7. 2077年1月19日

『2077年、1月19日』


 聞いたことはないが、山羽美千代のものと直感出来る鋭い声が拡声器から響いた。やはり携帯型の蓄音機では音が小さい。知里と共に耳を寄せた直後に咳き込む声がし、喘ぐような音に続けて言葉が流れる。


『やっと燃料が完成した。昭典さんの手記どおりにやっただけだけど、予備試験では順調に反応が起きている。あとはこれを蒸気機関と接合すればいいだけ。機関は山羽重工五号汎用蒸気機関のボイラーを使用し、出力測定は島津計測器の物を使用』


『言っておくが』中年らしい男の声が割って入った。『出力は五割までだぞ。それ以上はオリハルコン合金でないと危険だ』


『わかってる。それでは試験を開始する。石川さん、まずは反応速度を一割に』


 どこからか、何かが高速で回転するような、ゼンマイ二輪の駆動音に似た音が響いてくる。それは次第に高速になっていき、格納容器から蒸気が漏れる噴出音がする。


『内圧は二気圧、三気圧』


 カリカリと何かが書かれる音がする。


 利史郎は目を閉じ、あの横浜の地下室を思い浮かべていた。確かに測定器らしい物が置かれ、スリットからはロール紙が吐き出されていた。確か小刻みな波が次第に大きくなっていたはずだ。


『――九気圧、十気圧。十気圧前後で安定?』


『いかん、想定より出力が高い。これではボイラーが溶解するぞ』


『待って――うん、安定。出力一割で十気圧、四百――二十馬力』


『信じられん――五号の限界に近い。こんな小さな機関で、そんな熱量が――』


『出力開始から、六十秒。六十五、七十――九十秒――百秒』美千代の声でカウントが続いていた。『異常なし。以降は引き続き数時間単位での長期稼働試験を』


『まずは安定停止させられるか試した方がいい。想定より出力が高すぎる』


『どうしたんです! 成功してるんですよ?』


 初めて感情が見える声を美千代は発した。明らかな歓喜だ。それに対して石川と呼ばれた男は、畏怖の感情を露わにする。


『だからだよ! 我々は伊集院の手記通り燃料を作り、一郎君の残した設計書通りに機関を作っただけだ!』


『それの何が問題――』


『問題に決まってるじゃないか! 我々が成功したということは、彼らだって成功していたはずなんだ! だというのに彼は何故黙っていた? これほど素晴らしい――恐ろしい――成果を黒薔薇会にすら明かさず、どうして一郎君は死んだ? それに――伊集院はどこに行ったんだ!』


『私はずっと、それを言い続けてた。だというのにみんなは無視して――』


『別に無視はしていない。しかし――』


『父さんが健康だったのは知ってるでしょう! あんなに急に死ぬだなんてこと――まぁいいわ。これで証明されたでしょう? 父さんにはやっぱり、何かがあったのよ! それで伊集院さんにも何かあって――』


『何かって、何だね』


『それは――二郎叔父さんとの事は知ってるでしょう? じゃなきゃ何か国際的な陰謀に巻き込まれたとか――ミヤコンさんが亡くなったのも偶然? そんなはずが――』


 その時、何かが破裂するような音が響いた。地下室にいる自分を想像していた利史郎は、思わず振り向く。そこにはあの黒いフードを被った女の死体が転がっていた。だが今は彼女は立ち上がり、あの黒々とした瞳でこちらを見つめている。


『――田中さん?』やや間を開けて、美千代が言った。明らかな困惑だ。『こんな所で何を――どうやって中に――』


 シッ、と田中久江は息を発した。人差し指を薄い唇に当てているのがありありと目に浮かぶ。やがて彼女が発したのは、どことなく抑揚の薄い、幼い声だった。


『あなたたちには、二つの選択肢しかない。私と一緒に来るか、ここで死ぬか』


 唐突な言葉に、利史郎は戸惑った。あの地下にいた二人は尚更だろう。笑いというのは非常識な行動に対する社会的罰則だ。その法則に則って美千代は笑い、言葉を探る。


『ちょっと、一体、何? 二郎叔父様から何か――ここの資金は会社とは関係が――』


『私も会社なんて関係ない。さぁ、どうするか早く選んで』


『君、見たことがあるぞ!』石川が叫んだ。『ミヤコンの所にいた女中だ! 君はどうしてこんな所にいる? まさか――君はロシアの密偵なのか? 私たちをロシアに拉致しようと?』


 深い深い、ため息がした。それと同時に苦悶の声が響く。石川だ。彼の喘ぎに美千代は混乱し、何とか介抱しようとする言葉が続く。しかしすぐに男の声は途絶え、後には美千代の荒い息づかいだけが残った。


『何? 一体――わかった、あなたね?』涙声が、確信に満ちた言葉に変わった。『あなたが父さんも、こうして殺した! それにミヤコンさんも? 一体どうして? あなたは――』


『私に理由なんてない。〈そうしなければならないだけなの〉。さぁ、一緒に来て。でなければ――』


 唐突に響いた二発の銃声に、利史郎は身を跳ねさせた。次いで続いたのは、あらゆる物を破壊する音、そして美千代が激しく咳き込む音、そして――蝋管の針は飛んだ。


 一体これは、何だ?


 そうとしか考えられなかった。あの夜、横浜の地下で何があったのかは幾つかのパターンを想像していたが、ここには予想外の内容が複数含まれている。


 知里は蓄音機を止め、蝋管を改める。最後の部分は針が飛んだのだろう、深い傷が刻まれていた。


「興味深い」


 ようやく言った利史郎に、知里は眉間に皺を寄せ呻く。


「山羽美千代は、父親の死の原因を探ろうとしていた。密輸なんて関係ない」


「そもそもロシアすら無関係に思える」


「どうして。この内容からすると、田中久江が有能な科学者をロシアに拉致しようとした風に思えるけど」


「いや、いや」利史郎は静寂を求め、人差し指を立てた。そして少しの時間を稼ぎ、絡まりあった要素の整理を試みる。「ロシアが拉致を企んだのだとすれば、田中久江に対するロシア外交官の反応は不自然すぎます」


「そんなの、芝居よ」


「いえ、不十分です。一番の問題は――このような事態に遭遇した美千代さんが、どうして蝦夷に向かおうと考えたのか。それが説明できない限り、全ての推理は無意味です」


 それは知里も同意したようだった。口を噤み低く唸ったが、不意に指を鳴らし注意を惹いた。


「そうだ。五号とか出力とか、あれは何なの?」


「横浜の地下に、大型の黒い金属の塊があったのを覚えていますか。あれが山羽製汎用五号蒸気機関。蒸気バスに使われるような小型の蒸気機関です。しかし――通常なら石炭を焚く釜の部分が存在しなかった」


「――わかりやすく言ってくれる?」


「つまり蒸気機関というのは、石炭を燃やして水を蒸気に変え、その膨張圧力を利用し車輪を回転させたりします。しかし横浜にあった蒸気機関には石炭を燃やす部分がなく、代わりに何かが設置されていた形跡がありました。持ち歩ける程度の装置です」


「そうえいば、そんなこと言ってたわね。それで?」


「つまり彼らが実験していたのは、恐ろしく先進的な〈機関〉だと思います。それがどれほどの物かは、ちょっと僕では想像出来ませんが――相当に優れた物だったのではと」


「普通なら、大々的に発表するほどの物――だというのに山羽一郎はそれをせず死に、設計書か何かを残した。それを美千代は最近になって発見した?」


「そんな所だろうと思います。それで山羽一郎は何らかの陰謀に巻き込まれ殺されたのではと、美千代さんは疑った」


 知里は背もたれに寄りかかり、腕組みして宙を見上げた。


「あるいは〈黒女〉の目的は、その筋での捜査が進むのを妨害するためだったのかも――それこそ美千代も言っていたように、山羽一郎やミヤコンを殺したのも彼女だとしたら」


「その筋も十分あり得ますね。いずれにせよ――」


「蝦夷に行く必要がある」


 言い放った知里に、利史郎は慎重に言葉を選んだ。


「それも方策の一つではありますが、もう少し調べを進めるという手も――」


「例えば?」


「例えば石川や岩山の身辺調査は全く出来ていませんし、ロシア関係も――それに新しい名前がある。伊集院昭典。彼が黒薔薇会の最後の一人らしいですが、一体何者なのか――」


「そんな細かい事は、牧野さんに丸投げしとけばいいのよ。山羽美千代はまだ生きてて、〈黒女〉、じゃなきゃロシアにでも狙われてる可能性が高い。それをどうにかしなきゃ」知里は立ち上がり、ジャケットを羽織った。「蝦夷行きは手続きが必要だから、飛行場で落ち合いましょ。向こうの警察にも捜索依頼をかけておく」


 それじゃあ夜に羽田で、と言い残し、知里は浅草駅へ向かった。

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