第2話 居酒屋で恋バナ

「ミランは結婚を考えたことがある?」

「ないねえ〜」

 潔いほどの即答だった。

 サリサは同日夕刻、仕事を終えたあとで同僚兼友人であるミランと共に、大衆居酒屋で卓を囲んでいた。夕闇のなか、街路樹の緑が灯されたランプの光を反射し美しく揺れている。気候のいい今、飲むのなら屋外の軒下の方が、気分が盛り上がる。開け放したガラス扉の向こうでも、多くの人が外飲みを楽しんでいる。入った居酒屋「三匹の山羊停」は大通りに面していて、人の喧噪はもちろん、時々馬車の行き交う音も聞こえるが、それもまた気分を高揚させる生活音だ。

 サリサとミランは、居酒屋の屋内の隅の方に席を取っていた。本当は夕闇の空の移り変わりを楽しみながら晩酌といきたかったのだが、店の人が難色を示した。サリサの外見のせいだ。

 ミランは年相応の外見をしているが、サリサは背も低く童顔である。飲酒が可能な年齢になっているにも関わらず、それを証明するのに身分証代わりの、印を店主に見せなければならなかった。納得はしてもらえたが、店の外では警官に見とがめられると厄介なので、屋内で飲んでほしいと頼まれた。

 それはさておき、二人は蒸留酒をオレンジジュースで割ったものを片手に、エビのオリーブオイル漬け、チーズなど摘まんでいる。とはいえサリサはあまり食が進んでいない。昨日からずっとあった、父からの手紙の件が頭にある。

 ミランも、サリサと同じような身分である。王立の万象研究院に所属する、二十代手前の女性留探士──留探士とは主に内在で研究する職員を指す。そして名家の名字を持っている。サリサは家系を遡れば、曾祖父の代で王家の側近である八卿と呼ばれる名家に繋がる。ミランに至っては伯父が八卿の一人だ。

 よってサリサは、ミランはどういう状況であろうかと、探りを入れるための結婚についての質問だった。

「そうだよね」

 結婚適齢期に入りたてだが、仕事をする上でもなりたての、大変ではあるが今一番楽しい時期なのである。ミランが結婚のことは頭にないのもサリサには分かりすぎるほど分かる。

 ただ、サリサの見るところ、ミランは結婚については引く手あまたなのではなかろうかと思っている。彼女はすらりと背が高く、ストレートの長髪は黄金色で美しい。砂金の瞳に、やや目尻の上がった、おしゃまな猫のような顔をしている。一緒に歩いていると、すれ違う人が彼女に目を奪われている姿を時々見る。

 小柄で、焦げ茶の髪と目をしたサリサと対照的だ。

 そのミランは、まじまじとサリサを見つめてきた。

「もしかしてサリサ、結婚を考えてる……?」

 彼女は信じられないという顔をしたが、はっとして手を振った。

「別に、サリサが結婚をしたいならもちろん応援するのよ。もちろん。……ただ。何があったの。聞いていい?」

 サリサは、昨日自分の元に届いた両親からの手紙について話をした。母からは日常のことだったが、父の手紙のことも考えてほしいと最後にあったので、母も父の意見に同意しているのが分かる。

 そして父は、サリサに結婚を勧めていた。

 サリサがかいつまんで話したことに対し、ミランはああ〜と納得したような反応をみせた。

「ご両親のお知り合いで、いい人がいたのかもねえ〜。そうか〜サリサも一人っ子だもんね〜。私も長子だし、そのうちそんな話、来そうだな〜。でもサリサはなあ〜」

「やっぱり難しいかな」

 サリサが途方に暮れた顔でつぶやきかけたとき、ミランが唐突にサリサの手を握った。

「……ひっ」

 サリサは背筋をビンっと伸ばしてから硬直した。

 ぞわぞわと背筋が粟立つ感覚がする。ミランの手は温かい、優しい感覚のいかにも女性らしい手だ。それは分かるのに、サリサの体からは緊張がとけない。不快なものがずっと背から首を這い回っているような感覚がする。友に対し失礼を承知で言うと、これは生理的嫌悪感だろう。

 気心の知れた親しい友人は、鳥肌を立てているサリサの状態を確認してから、同情を込めた顔をして手を離した。とたん、サリサの緊張は解け、大きな息を吐いた。

「ごめんねサリサ」

「こっちこそごめん。嫌っていうか……」

「私が分かってやったんだから謝らないでいいんだってば。でさあ、他人に触られるのがここまで嫌ってのは、結婚にはかなりの障壁だよ……いやまてよ、逆にいけるかも」

「え、そうなの?」

 サリサは揚げたゴボウを、慌てて咀嚼して飲み込んでから聞いた。対してミランは真剣な顔をしている。

「夫婦の営みって、天井のしみを数えていたら終わるとかなんとか」

「そ、……そうな、の?」

 ミランは至って真面目な顔をしているので、サリサも突っ込んでいいのか笑っていいのか分からない。それに新居の場合は天井にしみなどなさそうだが、その場合どうしたらいいのか。

「あとは、結婚はしたいけど触れあいがキライっていう、サリサみたいな男の人を見つけるとか」

 それしかないだろうな、とは思いつつ、サリサはもう一度ゴボウを食べた。

 だがふと、朝に見た夢、つまり過去のことを思い出した。

 サリサにとっては甘酸っぱい思い出であり、過去に戻れるなら止めろと叫びたくもあるものだ。普段なら封印しておきたいが、今日はアルコールの力もあってか、何故か話してみたい気になった。

「一人、私が結婚できるかもしれない人がいる」

「え」

 ミランは、食べようとして摘まんでいたチーズを、口の中に入れる前にピタっと止めた。

「どういうこと。教えて。許嫁?」

「そういうのじゃなくてね」

 サリサは手を振った。

「昔、触れることができたっぽい唯一の人がいて」

「ちょっと不確定要素多すぎ感ある出だしだけど、それでそれで?」

 サリサの、自信なさげな説明にはこまめにツッコミを入れながら、ミランは前のめりになった。

「私が五歳のとき、いっときうちの別荘に滞在していた人がいたの。私、その人と」

「うん」

「き」

「き?」

 サリサは顔を赤くして、しどろもどろと口を動かした。

「聞こえないよサリサ」

「え、えっとね。く、き……」

「茎? 植物の話?」

 そこから、何があったのか説明するまでに一分かかった。

 ミランは、サリサが言いたいことを聞いたのではなく察した。

「あ。もしかして、キスしたんだ」

 キスをしたと言えなかったが、言いたかったことが伝わった。サリサは口に出せなかったくせに顔を赤くしていた。

「ほうほう。初恋の相手ねえ。いいじゃないですか〜。で?」

「で?」

 サリサとミランは顔を見合わせた。

「相手はどんな人なの」

 ミランの興味津々の声から逃げるように、サリサは顔を逸らせた。

「覚えてない」

「……覚えてない?」

「どこの誰だか、顔も何も覚えていないの」

 そう。さらに恥の上塗りなことに、自分から口づけしたことははっきりと覚えているくせに、相手の顔も年齢も名前も何も思い出せない。

 どうしてだよと、サリサも自分に突っ込みたい。

 ミランはまずグラスを煽り、それからフォークでえびをつついた。

「キスまでした相手の、顔すら覚えていないって」

「……目を閉じていたからかも」

「そのとき以外もか!」

 ミランは勢いよく突っ込んだ。

「じゃあ、名前も歳も何も分からない?」

 サリサはうなずいた。

「それって、探す探せない以前に、相手は本当に男の人だったの?」

「……あ、えー?」

 そう言ってから、サリサは頭を抱え項垂れた。

「そういえばそうだ……」

「残念だったねえ〜。地道に営みしたくない男性を探すがよい」

 そのとき、正面入り口に顔を向け座っていたミランが、あっと声を上げた。

「見つかった」

 サリサが振り返ると、帯剣した若い男が他のお客のあいだを縫って二人のテーブルに向かってきている。ミランの従者であるルシウスだった。黒髪の、ひょろりと背の高い、サリサとミランと同年代の男性である。

「ミラン様。お供致しますのでお待ちくださいって言っていたでしょう」

「やだよう〜。お目付役がいたら恋バナできないんだも〜ん」

 ミランはぶんぶんと頭を振った。ルシウスはまずいな、という顔をした。

「サリサ様。ミラン様はどのくらい飲まれています?」

「わ、わた、私と同じくらい、です」

 サリサは少し緊張しながら答えた。サリサは他人に触れられることも嫌いだが、そもそも人見知りをする質なのだ。ミランの従者であり、しょっちゅう会っているルシウスでさえ気楽には話すことができない。知り合った頃はルシウスも、会う度に緊張しているサリサに申し訳なさそうな顔をしていたが、もう慣れてくれたようだ。逆に申し訳ない。

 こんなことで、自分が結婚できるとは思えないなあと、サリサはますます落ち込んだ。

「ミラン様、まだここで楽しんで下さって大丈夫ですので、ペースを落としましょう」

「なんで〜珍しい〜」

「後で、アーサー様がここに合流されます」

「はあ!?」

 ミランはテーブルに手をついて立ち上がった。普段、ほわほわとしているミランの素早い動きにサリサは気圧され仰け反った。ルシウスは予想していたようで、早くも宥めの体勢に入っている。

「そういうこと? むりむりむり。サリサ、帰ろ!」

「え」

「お、お待ちくださいミラン様!」

 ミランはルシウスの言うことも聞かず、飲食代が前払いなのをいいことに席を立った。付近にいた気のよさげな集団のいる席に、これよかったらどうぞとチーズの残ったお皿を渡し、そのまま戸に向かっていった。ルシウスは主人の背を追いかけている。サリサは唖然と座ったままでいて、隣のテーブルのお客に「お嬢さんはいいの?」と心配の声をかけられ、我に返って二人を追った。

「きゃ」

 サリサは二度ほどつまずき、他のお客や給仕のひとに心配されながら、店の外に出ることができた。

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