氷雨の冬の日

 少女と青年が出会ってから数日の事。

 冷たい、冷たい雨が降り注いでいる日のこと。


 青年の家の中で、少女は暖かい飲み物を飲んでいた。

 座るソファーはふかふかとしていて、冷たい地面とは比べようがない。


 向かいにあるもう一つのソファーに座る青年は、少女の方を向きやわらかく微笑んでいる。

 時折、唇の動きだけで、「寒くない?」と尋ねている。


 首を横に振りながら、少女はココアを飲む。

 ストーブで暖められた室内は、心地よい温度で快適だった。


 二人が出会ってから数日しか経っていないけれど、いくつか少女にはわかったことがあった。

 青年が、喋れないということ。今まで、ずっと独りで暮らしてきたということ。


 わたしを拾った、変な彼。

 彼はあの雪の日、一言もしゃべらなかった。無口な人なのかと思っていたの。


 だから、わたしは尋ねたの。どうして喋らないのかって。

 そうしたら、返事をする代わりに紙に何か書いてわたしに見せたの。


『僕はね、喋ることができないんだよ』


 さらさらと書かれた綺麗な字だけど、言葉は悲しいものだった。

 それを見て、わたしは固まってしまったわ。それに恥ずかしくなった。


 喋ることの出来ない人に無口だなんて、とても失礼なことよね?

 だから慌ててわたしは謝った。でも彼は、少しだけ悲しそうに微笑むだけだった。


 その後にしてくれた話では、幼いころに病気にかかり、その後遺症らしい。

 それ以来少女は、なるべく青年の唇の動きを読んで、会話をしようと努力していた。


 簡単にはできないことだが、一生懸命に努力をしていた。

 長い言葉や用件などは、青年が紙に書いて答えた。

 少女が紙を使って尋ねることもあった。

 声のない会話だったが、なんら不都合はなかった。


 少女から尋ねることが多かったのもあるのかもしれない。


 いつのまにか青年を見ていた少女は、我に返ってコップを置いた。

 向かいでは、青年が不思議そうに首をかしげている。


 何でもないというと、不思議そうにしながらも彼は笑った。

 青年は、本当によく笑う。

 ハンデなど気にしていないかのように、くるくると表情はよく変わる。


 目は口ほどにものをいうというけれど、この青年の場合はまさにそれ。

 視線だけで、何となく何が言いたいのか、少女でも理解できてしまうほどに。


 そんな眩しい笑顔を見て、少女はどこか後ろめたく感じていた。

 ココアを飲み干し、コップをもって台所へと向かい、食器洗いを始めた。


 食器はお昼分しか溜まっていなかったが、こまめに洗うのが好きなのだろう。 

 少女の動きを目で追った後、青年は本棚から数冊の本を取り出し読み始めた。


 手早く食器を洗って水気をふき取ると、少女は棚へとしまいに行く。

 しまいながら、棚の中を眺める。


 並んでいる食器の数は少なく、どれも使い込まれたように見えた。

 その食器のよこには、真新しい食器がいくつか並んでいた。


 本当に独り暮らしをしていたのだな、と少女は思った。

 まさか、新しいものを買いにいくなんて思ってもいなかったわ。


 わたしを連れてきたと思ったら、洋服や食器を買いに連れて行かれたんだもの。

 彼いわく、必要最低限のものしか家にないから、らしい。


 洋服はわかるけれど、食器までというのはわからない。

 そんなに極端に少なそうには見えないのだけれど?


 不思議に思いながらも少女は食器をしまい、棚を閉めた。

 新品の方がいいでしょう? というのが青年の言い分だったのだけれど。


 少女はソファーへと戻りながら、次に何をしようかと考えていた。

 洗濯物は……朝のうちに干しておいたし、まだ晩御飯の支度は早いわよね。


 特に外にでる必要はないし――


 基本的に、家事全般は二人で分担して行っていた

 少女はほとんど初経験のものばかりだったが飲み込みが早いのか、どんどんと上達していった。


 最初の頃は、青年の分も洗濯などをしていたのだが……


『いつもどうり、普通にしてていいよ。あまり気を遣わないで?』


 そう言われてしまったので、それ以来は自分の分だけにするようにしている。

 掃除や、食器洗いなどは別なのだけれど。


 それを聞いたときに少女は、とても意外に思った。

 いつのまにか自分を拾った青年に対して、気を遣っていたから。


 正確には、哀れんでいたというのが正しいかもしれない。

 驚きながらも、割り切ろうとした少女はたくましいのだろう。


 少し前の自分も、同情されることは嫌いだったから、わかるのかもしれない。


 すぐに少女は出会ったときのような調子に戻った。

 そんな少女を見て、青年が密かに苦笑いしていたことを彼女は知らない。


 つらつらと考え事をしている少女に、青年がすいと紙を差し出した。


『今日の夜は、何か食べたいものはある?』


 ようするに、青年が少女に聞いているのは晩御飯のリクエスト。

 それを見て、少女は何にしようかと考える。


 彼……とっても料理が上手なのよね。わたしとしては、ちょっと気に食わないわ。

 ここに来たとき、ありあわせのもので作ってくれたけれど、とても美味しかったもの。


 少女が空腹だったからだけではなく、青年の腕も関係していることは確か。

 暖かいものがいいな……と思いながら少女がリクエストした料理は。


「えっと、オムライスが……いいわ。で、でも、わたしの分はちゃんと自分で作るからね」


 子供の好きな料理の定番、オムライスだった。

 青年は立ち上がると、冷蔵庫を開けて何事か確認すると、またすぐに戻ってきて頷いた。


 どうやら、調理に必要な食材は十分に足りていたらしい。


『頑張ってね、少し難しいけれど』


「平気よ。あなたほど上手くはできないでしょうけれど……たぶん、大丈夫よ」


 薄く笑うと青年は、再び読書へと集中していった。

 しばらくはぼんやりとしていた少女だが、やがて自室へと歩いていった。


 振り返らずに歩いていったので、少女は見なかった。


 途中で青年が、もう一度冷蔵庫の中身を確認しにいったことを。

 青年は料理手順を思い出しながらも、考えていたのだった。


 洗い物や掃除はやっているのを見て、それなりに少女は上手らしい。 

 ただ、自分が料理している様子を物珍しそうに少女は眺めていた。


 それが気になり、青年はもう一度材料を確認しにいったのだった。

 この晩、青年の予感は的中してしまうこととなる――



『ええと……大丈夫だから、あんまり気にしないほうがいいよ』


 青年がそう書いた紙を少女に渡したのは、夕食時、これから食事を始めようというとき。

 二人の前にはリクエストどうりのオムライスが並べられていた。


 青年の前には、ふわふわとした半熟の卵がとろりと乗っているオムライス。

 少女の前には、少し硬めに焼きあがってしまった卵の乗ったオムライス。


 ひっくり返すのに失敗したものか、所々形が崩れ、焦げた後がありすごいことになっている。

 宣言したとおり、少女が自分の分を作った結果である。


「うぅ……こんなはずじゃあなかったのよ? なんてこと……」


 自分の作った料理を前にしながら、先ほどから少女はぶつぶつと呟いていた。

 ああ。火加減がまずかったのかしら? でも同じ火力で調理したはずだし。


 あんなにひっくり返すのが難しいなんて。

 柔らかいからまだ大丈夫と思っていたら、あっというまに火が通って――


 焦げてしまった。


 何度も頑張ったのに、さっぱり上手くならないなんて。

 青年よりも料理が下手というよりも、すごい料理ができてしまったことが、少女にとってはショックだった。


 少女を慰めようと頑張っている青年はこう思った。

 今度は、小さくて軽いフライパンを買っておこうと。


 彼には平気なものでも、少女には重すぎたようだ。ひっくり返すのにかなり手間取っていた。

 戸惑う少女に気づいた青年が手伝ったものの、時既に遅しだった。


 それだけなら……まだ、よかったかな。

 そう思いながら青年は、台所のほうを見る。


 数枚の皿にたくさん入っている――焼き卵。いや、卵焼き?

 とにかく、オムライスに乗せられなかった卵が置かれていた。


 そのまま止めるのかと思った少女が、何度かチャレンジした結果である。

 どれも似たような結果になってしまい、卵だけが残ってしまった。


 卵を買いに行かないと……と思いながらも、青年は少女に食事を勧める。


『そろそろ食べないと、冷めてしまうよ?』


 少女は、じいっと、青年を見て、オムライスを見てから――スプーンですくって食べ始めた。


「どうせわたしのは、時間に関係なく硬いし、ぼそぼそしてるもの」


 相変わらず何事かを呟いてはいたが。

 苦笑しながらも、青年は自分のものを口に運ぶ。


 ちなみに、二人の卵の下のチキンライスは青年が作ったものである。

 卵は柔らかく、すくうとバターのいい香りが漂った。


 一口食べてから、少女の方を見やる。


「火力かしら……腕かしら。いえ、そもそも――」


 まだ何やらぶつぶつと言っている。

 それでも美味しいのか、スプーンはせっせと動いていたが。


 よっぽど悔しかったのだろうと青年は思って。

 また一すくいしてから、青年は少女の肩を、とんとんと叩いた。


「……何?」


 食べる手を止めて皿から顔を上げた少女の目の前に、スプーンが差し出された。

 スプーンにのったご飯から漂うのは、いい香り。


 びっくりして動きが止まった少女へと、青年は唇の動きで伝える。


『食べる?』


 ぱちぱちと瞬きしてから、少女は素直に受け取って、食べた。


「悔しいけど――美味しいわね」


 その言葉を聞いて、青年の顔が綻んだ。


 屈託のない笑顔に恥ずかしくなったのか、少女はそのままスプーンを返すと、俯いてしまった。

 耳が赤く染まっているのは、青年には見えているのかいないのか。


 絶っ対に、上手になって見せるんだから……!


 小さな決心をした少女だった。


 後日、大量の卵焼きは青年の手によっていくつかのお菓子に利用されたのは、また別のお話。

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