忌み仏 6

 二人は、老人の後を追って居間に入った。

 八畳ほどの和室には長方形のテーブルと座布団が三枚置かれているだけで、他に家具は何もない。

 老人はすでに席に付いており、彼の前には二人に見せるつもりで持ってきたのか三冊ほどの資料が置かれていた。


 二人は並んで座る、義時に先んじて廻は深々と頭を下げた。


「急なお願いにも関わらず、時間を作って頂きありがとうございます。私たちは……」


「自己紹介はいい、話はそっちの男に聞いている」


 老人は、やはり不機嫌そうに呟いた。

 神原老人の日記によれば、仏像を手に入れるまではいつも笑顔で気さくな人間だったらしいが、今はその片鱗すら見えない。

 神原老人が、仏像の話を本物だと思ってしまうのも無理からぬ話というものだ。


「あいつが……正二しょうじが死んだんだろう?」


 この時になって、初めて二人は神原老人の名前を知った。

 神原老人、改め神原正二かんばらしょうじと目の前にいる老人、清水正敏しみずまさとしは、かなり古い付き合いもしくは良好な関係にあった事は、彼の正二という名前の言い慣れた感じから伺えた。


「亡くなりましたよ、あなたが売った仏像のせいでね」


 義時のその言葉には、小さな棘が見える。

 小さな小さな棘、だが一度刺さってしまえばもう抜けない返しが付いた鋭い棘が彼の言葉には見えた。


 そしてそれは正敏の心に、的確に刺さったらしい。

 彼の白い顔はみるみる内にその白さを増し、肩はガタガタと震え出した。

 それを見た廻は、義時が電話口で彼に対してどういう攻め方をしたのか何となく分かった。


「清水さん教えてください、あの仏像は一体なんなんですか?」


 廻の問いに、正敏はすぐには答えなかった。


「あれは……私の祖父の代から家にあった物だ」 


 怯え、憔悴した彼はどうにか言葉を絞り出した。

 そして自身の前に置かれた資料の一つを開き、二人の前に差し出す。

 色褪せ、茶色になったページにはずらずらと商品名と買値が書かれている。


「ここだ」


 正敏が指差した欄には『千九百四十六年 忌み仏』と記されていた。


「忌み……仏?」


 その言葉を見た時、廻は義時が道中話していた事を思い出した。


『忌み物になってもおかしくない』


 その言葉は間違ってはいなかった。

 なんてことはない、あの仏像はずっと前から忌むべき存在だったのだ。

 

 記された言葉は、得体の知れない嫌な響きを持っていた。

 文字にすればたったの三文字、だがその三文字はどろどろとした気色悪い何かを触ってしまったような不快感を廻に与えた。

 

 落ちくぼんだ気持ちのまま、彼はちらりと義時を見る。

 義時は彼が泥のように感じた言葉を、まるで砂金を見つけたような顔で見ていた。


「誰からいくらで買ったのかは分からない、もしかしたら譲られたのかもしれない」


「こんなに前から……」


「誰から買ったのかどうか、それは一旦置いておきましょう。聞きたい事は他にある」


「何が聞きたいんだ?」


「まず一つ目、あなたのおじい様や御両親はどのような亡くなり方をしましたか?」


 義時の質問に、正敏は顔を歪めた。

 だがそれも無理の無い事だ、なぜなら持ち主を不幸にするという曰くの付いた仏像を持っていた家系だ。

 理から外れた死に方をしたのは、想像に難しくない。


「婆さんは私が生まれた時にはもう死んでたし、お袋は学生の時に出て行った。親父は……まともな死に方じゃなかった。女を見たと言ったら、次は影を見たと言い出した。やがて眠るのが怖いと言って、眠れなくなっていった。憔悴した親父は一日中ブツブツブツブツ独り言を呟いていたよ、部屋の隅で背中を丸めてな」


「独り言とは?」


「確か……女とか炎とか影とかだったか。わしもその時は親父が怖くてな、まともに話を聞いていられなかったんだよ」


「それでお父上の最期は?」


「……自殺した、山の中で首を吊ってな」


 正敏によれば、何日も眠れない日が続いた彼の父親の言動はまともなものではなくなったという。何も無い部屋の隅を見てひどく怯えたり、言葉のやりとりも段々とできなくなっていった。

 変わっていく父親に対する恐怖が積み重なっていくある日、父親の姿はすうっと霧のように消えた。


 本当に突然の事だった、正敏が三軒先の家に十分ほど用事で出かけた合間に父親は姿を消してしまったのだ。当然だが正敏は父親を捜した、周りの人間や警察にも事情を説明し手分けして探した。


 そして二日後、彼の父親は見つかった。

 名前も思い出も無いような山に生えた、朽ちた木に縄をかけた姿で。


「親父が死んで二年になる、今でも思い出すよ。首を吊ってゆらゆら揺れてる親父の姿を……」


「なるほど、他に不審な点は?」


「不審な点、だと? まともな所の方が無い、親父は腰を悪くしていて少し散歩をするにしても杖が無くちゃ難しかったんだ。なのに首を吊った山までは歩いて向かったらしい、杖無しに加えて靴も履かずにな」


「でも近所の山ならあるいは……」


「山までは二十キロある、しかも誰にも見つからずにだぞ?」


 正敏の家がある地域は、都会とまではいかないが人がいないというわけでもない。

 散歩する人間や、車通りもそれなりにある。加えて二十キロの道のりを、靴も履かずに老人がフラフラと歩いていれば、いかに人間関係が希薄になった現代とは言え、誰か一人くらいは警察といったしかるべき場所に連絡するはずだ。


 だが父親はそういった可能性すらすり抜けて、命を絶ったのだ。

 もちろん道行く人間全てが、事なかれ主義の冷血漢だったという可能性も捨てきれないが、背格好等の最低限の情報は地域の無線で開示されていたのだからその可能性は極々僅かだろう。


「ではおじい様は? おじい様も何か奇怪な亡くなり方を?」


「いや、爺さんはそんな事は無かったな。呪いだとかそういう不確かな事を信じない人だったというのも関係してるかもしれないが、大きな病気も無く、大往生だったよ。代わりに親父はひどく怯えてた、息子のわしから見ても臆病で繊細な人だったからな」


 彼の祖父は、細かい事をあまり気にしないタイプの人間だったらしく、忌み仏の呪いについても『箔が付いていいじゃねえか』と笑っていたらしい。

 

 そんな彼の後を継いで古物商となった父親と正敏が、店の倉庫を整理していた時に例の仏像を発見したらしい。祖父は彼や彼の父親に、忌み仏の話をしてはいたが実物を見せた事は一度も無かった。


 だが正敏と彼の父親は、薄暗い、窓から差し込む光に埃が反射する部屋で見つけた木製の箱を見た時に本能的に察した。

 

 この箱の中にはある、と。


 祖父は仏像の話をする時、いつも明るく話をしていた。

 だがそれは豪快で、繊細な気遣いが苦手な祖父なりの気遣い故だったのだと二人は事の時になってようやく理解した。

 人間として文明の中で暮らしていく中で、少しずつ失われていった動物的で本能的な感覚。それを激しく刺激する、粘つくような恐ろしさを箱は放っていた。


 二人はその箱をそっと倉庫の奥に追いやると、何も言わずに外へ出た。

 これ以降、彼らは仏像についての話題を避けて暮らしていた。正敏はその後、別の県へと移り住み彼もまた古物商となり、父親と時々連絡を取りながら細々とだが平穏な生活を送っていた。


「どうして親父があの仏像を表に出したのか、わしには分からん。あれだけあの仏像に怯えていたというのに……」


「まあ、それは今となってはどうでも良い事です。ちなみにあなたも女や影を見たんですか?」


「ああ……最初は泣く女が部屋の隅に出た。そして次に黒い影が出たんだ」


 そう言うと、正敏は体をにわかに震わせる。

 廻には、彼の気持ちが痛いほど分かる。あんな恐ろしいものを夜に部屋で、しかも一人で見たとなれば体が震えるのも仕方ない事だ。

 

「清水さん、どうしてあなたはあんな恐ろしい物を神原さんに売ったんですか? そんな過去があったのなら尚更……」


「し、しかたなかったんだ!」


 廻の言葉を遮るように、正敏は声を上げた。

 

「あんな恐ろしい物を手元には置いておきたくなかったんだ! どれだけ値段を下げてもちっとも売れやしない! その内に黒い影は少しずつわしに近づいてくる! あの恐怖がお前らにわかるはずがない!」


 ぜえぜえと息を切らし、正敏は思いのたけをぶちまけた。

 廻は驚きこそあったが、確かにあんな恐ろしいものを見てしまってはそれも仕方ない事だろうなと考えていた。

 義時は特にこれといって感情を動かした様子もなく、ただただ軽蔑とも侮蔑ともいえない冷めきった目で彼を見ていた。


「それで最後にすがったのが神原正二さんというわけですか、なるほどなるほど……心優しいご友人を生贄に呪いから逃れようとしたわけですね」


「おい……!」


 廻ももちろんそういう考えを抱かなかったわけではない、だがそれを口にしてしまってはあまりに正敏に酷すぎる。

 それを遠慮の欠片も無く口にした義時を、彼は正敏に対する同情を含んだ怒りで止めようとした。

 だが正敏は、廻に向かって手を向けそれを止めた。


「……そうだ、あいつは本当に良い奴だった。ただで譲ると言った仏像もそれは悪いと言って幾ばくかの金を置いて行ったくらいだ。わしは、あいつの優しさに付け込んだんだ」


「清水さんは、それから何かを見る事がありましたか?」


「ふふふ……今でも黒い影を部屋で見る。友人を裏切った報いだろうな、あの影は手放したくらいでは逃がしてはくれないらしい」


 そう言って力無く笑う正敏の目には、希望の欠片も見えない。

 その代わり彼の目には悟り切った諦念の色が浮かぶ、すでに正敏は自身にいずれ訪れる終わりを受け入れているように感じられる。


「もう終わりか? 他に何か聞きたい事は?」


「いえ、もう十分です。こちらの資料をお借りしても?」


「持っていけ、わしには役立てる事ができなそうだからな」


 義時は資料をまとめ、席を立つ。

 廻もそれに合わせて、痺れた足を庇うように立ち上がった。


「ではこれで失礼します」


 義時は軽く頭を下げると、さっさと車へ戻ってしまった。

 廻は座ったまま、落ち込んだ様子を見せる正敏が気になって仕方ない。


「今日のお礼については、また後日連絡します」


「いらん、貰っても使う前にわしがくたばるだろうからな」


「あの……気を落とさないで下さい。経緯はどうあれ、神原さんが亡くなったのはあなたのせいじゃありません」


「……ありがとうよ」


 その時になって、ようやく正敏は笑った。

 力のない、どうにかどうにか作ったような笑顔だったがそれは今の彼にできる最大限の笑顔だった。

 その力無い老人の笑い顔は、廻の目に強く強く焼き付いたのだった。

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