎を伝っている。韓無忌はその涙をすくうように頬を手でなぞったあと、立ち上がった。憂いなく、悔恨なく、そして恋情も見えぬ、常の薄い表情の彼であった。

「趙孟。私は一人では歩けぬ。あなたが手を引いてくれ」

 何事もなかったように、士匄や趙武へ顔を向けて言う。趙武が我に返ったような顔をして、駆け寄った。

「あ……あの、韓伯。差し出がましいことを申し上げます。この……この女官が、人外だとわかり、討ったのですか」

 韓無忌の行動は恋情ではなく、相手を捕らえるための演技だったのか。そうであれば、彼らしくなく狡猾であり正道ではない。しかし、殺したということは、そういうことなのだと趙武は必死に答えを出した。

「違います。私はこの女官の名を問うことはできぬと思った。しかし、彼女は私のものだと言う。責をとったまでです」

 趙武は、全く意味がわからず困惑した。それを察した韓無忌が少し影のある笑みを浮かべ、

「今はわからずとも、いずれわかる。気持ちだけで名を問うのは愚かなことです。女性と対するとき、常に責を思いなさい」

 と優しく返した。

 名を問うというのは、愛の告白であり求婚である。趙武も来春、女の名を問わねばならぬ。嫁という得体のしれないものが、やってくるのだ。今日出会った、様々な『女の子』は、異界のものたちと変わらない。

 とまどう趙武に、韓無忌がせかすように手を伸ばした。趙武はそれ以上問うことをやめて、手をとりゆっくり歩きだす。韓無忌がそれをよすがについてくる。

 士匄は通り抜ける韓無忌に

「趙孟も良き学びとなったろう。あなたはなかなかに情の重い方だったようで」

 と、からかうような口ぶりで言葉を投げる。韓無忌が、表情一つ変えず、士匄に顔を向けた。相変わらず、遠い異界を見るような目つきであった。

「こういったことは、汝のほうが見本となろう。私は己の心も見えぬ愚者だ。愛しい女の名を問うこともできぬ。卑怯な行いを学びとしてはならない」

 士匄は、朴訥と出される言葉に、くつくつと笑った。趙武が先達二人の会話についていけてない様子が目端に見えたが、放置する。どうせ、今はわかるまい。

「あのまま放り出せば、逃げ出した卑怯者とわたしはあなたを笑うつもりだった。しかし見直した、わたしの手管ではないが、感服しかない。そんなにあの女が恋しかったのか」

 士匄の挑むような声音に返さず、韓無忌は趙武を促し、歩き去った。士匄はそれ以上追求せず、見送った。一応、君命くんめいに従い、事件は解決したのである。二日酔いでさぼっている州蒲に挨拶せねばならぬ。士匄は堂の中にある死体を一瞬だけ目に映した後、内宮へと戻っていく。今度は、庭でなく正式な門へ向かう。大夫たるもの、こそこそと使用人のような扉を使うべきではない、という見栄である。

「そりゃまあ、女を手に入れるに最も早く確実、そして後腐れ無し。なかなかに、情の重い御仁だった、と」

 口笛を吹くような軽さで、士匄は韓無忌の愚かさを称賛する。地精の女、しかも己の都合で生まれたものしたり顔で愛することなどできぬという理性と、恋しい女を己のものにしてしまいたいという情欲を、絞殺することで昇華した。男は女を永遠のものとし、女は男の中で生き続ける。身勝手すぎる恋の成就でもある。

 首を手で絞めるという殺害方法は、相手の命の火を最後まで味わうこととなる。――朴念仁だと思ったが、なかなかに恋に狂う一面がある、と士匄はもう一度くつくつと笑った。

 まあ、このように。韓無忌のエゴ丸出しの恋は終わり、秋から冬へと季節は移り変わる。

 ここで、約十年後の冬の情景をお送りしたい。

 このころ、晋公は次代と変わっており、正卿も韓厥となっていた。十年経てば政権担当者など変わるものである。その韓厥も老齢を理由に致仕を願い出たのがこのころである。当然、隠居願いも兼ねており、嗣子である韓無忌が新たな卿となるはずであった。

 が、韓無忌は断った。それどころか、君主に

「持病があるので弟に譲りたい」

 と宣言までした。

「古詩にございます。あに夙夜しゅくやせざらんや、みちに露多きをおもう。朝も夕も通いたいと思っても、露の多き道に憂いがあるように、私が国を思い務めたくとも病のために満足にできませぬ。民をあわれむこと則ち徳、その身が正しいこと則ち正、人の歪みを正すこと則ち直。この三つを備えたものを仁と申します。そのようなものこそ、次の韓主、卿に相応しいでしょう」

 言外に、己は不徳、不正、人を導くことのできぬ不仁と言う韓無忌は、相変わらずの表情の薄さであった。もはや四十路になった彼である。親への最後の反抗だった。一人で生きていけぬ役立たず、そしてエゴイスト。己がそうであることを、彼自身が一番知っている。父親に何度願い出ても嗣子を降りる許しを得られず、それでもあがき、最後の最後まであがいた。とうとう、己が役立たずと、君主六卿りくけい、そして父の見ている公事の場で宣言した。

 父は何も言わず、時の晋公は許した。以後、韓無忌は歴史の表舞台から消えた。

 この時期、士匄はとっくに士氏を継いでいたため、準大臣と言える立場であった。彼は、韓無忌のみっともないあがきに、やはり称賛のまなざしを向けた。

「豈夙夜せざらんや、行に露多きを謂う。男に靡かぬ貞節な女の言葉だが、男を誘う言葉でもあるな」

 冬の凍えるような寒さの中、士匄は宮城から去っていく韓無忌の背を見て呟いた。見納めである。笄に菊の意匠を見つけ、やはり情が重い、と肩をすくめた。たった一日半しか無かった恋をひきずるのは重すぎる。

「いやまあ、あなたらしく、清々しい」

 同じ学舎まなびやにいたかつての先達に、士匄は嘯いた。

 ところで、余談。

 この数年前、士匄は東国での外交で成功を収めている。その帰路、えいに寄った。通り道だったのである。そこで、骨を埋めたあと、晋へ帰った。バラバラの骨を正しい場所に配置したので、士匄にしては配慮が行き届いている。その骨は、ある秋の日に、郊外で拾った女の惨殺死体なのだが、これ以上は野暮というもの、この稿はここで終えようと思う。

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