a kiss~接吻

紫宮月音

手の上なら尊敬のキス

 その日は昼間だというのに、薄暗い日だった。

 柚姫が窓の外を見ると、雨が降り注いでいた。


 前の日の晩から降り続いた雨は、今なお止む気配を見せなかった。

 室内には、うっすらと紅茶の香りが漂っていた。


 外を見ていた柚姫は、室内にあるグランドピアノへと視線を戻した。

 室内には、しっとりとした、綺麗なメロディが流れていた。

 鍵盤の上を滑らかに動いている指を、柚姫はじっと眺めていた。

 柚姫が座っている椅子からは、演奏風景がよく見えた。


 ピアノを弾いているのは、柚姫が教えてもらっているカイ先生

 柚姫が先生にピアノを教えてもらい出したのは、小学生の頃だった。

 それまでは、独学でピアノを勉強していたのだけれど、色々と限界が来ていた。


 その時、母の知り合いから紹介されたのが、先生だった。


 昔は、プロになれるチャンスもあったという先生。

 結局それは辞退してしまったそうだけれど。

 どうしてなのか、とか気にはなるけども。

 知らなくていいことだと柚姫は思っている。


 柚姫は、純粋にピアノが大好きだった。

 きっかけは、小さい頃に買ってもらった、小さなおもちゃ。


 勉強はしていたけれども、プロになろうなんてこれっぽっちも考えていなかった。


 音楽関係の先生というとプロを最終目的にしているような……

 そんな先入観があった。


 だから、最初は柚姫は先生に教わることを渋っていた。


 しかし何度か教わっている内に、カイ先生はそのようなタイプではないということがわかった。


 それからは週二回のレッスンがとても楽しみになっていた。


 カイ先生が今弾いている曲は、ノクターン。有名な、ショパンの曲。

 窓の外の雰囲気と合わさって、耳にとても心地よい。

 先生の腕が良いというのも関係しているんだろう。


 今は授業の時間は終わった後、いわば、放課後のようなものだった。

 お互いに、休憩しながら好きな曲を弾く時間。柚姫は、この時間が好きだった。


 技術の上手下手に関わらず、アレンジを加えたりしても弾いていいから。

 それに、先生ものびのびと色々な曲を弾いてくれるから。


 次は何の曲を弾こうかと柚姫が考えていると、静かに演奏が終わった。


 拍手をしようかと一瞬考えて、止めた。

 演奏会でもなく、好きに弾いているだけなんだから。


「素敵な演奏でした、先生」


 テーブルへ近寄ってくる先生へと柚姫は声を掛けた。


「ありがとうございます。退屈ではありませんでしたか?」


「退屈だなんて、とんでもないです。とっても落ち着きましたよ」


 艶やかな金色の髪を揺らしながら、先生は柚姫の隣に腰掛けた。

 先生に会うたびに、とても綺麗だと柚姫は思う。


 前に聞いたのだけれど、お母さんがイタリアの人なんだそう。

 染色したものと違い、とても自然で美しい金髪。瞳は澄んだ青い色。

 よく晴れ渡った日の海のようだと柚姫は思った。


「柚姫さんは、次に何を弾くのですか?」


 紅茶を飲みながら、柚姫は答えた。


「雨だれの前奏曲を弾こうかと思っています」


 その曲は、柚姫が幼い頃から好きな曲だった。


 出だしはリズミカルで美しいのに、中ほどにもなると重く暗いパートがある。

 そのギャップが、柚姫は好きだった。


 この曲は比較的簡単な部類に入る。

 しっかりとピアノを勉強している人ならば、とりあえずは弾けるような。


 これもノクターンと同じくショパンの曲だった。


 先生が紅茶のカップを置いて、柚姫に尋ねた。


「柚姫さんは、どうしてピアノを勉強しているんですか? 

 プロになる気はないのでしょう?」


「もちろんです。先生ならともかく、わたしがプロになんてなれるはずないですよ」


「そうですか? 努力すればできるかもしれませんよ?」


 微かに微笑しながら、柚姫は答えた。それを聞いて、先生もまた微笑んだ。


 普通、講師と生徒の間には、流れない雰囲気。

 お互いに笑いながら話をできるくらいには、二人の仲は良かった。


「わたしは、努力してまでピアノをやりたくはありません」


 柚姫にとって、ピアノとは楽しいもの、自分を豊かにしてくれるもの。

 必死になって、血眼になってまでやりたくはないものだった。

 今だって、講師がそういうタイプだったなら――

 ピアノをやめていたかもしれなかった。

 そうじゃなかったら、下手なままでも独学で弾いていた。

 そこでふと柚姫は思った。

 先生は、どうしてピアノを教えているのだろう? プロにもなれたはずなのに。


「どうして先生は講師をしているんですか?」


 そう柚姫が尋ねると、先生はきょとんとした顔をした。


「どうしてって、ピアノが好きだからです。色々な人に、楽しんでもらいたいのです」


「プロに……っていうお話もあったんですよね? 辞退されたと聞きましたけど」


 柚姫からすれば、プロもすごいものだと思う。 


 大勢の観客から喝采を受けているから。地位や、名誉もあるのかもしれない。

 柚姫がそう伝えると、だからですよ、と先生は答えた。


「楽しみよりも、評価や理論、そういうものの方が勝っているのです。


 純粋に弾いても、後から面倒なものがたくさんついてくるんですよ」


 だから、疲れてしまうんです、と先生は付け足した。

 その表情は、いつのまにか少し翳りが見えていた。

 柚姫は、それ以上はなにも聞かないでおこうと思った。


 そのまま、会話が止まってしまった。


 何か場の雰囲気を崩そうとして、柚姫はこういった。


「はぁ……それにしてもわたし、せっかく先生に教えてもらってるのに、全然上手くならないですよね……あ、先生の腕が悪いという意味じゃないんですけど……」


 いつものように、笑って返してくれると思っていたのに、先生の反応がなかった。 


 どうしようと柚姫が考えていると、先生が話し出した。


「柚姫さん、私はあなたを尊敬しているんですよ?」


 いきなり真顔で先生がそんなことを言うので、柚姫は吹き出してしまった。


「おや、信じていませんね? 笑う所ではないんですよ……」


「だって、尊敬だなんて。わたしが、ならともかく、どうしてですか?」


「柚姫さんは、とても楽しんでいるでしょう? それに、努力もしています」


「そんなに必死にやっているように見えますか……?」


 もしもそうだとしたら、少し見苦しいなと思った。

 そういうふうにはやりたくないのに。


「だからですよ」


 今度は、柚姫がきょとんとした顔になった。


「しっかりやってるけれど、ちゃんと息抜きもしているでしょう?


 私は、そこまで器用じゃないから、羨ましいんですよ」


 そういった後に先生は続けた。


「あなただったら、どうなっていたでしょう――」


 何かとても大事なことの気がしたけれど、柚姫にはその意味がわからなかった。


「え、ええと……とりあえず、ありがとうございます」


 わかったのは、どの程度かはしれないが、先生から尊敬をされているらしいということ。


 恥ずかしいやら嬉しいやらで、柚姫は俯いた。

 すると先生はこんなことを言い出した。


「あまり信用されていないようですね……では、こうしましょう」


 柚姫の手を先生が取った。柚姫は何をされるのかわからず、ただ見ているだけ。

 そのまま柚姫の手に、先生はそっとくちづけを落とした。

 そして、柚姫を見て微笑んだ。 


 驚きのあまり、柚姫は固まったままだった。


「――っ、えっと……あの先生? 今のはいったい何……」


「おや、知りませんでしたか。なら、後で調べてみてはどうですか?」


「何を?」


「今私がしたことですよ。手の甲にしたということを、忘れないでくださいね?」


 そういって先生は、悪戯っぽく微笑んだ。


 その微笑みは、とても綺麗で、柚姫は顔に熱が集まるのを感じた。


「そろそろ、曲……弾きますねっ」


 逃げるようにして、柚姫はピアノの前へと向かった。


 どきどきする感情を抑えて、ひとつ大きく深呼吸をした。


 鍵盤の上の指は、曲の最初の位置に、自然に置かれていた。

 自分の中でリズムを取ってから、柚姫は演奏を始めた。


 ピアノの音色に、言葉にできない思いを乗せる。

 恋愛とかそういうドロドロしたものじゃなくて、もっと純粋な尊敬を。


 綺麗な音に乗って、先生へと届くように願った。


 言葉にしてしまうと、嘘みたいになってしまいそうだったから。

 ただひたすらに降り続ける雨音に重なるようにして、澄んだ音色が響く。


 静かで穏やかな時間が、また流れ出した――



 美しい細い手に 澄んだ蒼い瞳に

 この想いが伝わりますように 


 尊敬を 雨だれの音に乗せて


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