第10話 国家憲兵はフワフワしているものが好き
落ち着いてきたのだろう、時計の秒針の音もサリサの耳に入るようになった。肩の力も抜けサリサは軽く体を動かした。
「箇条書きは完成しただろうか」
「え、箇条書き?」
きょとんとしている緊張感のないサリサを見て、アーサーは表情を緩めた。
「私の家でしばらく住むにあたり、継続困難と思われる内容を箇条書きにしてほしいと今朝、貴女に伝えたことだ」
「あ。忘れていました」
「なら今、思いつく部分を挙げてくれ」
サリサは眉根を寄せた。一番に頭に上がったのは、優しい両親の顔だった。
「まず、両親にどう説明をすればいいのか」
「すでに報告は済んでいる」
「……はああ!?」
サリサは目をひん剥いた。
「私の両親の住んでいる場所をご存じなんですか?」
ツッコミどころはここで合っていただろうかと思いつつ、サリサは動揺しながら質問した。
「昔にお会いしたことがある。リーリス地方の別荘で。そこからの縁で、時節にはカードをお送りすることもある」
「……え」
彼が両親と知り合いだったことより、サリサにとってさらに重要なことをアーサーは言った。
「アーサー様はあそこに行ったことがあるんですか? いつ?」
サリサは前のめり気味に顔を寄せる。アーサーはサリサの焦げ茶の目を見つめていたが、ふいと視線を外した。
「十年くらい前かその辺だな」
サリサの心臓がトクリと鳴った。サリサがあそこにいて、小さな自分が誰か分からない相手とキスをしたのは十四年前になる。
十年前なら少し遅いのだが、まだ範囲内に近い。
自分の、あの過去の、はじめての口づけの相手が誰なのか、彼には何か分かるかもしれない。
「アーサー様、そこで、えっと……誰かに会いませんでした?」
アーサーはまたサリサの顔を見た。無言のまま、じっと。
「誰か、という質問はあまりにも範囲が広すぎやしないか」
「私の両親以外で」
「それでもまだ目星をつけられるほど絞れない」
サリサはうーんと呻った。
「人間だと思うんです」
「大勢会った」
そりゃそうだ。
「他は?」
「……もう覚えてないんです」
アーサーは失笑した。彼はサリサが考えていた以上に表情豊かだった。アーサーが笑うと、サリサはなんとなく得をした気分になる。
「そちらもだが、箇条書きの方だ。他に、私の家でしばらく過ごすに苦労しそうなことがあれば挙げなさい」
「えっとですね」
サリサは首をひねる。そうするとアーサーの肩に頭がかすった。
「あなたの髪はフワフワだな」
そんなものかなとサリサは聞き流し、彼の家で過ごすことに面倒になりそうなことはないかと考える。
「官舎にある本を持ってきたいんです」
「調査が終えたものから手配する。優先してほしい本の題名を書いて渡してくれ」
「昼ご飯から夕ご飯までのあいだに間食は許されますか」
「それについては私の許可を取る必要はない。お茶も欲しければリノンに言いなさい」
「シェルトは、撫でても大丈夫ですか」
アーサーは、サリサがとても重要で素晴らしいことを言ったかのように、幸福そうに顔を綻ばせた。
「慣れてからの方がいい。シェルトは、彼に限らずだがあの犬種は家族以外に警戒心が強い」
「そうなんですね」
サリサは、自分が適当な相づちを打っているのを自覚しながらも、アーサーの笑った顔に魅入ってしまっている。
「明日、一緒に散歩に行かないか?」
誘われて、嬉しくて顔が緩んでしまった。誰もいないが、図書室という場所柄、二人は顔を合わせて小声で話している。そのせいでアーサーの囁きによる誘いが、とても親密に思えて緊張してきた。
「アーサー様と、シェルトが嫌でなければ、是非行きたいです」
「なら明日朝に。明日は規定では休日だが、サリサ殿はここには来ないのだな」
「はい」
「了解した。もう大丈夫そうだ」
「はい?」
アーサーは立ち、サリサに手を差し過不足のない所作でサリサも立たせた。
手を取って、貴婦人をエスコートするように、彼は腕を曲げ上腕の部分にサリサの手を置いた。
「帰ろう。そろそろこの部屋も施錠されるはずだ」
「あ、本当だ」
アーサーはサリサの手を引いて数歩足を進めたが、立ち止まってサリサに顔を向けた。
「先ほど、貴女が言っていた出口から、私も出ることはできるだろうか」
「あ、大丈夫ですよ。行ってみます?」
「ああ」
行きがかり上サリサがアーサーの手を引くこととなった。なんだか不思議な感じがするなあと思っていたところでつまずいた。即、アーサーに手を引かれる状態に戻った。
外に出てもアーサーはサリサの手を離さなかった。人が通ったら恥ずかしいかも、など思ってしまう。
「ここの出口は、研究棟からは遠回りになるのでは」
「あ、はい。そうです。でも官舎からは近いですね」
「貴女は今日、官舎に戻ったのか?」
「いいえ。まだ捜査中でしょう? 入れないし、それにまだあそこに戻りたくない……」
途中から言い淀んだサリサの手に、アーサーは空いている手を重ねた。
「どうした」
「いや、なんだか、アーサー様のお屋敷にまだいさせて下さいって催促したみたいになってしまって、あの」
「どちらにしろ貴女を一人にはできない。私が引き留めているのだと思っていなさい」
アーサーはそのままサリサの手を引いて歩いた。
◇◇◇
アーサーはミランの家に来ていた。昨晩回収できなかった馬を引き取りに来たのだ。ミランと会うつもりはなかったのだが、アーサーの訪問を聞いたのか彼女は厩までやってきた。
「こんばんは。アーサー」
「邪魔をしている。昨晩は迎えに来られず迷惑をかけた」
「いいのよ。場所はあるし、うちの馬の世話の流れで、一頭なら増えても大丈夫らしいよ〜。それよりサリサが大変だったのね。そのことで話がある」
アーサーはミランに正面から向かいあった。
「何かあったのだろうか」
「サリサの服。用意するなら彼女の意見も聞いてあげて」
アーサーにとって予想していなかったことに言及され面食らった。
「サリサの今日の格好、あれはあれで無難だし悪くないんだけどさ〜」
「善処する」
とは言ったものの、本人に聞くべきことなのだろうかとアーサーは迷った。
「大丈夫よ。リノンさんに言っておいたから」
「ありがたい。ミラン」
「なあに?」
「貴女とサリサ殿はどうやって知り合ったのだ」
「どうって、同期だもん。研究院に入った最初は挨拶するし、受けるカリキュラムも一緒だから同じ行動になるよ」
「講座の配属を決めるまで、各講座の教授の授業を受けるのだな」
「そうだね〜」
「では、講座に配属されている他の弟子たちのことまでは耳に入ることはないか?」
「人に因るかな〜。授業の手伝いを任されている人もいるし」
「貴女もか?」
ミランは首を左右に振った。
「来年か再来年くらいなら任されるかもしれないけど。うちでは先輩がしてる」
「ハロルズ教授の弟子は、シシロア氏とサリサ殿しかおられないが、ではサリサ殿も授業の手伝いをされているかもしれないのか」
「いや、多分サリサのとこはシシロアさんだけじゃないかな。サリサにはさせないと思う」
アーサーは、考えている様子の従姉妹の次の言葉を待った。
「それがあの人の存在意義っぽいから」
「存在意義?」
ミランは肩をすくめた。
「ハロルズ教授の何度目かの授業のとき、シシロアさんが代わりで教えてくれたことがあったけど、なんか、気難しい教授に乞われ世話をするのは自分だけ、みたいな空気をビシビシ放ってたんで」
アーサーは少しだけ間を置いた。
「それは、弟子の持つ矜持としてはあり得る感情だろうな」
ミランは苦笑とも挑発ともどちらとも取れそうな笑みを浮かべた。
「まあね。でもシシロアさんはそれがちょっと顕著だったよ」
「なるほど」
アーサーは馬の手綱を取った。
「挨拶に足を運んでくれたのに、引き留めて悪かった」
「いいよう。私がサリサのこと気になったんだし。それにお礼ならお酒の肴をくれたらいいから。一緒に飲みにはいかないよ」
アーサーはじっとミランを見た。
「そんなに私との食事はいやか」
「一緒にご飯なら別にイヤじゃない。少なくとも年に一回は集まってそうしてるじゃん。一緒に飲みたくないだけ」
「サリサ殿ならいいのか」
ミランはえっと、意外そうな顔をした。
「当たり前じゃない。サリサは友達だもん。サリサは明るくてさ、一緒にいて楽しい」
「そうだな。そういう気質の方だな」
「それにさあ〜アーサーの顔を見てたら飲んでても酔いが覚めるんだもん」
「私を見ていたら酔いが覚めるなら、飲めば記憶が飛ぶ貴女には丁度いいではないか。伯父たちもルシウス殿も喜ばれよう」
「私はお酒に酔いたいから飲んでるのよう!」
ごもっともである。アーサーがふっと笑うと、ミランも気が済んだのか笑って手を振った。
アーサーは帰路につきながら、先ほどの従姉妹の言葉を反芻していた。
さもあろう。あの従姉妹が好んで一緒にいようという人物なのだから。
アーサーは口元を緩めた。馬には乗らず手綱を引いて歩いて行く。顔を寄せてくる馬の首を撫でながら、アーサーは自分の心も落ち着かせようとした。
いろいろなことが同時に起きている。冷静に対処しなければならない。
「埋めたい」
アーサーは呟いた。
◇◇◇
大間抜けなことに、サリサはアーサー宅にてベッドに潜り込んだとき、なし崩しにここで暮らすことになってしまっていることにようやく気付いた。
しかもすでに、数冊の本が官舎からここに届いていた。あとクロゼットに服が増えていた。昨日分よりサリサの好みに寄せてある。本当にミランが言ってくれたのか。それにしても仕事が早い。
しかしサリサはアーサーの部屋を訪ねた。ノックで彼はすぐに戸を開けてくれた。彼はサリサが寝間着の上にガウンを着ている姿を見て顔をしかめた。
「感心できない格好だ」
そうは言うが、彼も似たような格好だとサリサは思う。
「私の服も、確認が終えたものから持ってきて下さい。そこまで甘えられません!」
「できかねる」
「どうして」
「誰が触れたか分からないようなものを貴女が身につけることを、私が許さない」
サリサは眉を動かした。そう言われれば、知らない誰かが触った可能性もあるのだ。指摘され、確かにサリサも嫌だと思った。
「納得したか」
「私自身が嫌なのはご指摘の通りです。でも、どうしてアーサー様が許さないんです?」
「そういう性分だ」
そういうことなら仕方がない……のか?
サリサは腑に落ちず考え込んだ。アーサーが部屋から出てきて、彼女の肩に手を置いてからサリサをくるりと回転させた。
「貴女の部屋まで送る」
「はい?」
屋敷内だしすぐそこですよというサリサの反論はスルっと無視された。彼はサリサの肩に置いていた手を動かし、サリサの額にかかっていた髪を人差し指で横に流してくれた。
顔には触れなかった。その仕草に目は奪われて、もう一度見てみたいとぼんやり思う。
「フワフワだな」
なんだろう。この人はフワフワしているものが好きらしい。確かにボーダー・コリーは美しい毛並みをしてフワフワだ。なんとなくだが、彼が毎日ブラッシングをしていそうだ。本当になんとなくだが。
「ぬいぐるみをお贈りしましょうか?」
「なに?」
サリサの提案にアーサーは怪訝な顔をした。
「ここでお世話になっているお礼に。フワフワのぬいぐるみをお贈りしますよ」
「いや、必要ない。私は血の通ったあたたかい生き物がいい」
「ぬいぐるみも抱っこしていたらあたたかくなりますよ」
「……自分の絵面を想像するとおぞましいことこの上ないな」
サリサは想像してみた。とたんに壁に激突しそうになりアーサーに腕を抱えられた。
「考え事をしながら歩くのは、なるべく控えた方がいいのでは」
「いやでも、アーサー様が先に想像したらとか言うから」
「それは想像しないでくれ。頼むから」
喋っているうちにサリサに宛がわれた部屋に到着した。サリサは少し名残惜しいと思いつつ部屋に入り、戸をまたいで彼に顔を合わせた。
「じゃあベッドに入ってから想像します」
アーサーは目を閉じ、髪を額から後ろに流すような仕草をした。
別に髪は乱れていないのに。
「想像はほどほどにしてくれ」
「分かりました。おやすみなさい」
サリサの挨拶を聞き、アーサーははっとして再度サリサを見つめ、やがて薄く微笑んだ。
「ああ。おやすみ」
彼はサリサに下がるように手振りし、戸を閉めてくれた。
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