episode2 百合と向日葵
ざっと着替えを済ませ、適当に手櫛で寝癖を直しながら自室を出る。
っと、そこで壁掛けの鏡が視界に入った。
鏡の世界から俺を見つめる青年、"
まぁ雰囲気イケメンにもなれないようなレベルではあるんだが。
それでも特に手入れせずとも艶のある黒髪。少しだけ藍色っぽく見えなくもない
視力の低下に伴って多少悪くなってしまった人相に目をつむれば、"おおよそ好青年"の評価はしていいくらいだと自負している。
「……うーん。」
眼科に行ってメガネかコンタクトでも買ってみるか。なんて思考しながら、階段を下りてリビングに入る。
「おはよう棗。朝から日葵とよろしくやっていたようね。頬が上気しているわ。」
香ばしいパンの香りが漂うキッチンの方から俺に挨拶するのは、
彼女は俺より強く親の良い遺伝子を受け継いだようで、腰下まで伸びた艶やかな黒髪や鈍色の瞳は俺と似たようなものなのだが、そこら辺の女優よりよっぽど綺麗と言えるほどの顔立ちにすらっとした体型も持ち合わせている。
さらにそこから今現在、日本で一番有名な難関私立大学「
「よろしくやってないし、頬も上気してない。誤解を招くような言い方しないでくれ……。ただの
そんな姉を持つ俺は、自分で言うのもなんだが、勉強もスポーツも"できるほう"だ。姉さんの足元にも及ばないけれど。
俺が唯一姉さんに勝っているところがあるとして、きっと社交性くらい。
IQが周囲と違いすぎると話が合わなくなる、なんて話があるくらいだ。姉さんにとってその辺の凡人とのコミュニケーションは苦痛なのだろう。
日葵さん曰く、昔からあまり人とコミュニケーションを取るのが得意ではなかった姉さんは、俺が中2頃のある日を境に、俺や日葵さんなど、必要最低限のコミュニティの中でしか会話をしなくなってしまった、らしい。
「あら、私は日葵に聞いたのだけれど?棗くんに無理やり迫られたって。」
そんな姉さんにとって唯一の親友が
そして姉さんと日葵さんが幼稚園からの仲だから、それに付随して俺と日葵さんとの関わりも昔から多いのだ。
「……日葵さんめ。余計なことを言いやがって……って俺無理やり迫ってないが。むしろ無理やり迫られた側なんだが!?」
「嘘だよ由里!棗くんは私の体全体を舐めまわすように見て、『日葵さんはスタイルが良くて可愛いな。グヘヘ』ってセクハラしてきたんだよ!!」
リビングのソファで横になっていた日葵さんが突然会話に割り込んできて、わざとらしく声を張り上げる。
意味合い的には間違ってないかもしれないけど語弊の塊だ。ひどすぎる。
「へぇ……そうだったのね。ふぅん……私の大切な日葵にそんなことを。」
「おい待て。違うんだ姉さん。これは日葵さんが勝手に言ったことであって、俺は断じてそんなことは……日葵さん!俺にどんな恨みがあってこんなことをするんだよ!?」
「さぁ?私もよくわからないけど、多分棗くんが私の体をジロジロ見てくるからじゃないかな!」
俺を陥れたのがそんなに嬉しいのか、日葵さんもニッコニコだ。
日葵さんは俺を
「……ねぇ棗。どうしてそんな目で私を見るのかしら?」
その一言だけで伝わるだろうサディストの波動。
姉さんは俺を虐めるためなら手段を選ばない鬼畜だ。このままでは朝食前に俺が料理されてしまう。
「……大好きな姉さんの美味しい朝ごはんが食べたいなぁ………なんて思いまして。」
俺は苦笑いしながら誤魔化すことしかできない。
この場を打開するには、姉さんの機嫌を損ねずに上手に逃げるしかないのだ。
(相手を)褒める、(話を)逸らす、(全力で)
最強の会話術だ。多分偉い人も言っている。知らないけど。
「ふぅん……そう。」
しかし姉さんは器用に手を動かしながら、そう呟くだけ。
そして、少し思考したあと、短く俺の名前を呼ぶ。
「切る、煮る、焼くの三つなら、どれが好き?」
ん?冷や汗が出始めたぞ?
「……一応聞きたいんだが、それは今日の朝食の話で間違いない、よな?そうだよな?」
今もう半分作り終わっている料理たちに目を逸らして質問せざるを得ない。
面接で逆質問は死を意味するらしいが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。つか面接じゃない。
俺の問いかけに、姉さんは満面の笑みを浮かべながら、 包丁を手に取った。
「ええ、場合によっては。」
「場合によっては!?」
「因みに私の一押しはぴっぱたく、よ。」
「んな選択肢なかったよな!?それ俺への処罰だよな!?」
「煩いわね。肉は筋繊維を叩き切ると柔らかくなるのよ。」
「やっぱ俺が朝食になるんじゃねぇか!!つか筋繊維が切れるレベルのビンタってなんだよ!?」
ピピピピピピピピ!!
俺の悲痛な叫びと共に、キッチンタイマーが鳴った。
姉さんは無言で火を止め、日葵さんに問いかける。
「……今何時?」
「7時半ー!」
BGMにもならない程度の音量で報道を続けるテレビを指さして、日葵さんが答える。
傍観してるだけならさぞ楽しかっただろう。満面の笑みだ。
「……そう、仕方ないわね。」
俺が家を出る時間までもう2~30分程度しか時間が残されていなかった。
姉さんもその辺は気にしてくれているようで、嗜虐的で邪悪なオーラを仕舞いこみ、料理を皿に盛りつけていく。
どうやら俺は肉叩きされずに済んだようだった。
「いやぁ、危なかったね棗くん。生存祝いにぎゅーしてあげようか?」
「マジで勘弁してくれ……。今度は選択肢にミンチが追加される……。」
白々しい様子に呆れながらも返答する。
しかしまだ日葵さんのターンは終わらない。琥珀の瞳に潤いを持たせ、「そっか、今までありがとうね?」なんて口にする。
「慈悲とか慈愛とかない感じか……?」
味方がいない。辛すぎる。
やりたいことをやりきった日葵さんは、へらっと幸せそうに笑い「いやぁー」と続ける。
「こういう時間っていいよね。私好きなんだ。なんでもない馬鹿な事やる時間。」
どこか遠くに向けて言っているような言葉。
先ほどまで滅茶苦茶やってくれた人から急にそんな言葉が出るものだから、少し困惑してしまった。
「え……あぁ、そうだな?俺も好きだよ。二人との時間。」
姉さん、日葵さんとの三人の時間。それは俺にとっては何の変哲もない日常だ。
自分でも恵まれていると思うほど刺激的で、豊かな日々。
けれど言われてみれば、これも永遠に続くわけではないんだろうと思った。
将来働く場所から遠いから引っ越すとか、一人暮らしを始めるとかでこの家から離れることだってあるかもしれないし。
「……に。」
「え?今なんて………」
ぼそりと何かを呟いた日葵さんの言葉を聞き返そうと口を開くも、
『続いてのニュースです。
やけにはっきり聞こえた逃せないワードに、言葉を引っ込めた。
「解決しないねーこれ。」
そこには【累計327人】【連続失踪事件】という文字が大きく映し出されている。
日葵さんの呟きも気になるが、こっちの方がよほど重要だ。
「昨晩だけで25人。流石に笑いごとじゃ済まないよな。」
ここ数週間、俺らの住んでいる東京都終里区近郊では、連続失踪事件が起こっている。
防犯カメラでも消えた瞬間を捕らえられない。被害者の年代も、性別も、容姿の美醜も、失踪する時間帯もバラバラ。
血痕どころか髪の毛一つ残さずに人が消える様は、【終里区連続神隠し事件】なんて揶揄されるくらいには不気味で不可解なものだ。
『日本全国での年間行方不明者数は約8万人です。これを加味しても一定の地域。さらにこの時期に集中した失踪となると────」
『人為的なものだと考えるのが妥当ですよね。例えば誘拐みたいな。』
『うーん。実はそう断定はできないというのが失踪事件の難点でして。ここまで大規模ではありませんでしたが─────』
「うっへぇー……連れ去られたとして、どうなっちゃうんだろ。」
画面の奥でタレントと専門家たちが掛け合いを続ける中、日葵さんが顔をしかめる。
冗談めかした「うっへぇー」だったが、その中には確かに不快感が混じっていた。
「さぁな、考えたくもないけど臓器売買とか人身売買とか、そういうアングラなやつじゃないのか?」
「うっわ、社会の闇って奴だねー」
それにしたってなんでこの区だけなんだと思わずにはいられない。
都会というには少し物足りないが、それでも人の目はそこそこある場所で人を誘拐するくらいだったら、郊外の方がよっぽどやり易いだろうに。
「犯罪でない可能性だって大いにあるわ。」
突然、キッチンから姉さんが声をかけてきた。
俺は日葵さんと一緒にそちらに目を向ける。
姉さんは三人分の食事をお盆に乗せながら話を続けた。
「失踪事件は基本的に【家庭関係の問題】や、【認知症関連】、【仕事関係】がその半分以上を占めているのよ。意外なことに【犯罪関連】は全体の1%にも満たないわ。原因が特定・推定されるものの中では、だけれど。」
「そこの雑誌。少し退かして頂戴。」と言って由里さんはお盆をテーブルまで運んでくる。
「あ、うん。」
日葵さんがテーブルの脇に置いてあった週刊誌を退けると、すぐにお盆に乗った料理が置かれた。
今日のメニューは乾燥パセリがまぶされたエッグトーストにコンソメスープ、三色サラダ。
とても綺麗に盛り付けされた、まるでレストランにでも出てくるような、そんな純洋風な内容だ。
「ありがとう!由里!」「ありがと姉さん。」
「どういたしまして。」
姉さんが日葵さんの隣に座ったところで、俺たちはそれぞれ両手を合わせて「いただきます。」と口にする。
各々、綺麗に盛り付けられたそれらに箸を伸ばした。
「それでも1週間で300人だぞ?偶然が重なったってことなのか?」
姉さんは少しのインターバルもなく、平然と答えてくれた。
「日本人特有の集団心理よ。抑圧された不満だったり、逃げ出したい、消えてしまいたい、なんて気持ちは誰でも持っているモノでしょう。それが周りの失踪事件に触発される形で連鎖的に起こるのよ。ドミノ倒しみたいに、ぱたぱたとね。過去にも事例がいくつかあるわ。」
「ほら」と、姉さんが目をやる訳でもなくテレビを指さす。話題は過去の事例について。
その中には姉さんの言うような【集団心理】も取り上げられていた。
毎度毎度どこから引き出してるのか、俺には到底理解できないレベルの知識量だ。カッコいい。
「だから……まぁ、これだけの件数なのだから全てが誘発的なものとも思えないけれど、貴方たちが心配するほど大ごとではないかもしれない。と思うわ。」
きっと日葵さんの不安に対しての言葉だろう。
不器用な優しさと、控えめな視線に思わず頬が緩む。
「ありがとうな。」
「…………別に、思ったことを言っただけよ。」
「うんうん!由里はちょっと素直じゃないけど、優しいね!」
「……煩いわね。本当にひっぱたいてやろうかしら。」
こういうわかりやすい照れ隠しは、姉さんのアピールポイントというか、可愛いところというか……。
たまにしか見れないギャップだからこそいいんだとわかってはいるけれど、こういう部分をもっと外に出せば、柔らかい雰囲気になるのに、なんて思ってしまう。
「またまた~!」
ニマニマしながら肘で小突く日葵さん。
それを鬱陶しそうに払いのける姉さんは、いつもの仏頂面に戻ってしまった。
しかし心なしか、ほんのりと頬が赤くなっている気がしないでもない。
「……ご馳走様。」
そして俺が食べ終わる前に、そそくさと席を立ってしまう。
「あ、由里!?ごちそうさま!…………ねぇごめんって~!」
それを追いかけるように日葵さんもリビングから出て行ってしまった。
一人残されたというのに、なんだか笑みが零れてしまう。
今日は9月1日。俺の高校生活においてはじめての二学期、その最初の日。
「って、もう出る時間!?」
玄関まで走り出す俺の瞳の鈍色を晴らすように、空は綺麗な青で染まっていた。
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