額の上なら友情のキス

 学校の屋上には、春特有の柔らかな風が拭いていた。

 お昼時にも関わらず人はほとんどいなかった。


 柵にもたれかかっている男と、それを離れた場所から見ている女以外には。

 吹き抜ける風は爽やかだけれども、杏子の気分はちっとも爽やかではなかった。


 杏子の気分を害しているのは、落ち込んでいる哲生が原因だった。

 うんざりとしながら、落下防止用に設置されている柵をみた。


 そこには体を持たれかけながら、憂鬱な顔をしている哲生がいる。

 昔から、何かあるとすぐ落ち込む癖が哲生にはあった。

 わかってはいるものの、今回はひどかった。

 見ているこっちまで気分がめいってしまいそうなほど、暗い顔をしている。


「はぁ……まったく。どうにかならないのかな、あれ」


 哲生を見て、杏子は再びため息をついた。


 放っておいたらいつまでも落ち込んでいそうなので、仕方がなく哲生へと声を掛けた。


「ちょっと、テツ。いつまでそうやってるつもりよ?」


「あぁ?」


 落ち込んでいるせいかはわからないが、普段よりも少し柄が悪い。

 まったく何よ。


 この前の大会で負けてしまったくらいで、少々落ち込みすぎじゃない。

 こんな所で落ち込んでいるよりも、次の大会に向けて頑張った方がいいと杏子は思う。


「いつまでったって、仕方ねえだろ? やる気も何も全然起きないんだよ」


 体は一応杏子の方を向いているが、中身はまったく入っていない。


「ちょっと、もう少しシャキッとしたらどうなのよ? 大会はあと一回しかないのよ」


 三年生である杏子たちにとって、大会のチャンスは直になくなってしまう。

 出れたとしても、次の夏の大会までだろう。


 それも、予選で負けてしまえばそこで終わり。後は部活に打ち込む時間もなくなってしまう。

 杏子はマネージャーとして部活に参加しているのだが、スケジュールに余裕はない。


 他の部員は気持ちを切り替えて既に練習を再開している。彼だけが止まったまま。


「皆はもう練習再開してるのよ? 落ち込んでる暇があるんだったら――」


「五月蝿いんだよ! 俺に指図するなっ」


 杏子の言葉は、哲生の怒鳴り声に掻き消された。

 その声の大きさに、杏子はひどく驚いた。少し怯むものの、負けじと声を張った。


「何よ、アンタのこと心配してやってるのよ? 怒鳴ることないじゃない!」


「ああ!? 心配しろだなんて、誰も頼んでないだろうが」


「だからその態度! そんなんだから、負けるのよっ。皆に追い抜かれるわよ?」


 ちょっと言い過ぎたかな……でも、きつく言わないと薬にならなそうだし。

 これも哲生のためだと思い、さらに杏子は言葉を続けた。


「屋上で暇つぶしてるんだったら、さっさと練習に――」


「……るさい」


 低い声が聞こえて、杏子は喋るのを止めた。


「五月蝿いっていってるだろ!? 口ばっかりだしやがって、邪魔なんだよっ」


「アンタが動かないからでしょ!?」


 いらっとして、杏子は噛み付いた。けれども、哲生は以前として怒ったまま。


「さっきから黙ってれば、痛いところばかりつきやがって……大体な」


「実際に動いてるのは俺たちなんだよ。ただ見てるだけのやつが偉そうになんだ? 


 マネージャーなんて邪魔なだけなんだよっ!」


 哲生の言葉を聞いて、杏子の頭の中で何かが切れる音がした。

 一体誰が黙って聞いてたっていうのよ……? それにマネージャーなんていらないですって?


 私がいなきゃ、ろくな練習メニューも組めないくせに。

 そもそも哲生ったら、いっつも大事なことの前には体調を崩すのよ。

 別に今回負けたのは体調不良が原因ではないのだけど……納得いかないわ。


 自己管理もできないやつに、いらないなんていわれる筋合いはないわ!

 イラつきと怒りが収まらなくなって杏子は哲生に言った。


「あっそう、それじゃあ勝手にすればいいわよ! 自分達だけで一生懸命練習したら?」


 そういい捨てて杏子は屋上からでていってしまった。

 後に残されたのは、苛ついた哲生だけだった。


 静かな屋上に、舌打ちの音が微かに響いた。



 それから数日間、杏子と哲生は言葉を交わさなかった。


 学校の廊下などですれ違っても知らぬ振りをしたし、哲生は部活にも顔をださなかった。


 最初は杏子も気にしていなかったものの、それが続くとさすがに気になった。

 はぁ……まるであたしが悪いみたいじゃない。


 体育館で、部活の様子を眺めながら、ため息をひとつ。


 部員たちのの動きを見ていても、どことなく普段よりも鈍い。

 ――哲生がいないせいかしら。


 この間は根暗だったが、本来哲生は快活な性格だから。


 部員の間でもムードメーカー的な存在なのかもしれない。 

 やっぱり、もう一回話したほうがいいのかしら。それとも部員と協力してむりやり連れて来ようか……


 しばらく考えた結果、杏子は哲生と話をすることに決めた。

 皆は忙しいんだから、私がなんとかしなくちゃ、ね。


 マネージャーは必要なんだから。


 目的さえ決まれば、杏子はすぐに行動する。

 体育館から、必要なものを取りに教室へと杏子は向かった。



 部活動が始まる少し前。放課後の教室はで哲生は暇をもてあましていた。

 足を机の上に乗り上げ、視線は他愛のない話をしているクラスメイトへ向けられていた。


「おいテツ、今日どっか遊びにいかないか?」


「またバスケ練習に付き合ってくれよ!」


「悪りぃ、今日はパスな。また今度付き合ってやるからさ」


 帰りがけの友人らに遊びに誘われるものの、哲生は乗り気ではなかった。

 だんだんと人の減っていく教室の中で、哲生はため息をひとつ吐いた。


 まったく……これからどうするかな。


 この間杏子に啖呵きった手前もあって、中々部活動には参加しづらい。

 かといって、他の友人達と遊ぶ気にもならない。


 自分で言うのもなんだが、とても情けない気分だと思う。


 あいつは普段めったに怒らないから、少し愚痴っただけだったのにな。

 まさかあんなに怒鳴られるとは思いもしなかった……


 部活動よりも、杏子に対して乱暴な対応をしてしまったことを哲生は気にしていた。

 やっぱり謝んないとまずいよな……しかしどうやって謝ろうか。


 部活動にも参加したいし、きちんと謝っておきたい。


 それを両方達成するにはどうしたらいいのか――

 人のいなくなった放課後の教室で、哲生は考え続けていた。


 まさか数日後に、当の本人から呼び出されるとも知らずに――



 明くる日。杏子は放課後、屋上へと向かっていた。


 屋上で待っているだろう哲生に会うために。

 あいつ……これですっぽかしてたら、承知しないわよ……


 杏子の頭の中に、つかの間剣呑な考えが浮かんでは消えた。

 休み時間を利用して、哲生のクラスの人に言伝を頼んでおいたのだ。


 放課後に、屋上に来るようにって伝えて欲しい。無視したら……どうなるかわかってるでしょう?


 言伝を頼んだ人の顔色が若干悪くなったのはきっと気のせいだろう。

 軽く指の骨を鳴らしながら、屋上へと続く階段を上り、扉を開けた。


 爽やかな風の吹く屋上に哲生の姿を見つけて、杏子は走り寄った。


 走り寄る杏子を見て、哲生はぎょっとしていた。

 表情は笑顔なのだが、背後に怖いオーラが見えた気がしたからだ。

 気のせいだと願いたい。


「テツ、来たわね!」


「おい、お前のその勢いが恐ろしいんだが……」


「何よ、この間は威勢がよかったのに、今日は随分としおらしいのね」


 その様子を見て、杏子はすこし意外に思った。


 この間のように柄が悪いままかと思っていたのだ。

 哲生にも思うところがあったのだろうか。

 そんな事を考えていると、哲生が真面目な顔をして杏子に何かを言いかけた。


「それで、さ。この間のことなんだけど――」


「はいっ、これ持ちなさい!」


 無駄に堅苦しくなりそうだと思った杏子は、何かを言いかけた哲生の言葉を遮って一冊のノートを渡した。


 色々と悩んで考えた言葉を遮られた哲生は驚いた顔をしていた。


 最後までいわせろよ、と内心で悪態つきながらもノートを受け取った。

 ノートのページをぱらぱらと捲った後、哲生は杏子にいった。


「おい、これってもしかして、練習メニューか?」


 そのノートには、補強運動や、シュート練習などのスケジュールが組まれていた。


 体育館に張り出されていたものを哲生は見ていたが、それとはまったく違うメニューだった。

 むしろ、かなり厳しく組んであるほうだ。


 なにが楽しいのか、いじわるそうに笑いながら杏子はいう。


「そうよ。テツ専用の特別メニュー。嫌とはいわせないわよ?」


「嫌とはいわないけどよ……これ、キツすぎないか?」


 それを聞いた杏子の眼が軽く据わる。


「キツイですって? それはアンタが悪いんでしょう? 今まで練習さぼってたんだから。


 うかうかしてると、皆に抜かれるわよ?」


 部員の中では哲生が一番上手なのだが、他の部員たちも負けてはいない。

 少し盛り上がりに欠けていたけど、みんなちゃんと練習してたもの。


「それともなに、やりたくない?」


 さっき、嫌とはいわせないとか言っていたのは何処の誰だろう。

 そんなことを思いながらも、哲生は不敵に笑って返事をした。


「まさか。喜んでやらせてもらうぜ、ありがとうな」


「当然よ。これで次の大会も負けたら、本当に怒るわよ……?」


 そういう杏子の顔は、やはり怖い。


「それはわからないけどな。まぁ、やれるだけやってやるよ」


「いまいちな返答ね……あと一押し必要ね」


「おい、俺はやるっていってるんだが」


「哲生、ちょっと目つむって」


「はっ、なんでだよ!?」


「い・い・から」


 哲生は軽く抗議をしたものの、杏子には敵わなかった。


 意味がわからないまま、目をつむる。

 目をつむっていても、外の日差しは眩しかった。


 頭でも殴られるんじゃないだろうかとひやひやしていると――


 何か、額に柔らかなものが触れた感触があった。


「もういいよ、目開けても」


 いわれるがままに哲生は目を開けて、今のはいったいなんだったのかと考える。


 とりあえず暴力的なものではなさそうだったが……妙に柔らかかったな。

 それに少し温かかった。


 少し考えてもわからないので、哲生は当の本人に聞いてみることにした。


「おい、今の感触……一体なんだ? 妙に柔らかかったんだが」


「ん? ――額にキスしたの」


 杏子の言葉を聞いて、ぽかんと大口を開けたまま哲生は固まってしまった。


 それを見て、杏子は楽しそうに笑っていた。


「おっ、い……何してんだよ!?」


 あらやだ。哲生ったら、顔がリンゴみたいに真っ赤。薬が効いたみたいね?

 笑いすぎて痛いお腹を抱えながら、杏子は言った。


「だから、一押しよ。次の大会で負けたら……今度は口にするわよ」


 ニッコリと怖い笑顔でさらりとすごいことを杏子は言った。


 それを聞いて哲生が少し青ざめた。


「それは……女子としてかなり問題だろっ?」


「まぁ、罰ゲームとでも思えばいいじゃない? ふふふ」


 だんだんと、哲生の顔が引きつってきたのは気のせいかしら。


「大丈夫、額だから、変な意味はないわ」


「変な意味ってなんだよ!」


 ぎゃあぎゃあと騒ぐ哲生へと、杏子はいった。


「とにかく、この私がサポートするんだから、しっかり頑張りなさいよ?」


「――っ、とにかく、部活は頑張ってやるよ」


 そういうと、哲生はいつものように笑った。

 少しけだるそうな、でもやる気に溢れた笑顔。


 これで、もう大丈夫そうね……


 部活には支障がなさそうだと判断した杏子は、屋上を後にした。


 その横では、哲生がノートを見ながら歩いていた。

 スケジュールを頭にいれているのだろう、真剣そのものの顔。


 哲生にすら聞こえないような声で、杏子はぽつりと呟いた。


「テツにとっては、罰ゲームなのかな……」


 その声を拾ったのは、吹き抜ける春風だけ。



 春に吹く風のように ただ静かに寄り添い続ける

 その想い 決して昇華することもなく 違えることもなく


 諦めることも知らないままに ただそこに在り続ける

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