江戸界隈巷話『利吉の望み』
mrs.marble
第1話
今宵もどっぷり日が暮れました。
利吉が仕事を始める時刻がやってまいりました。利吉の仕事については後ほど話すとして……。
ここ数日、暮れ六つを過ぎ夜五つになると蕨宿にある神社に必ずやって来る男がおりました。利吉はどうにもこの男のことが気になってなりません。
やって来ました。いつもの男です。
足を止めた男は、鈴緒を掴むとそれを三度振り、二回おじぎをして、二回柏手を打ちました。
「どうか……お輿入れが無事に……どうかお頼み申します」
利吉は必死に聞き耳を立てましたが、また今夜もどうにも肝心なところが聞きとれません。男はずっと手を合わせています。
(輿入れというと、誰かが嫁にいくってことか?)
男が最後にまたおじぎをして、帰って行きます。利吉は気づかれないように後をつけました。道は暗く木の葉が生い茂っていて見失いそうです。辺りは物音一つしません。そーっと足を運びました。男が四つ辻を右に曲がったため、利吉は急いでその辻に駆け寄りました。
「この先は材木問屋の佐野屋さんの勝手口のはず……」
確かめるべく近寄ってみると、
「この忙しいのに何処へ行ってたんだ! とっとと片付けろ! 役にたたねえやつだ! まったく」
「申し訳ありません。申し訳ありません」
怒鳴り声とひたすら謝る声が聞こえました。その後も暫くの間、怒鳴り声と謝る声が交互に続くのでした。
利吉は重い足取りで神社へ戻ると、賽銭箱にもたれかかるように座り込み、月を見上げました。
(あんなに怒鳴られて……)
しかし次の日もその次の日も、そのまた次の日も男は夜五つになると神社へやって来たのでした。
そして数日たったある夜、男が賽銭と一緒に何かを賽銭箱に入れるのを見ました。気になった利吉は、男が帰ったのを見届けると本領発揮! 細く裂いた竹の棒の先にとりもちを付け、賽銭箱の中へスッと器用に差し込むと、ひょいと手首を返し、ゆっくり取り出しました。
「一文銭か! 何か入れたように見えたのになあー」
利吉は月を見上げ、
「お月さま、もっとちゃんと照らしてくださいよ!」
不満そうな顔をして月を見上げ、陰にならないように腕の位置を変えながら、賽銭箱の中にもう一度竹の棒を差し込みました。何度やってもたまに一文銭がくっついてくるだけです。
「絶対何かを入れたんだ」
利吉はぶつぶつ独り言を言い、月の光をさえぎらないように、とりもちの付いた棒を差し込み続けました。
「あっ! これか? 何か書いてある」
何度か折りたたまれた紙には何かが書いてありました。紙を横にしたり逆さにしたり、
「これは、しって字だ。間違いねえ」
利吉はしの字を確認しただけで、紙を元のように折りたたむと、懐にしまいました。
「あーあ、今夜も良い月だな」
両腕を頭の後ろに回し、ごろんと横になると満足げに息を鼻から出しました。そして目をつむったとたん、いびきをかき眠ってしまいました。
次の日の朝、子供たちが神社を駆け回る騒騒しさで、利吉は目を覚ましました。
「あー、よく寝た。今何時だ?」
利吉は両腕を突き上げながら、大あくびをしました。
「さてと!」
材木問屋の佐野屋の方角を暫く眺め、石ころを一つ蹴りました。
「行ってみるか!」
利吉は昨日と同じ道を通って、四つ辻を右に曲がりました。
しかし勝手口に近づくにつれ、不安になってきたのでした。また叱られていたらどうしようと思ったからです。
「馬鹿やろ! 邪魔だどけ!」
「申し訳ありません」
予感は的中。やはり今日も叱られていました。これ以上聞いていられず、利吉は神社に逃げ帰りました。
そしてそのままうなだれていましたが、突然顔を上げ、
「よし、あの男の願いは、おいらが叶えてやる!」
利吉がヘンテコな決心をした瞬間でした。
そしてまた夜がやってきました。五つです。ガランガランと鈴が鳴りました。
「どうかお嬢さまのお輿入れが無事に……お頼み申します」
利吉ははっとしました。今夜はお嬢さまという言葉が聞けたからです。輿入れするのはお嬢さまなのだと分かりました。
そして男は賽銭と一緒に、また何かを賽銭箱に投げ入れました。
利吉は男が帰るのを見届けると、また竹の棒の先にとりもちを付け、賽銭箱に差し込れました。月明かりの中、今夜は白っぽい何かが見えます。見つけたと思った利吉は狙いを定めると、一回で取り出すことに成功。得意げに折りたたまれた紙を広げ、更に懐から昨日の紙を取り出すと、見比べ始めました。
「この字とこの字は一緒だ。この字とこの字も一緒だ」
利吉は一つずつ丁寧に見比べました。全く同じ字が書かれていることが分かりましたが、何が書かれているのか、さっぱり分かりません。どうしたものかと悩んだ末、利吉は怒鳴られるのを覚悟で、神社の宮司に見てもらうことに決めました。
朝になりました。
「賽銭と一緒にこの紙をその男が投げ込んだのか?」
「へい」
「もしかして、いつも賽銭を盗むのはおまえか?」
「すんません。二度としません。二度としませんからこれを読んでください」
「お前、名は何という?」
「へい、利吉といいます」
「利吉か。しかし、人の願いごとを盗み読みして何とする?」
「あいつは毎夜毎夜ガラガラを鳴らしに来るんです。お嬢さまが輿入れとか言ってました」
「なんだお前、盗み聞きまでしたのか? 全くお前ってやつは」
宮司は呆れた顔をしながらも、紙を広げました。
「何て書いてあるんです? この字はしっていう字ですよ!」
利吉は紙に書かれた、しの字を指差しました。
「分かっておる! わしまで悪いことをしている気分になってきた」
利吉は心配そうに宮司の顔を覗き込みました。すると宮司は大きく息を鼻から出すと、
「お前の言う通りみたいだ。男は佐野屋の奉公人と言ったか?」
「へい」
「そうか、佐野屋の娘子が輿入れするか! それはめでたいのう。もしかしてその男は、娘子のことを好いておるのかのう……」
「好きならお嬢さまと祝言を挙げられるので?」
「それは無理じゃろう。それに、この紙には輿入れが無事に整いますようにと書かれておる。自分のことなど何も書いてはないぞ」
利吉は宮司を見上げました。それなら毎夜毎夜必死に願いに来るのはおかしなことだと思いました。男は心配で仕方がないように見えたからです。
「宮司さま、あの男はものすごく心配しています」
「心配?」
「へい」
「何をじゃ? 奉公人が心配するようなことではなかろう」
「だからそれを宮司さまに聞いて欲しいのです」
「なに! わしが? わしが聞くのは変だろう……お前が聞け!」
「えっ、おいらが?」
「それが一番自然……だろう」
「自然って?」
「いいからお前が聞け。知り合いなんだろう?」
「話したことないです」
「なに! 話したこともない奉公人のことをお前は心配しているのか?」
「だって毎夜毎夜『お頼みします』って言ってるから」
「じゃあ、その心配ごとを何とか聞き出せ。分かったな。わしまで心配になってきた。もうわしは行くからな」
そう言うと、宮司は本当に行ってしまいました。
さあ大変です。どうしたものかと考えましたが、妙案など浮かぶはずもなく、時間だけが過ぎて行きました。
そしてまた夜五つを知らせる鐘が鳴り始めました。男はもうそこまで来ているに違いありません。
男の前に出る勇気などありません。まして声を掛けるなど、とんでもないことです。
来ました来ました。
男はいつものように鈴を鳴らすと、二回おじぎをして二回拍手を打ちました。そしてまた願いごとを言い始めました。
「どうかお嬢さまのお輿入れが無事に整いますように。どうかお頼み申します」
やっぱりだ! 無事に整いますようにって言ったぞ。
???けど、どういうことだ? 利吉は首を傾げました。
「いったい何が心配なんだ?」
「は、はい! 盗賊のことが心配で心配で」
「えっ! 盗賊?」
「は、はい。手代の草太さんが言っておられました。江戸へ行くには、どうしても難所を越えなくてはならない。問題はその難所だと。通行人を襲う盗賊が出るらしいのです。お嬢さまが盗賊に襲われたらどうしようかと」
利吉は慌てました。独り言を聞かれてしまったからです。更に男が何を心配しているかまで、分かってしまいました。
「そ、そうか。盗賊か、それは困った」
「あのう、もしかして神さまですか? 神さまお願いがあります。どうかお嬢さまをお守りください。お頼み申します」
男は合わせた手に力を込めながら、神さまの返事を待ちましたが、それきり声がしなくなってしまったため、何度も頭を下げ帰って行きました。
それもそのはず、利吉は社の陰でひっくり返ってしまっていたのです。心の臓は太鼓のようにドンドン鳴り、今にも口から飛び出してきそうでした。
時刻を告げる鐘の中に頭を突っ込んだように『ぼわ~ん』とした瞬間、利吉はひっくり返ってしまったのです。
それからどの位の時間が経ったのか。
「あっ、何時だ?」
生がついたのは、九つをとうに過ぎた頃でした。
「確かに男は盗賊と言った」
とにかく夜が明けるのを待って、宮司さまに話そうと思いました。きっといい考えを教えてくれるはずです。
今宵も綺麗な月が出ています。
腕を頭の後ろに回し寝転ぶと、月を見上げました。月明かりは何かと役に立ってくれ、利吉にとっては無くてはならない存在。感謝しながら月を見上げているのかと思いきや、あっという間にいびきをかき、深い眠りの中へ。
今日も利吉の一日が終わったようです。
早朝、いつも境内を掃き掃除している若い男が竹箒を手にやって来ます。利吉は走り寄ると、宮司の居場所を聞きました。
「社務所におられます」
利吉は一目散に駆け込みました。
「宮司さまはおられますか?」
「ここにおるぞ」
奥から出て来た宮司を見つけると、利吉は必死に手招きをしました。
「お前か」
「宮司さま分かりました。盗賊でした」
「盗賊? ちゃんと分かるように説明しなさい」
「へい。江戸へ向かう道中の、難所という所で盗賊が出ると言ってました」
「難所? ああ、戸田の渡しの先のことだな」
「宮司さまその場所が分かるんで?」「暗くて長い急坂で、確かに難所だ。あそこに盗賊が出るのか……」
「宮司さま。どうすればいいので?」「よし、わしに良い考えがある。佐野屋へ使いを出そう」
そう言うと宮司は社務所に戻って行きました。利吉は参道に座り込み、石を掴んでは投げ、拾っては投げておりました。
「利吉ー」
宮司が手招きをしています。利吉は急いで駆け寄りました。
「こっちへ入れ!」
社務所へ入るなど、初めてのことです。自分のような者が入っていいものかと戸惑い、敷居をまたげずにいました。
「何をしておる。障子を閉めてここへ早く座れ」
利吉は座ると同時に間違いなく怒鳴られると思っていました。毎夜毎夜賽銭泥棒をしていたからです。
「宮司さま、申し訳ありません。申し訳ありません」
口を突いて出たのは、佐野屋の奉公人と同じ言葉でした。
「おい利吉、わしは良いことを思いついたぞ!」
「えっ?」
「近い内に佐野屋の主人をここへ呼ぶ。そしてだなー」
宮司が意気揚々と話し出した内容はこうでした。
まず佐野屋の主人に婚礼の祝いを述べる。次に盗賊が出るやもしれない難所の話をする。そしてあの奉公人を行列の一行に加えれば、必ずや良い働きをし、役に立つと提案する。
「どうじゃ!」
「へい! あいつがお嬢さまと江戸まで一緒に行けるんで?」
「そうじゃ、善は急げ、善は急げじゃ」
あの男が輿入れの一行に加わることができれば、盗賊から必ずやお嬢さまを守り抜くに違いないと思いました。
宮司の妙案に大満足し、利吉は佐野屋が神社にやって来るその日を、一日千秋の思いで待ちました。
そしていよいよその日。
やって来た佐野屋の前に宮司は座りました。佐野屋は一礼すると、
「今日は宮司さま、大切なお話があるとのこと。いかなることでございましょうか?」
「うん。実はそちらの娘子が江戸へ輿入れすると聞きましてな。他でもない佐野屋さんのこと。祈祷をしてしんぜようと思った次第。どうですかな、良ければ今すぐこれから」
「まことでございますか! これは有難いこと。是非よろしくお願い申します。しかし今日は私一人でございますので、後日娘のお里を連れて参ります」
「あー、うん。それもそうじゃが……代参ということで、佐野屋さんだけでも問題はない。今からどうじゃ?」
「そうですか。では有難く受けさせていただきます。よろしくお願い申します」
「んじゃ、こちらへ」
宮司は祈祷所へ佐野屋を案内しました。内心ははらはらしておりましたが、本番はこれからです。上手く事を運ばなくてはと思うあまり、宮司はひょこひょことぎこちない歩き方になり、後ろからついて行く佐野屋は、不思議そうに宮司の後ろ姿を見ながら、あとに続きました。
祈祷が始まりました。
「高天が原に〜祓へ給ひ清め給ふことを〜聞こし召せと白す」
突然その時宮司が振り向きました。佐野屋を見て微笑んでいます。びっくりしたのは佐野屋です。目を見開き口をぽかんと開けています。
「佐野屋さん、年の頃は二十歳位の奉公人がおるじゃろ」
「はい一人。まだ店に来て日が浅く、一年経つか経たないか位の丁稚ですが、その丁稚がどうかしましたか?」
突然振り向いたかと思えば、いきなり丁稚の話です。佐野屋は戸惑いながら宮司の顔を見ていますと、今度はにやりと微笑み、
「娘子の輿入れの際、江戸までその者に共をさせなさい……と、今お告げがあった」
「ほう、あの者に。確かに共の人数は多い方が良いですから。承知しました。共をさせます」
「いやー良かった。うまくいった。安堵しましたぞ!」
「はっ?」
「あっ、いやいや、必ずや役に立つことと思いますぞ」
あとは取り留めのない話をして、佐野屋は帰って行きました。
宮司は安堵と脱力感でぐったりしてしまい、暫くの間立ち上がれずにいました。
「あーやれやれ」
「宮司さま、宮司さま! 佐野屋さんが帰ったようですが」
「おお、利吉か。こっちへ来てくれ、力が抜けて難儀をしておる」
それを聞いた利吉は血相を変え、慌てて走り込んで来ました。
「宮司さま! 大丈夫ですか?」
利吉が走り寄ると宮司は、両足を前に伸ばし、両手を後ろにつき、安堵の笑みを浮かべておりました。利吉はほっとしました。
「佐野屋が承知してくれたぞ、うまくいった。やれやれだ」
利吉の胸は高鳴りました。これであの男は、お嬢さまの輿入れを見届けられると思いました。盗賊が出ても、きっとあの男が守り抜くに違いないと思いました。
目に涙を溜め、ほっとしている利吉を見た宮司は、
「お前もおかしなやつだなー、知り合いでもない男のために。利吉、これで良いのか?」
利吉は声を出すことができず、何度も頷きました。堪えていた涙が畳の上に落ちました。
宮司に礼を言い社務所を出ると、もう日が落ちていました。参道を歩きながら、月を見上げました。今夜も綺麗に輝いています。
そして夜の五つになりました。
けたたましく玉砂利を鳴らしながら、あの男が走って来ます。そしていきなり鈴をならすと、
「有り難うございます。神様、有り難うございます」
そう言ったあと、男は柏手を打ったまま、立ち尽くしていました。利吉は少し離れた所から、隠れることなく男を見ていました。いつもの真剣な男の顔が、今夜は少し和らいで見えました。
それから一月半後、佐野屋の店先が騒がしくなりました。
いよいよ江戸は日本橋に向けて嫁入り駕籠が出発するようです。
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