宿り木カフェ

桜居かのん

Case1 家族を亡くした21歳

第1話



「渡辺さんって、いつも平和そうよねー」



『まただ・・・・・・』



昼休み、私は女性陣と静かに休憩室でお弁当を食べていたら、いわゆるお局様からいつものお言葉が始まった。

彼女の表情は困ったように眉をひそめているようで、その声には嘲笑が含まれていることくらい分かる。



「あまり苦労してないっていうのが表情とかに表れるのかな、羨ましい。

ま、そんなに若いんじゃ世の中の厳しさを知れって方が無理だよね。

ごめんなさいね、仕方が無いことだけど大人としては貴女のために指摘するのも必要だと思って」


「いえ・・・・・・」



私、渡辺由香は少しだけ困った笑顔を浮かべて小さく答える。

そんな私を見て、彼女は何故か満足げだ。



「私なんてやっと結婚の決まった彼と結婚式の打ち合わせをしたいのに、仕事が忙しくて私がほとんどやってるの。

こっちだって仕事が忙しいのにさ。

あげく向こうの両親がいちいち連絡してきて、面倒ったらありゃしない。

そういうのも全て上手くこなしちゃうから任されるのは分かるんだけど」


『単にのろけたいだけじゃない』


周囲もいつもの事だとうんざりしているのだが、彼女の機嫌を損ねれば仕事を多く割り振られたり上司にあること無いことを言ったりするので、みんな当たり障り無く過ごしている。


そして、私には毎回会う度にのんきだの、苦労を知らないなどと、何故かそういうお小言が飛ぶ。

彼女はひとしきり喋って鬱憤を晴らしたのか、それとも何かを満たしたのか私の側を離れていった。

いなくなって元のように休憩室で、他の女性達は視線だけで会話をしているようだ。

また静かな休憩室に戻る。

私は味のしなくなったお弁当を、急いで口に運んだ。









「ただいまぁ」



古い一軒家。

玄関ドアを開けると、溜まっていた冷たい空気が家の中から外に出て行くような気がした。


電気をつけ軋む廊下を歩き、エアコンと石油ファンヒーターなどの暖房を入れる。

自室で上着をハンガーにかけまずはパソコンの電源を入れ、あるサイトを開きログインボタンを押した。

画面には開始時間前という表示がされている。

それを終え、私はダイニング隣の和室へ向かう。





「お母さん、お姉ちゃん、ただいま」


そういって仏壇に手を合わせた。



あまり広くはないが、この古い一軒家に住んでいるのは私だけ。

父は私の小さい頃に離婚して、今は一体どこで何をしているのか私は知らない。

生きているか、死んでいるのかすらも。





姉は・・・・・・夫だった人に殺された。



『優しい人なの』


そういってある男性と交際しているのだと話をしてきた姉は、母と私にその相手を会わせることなく家を出て、しばらくして結婚したと突然連絡があった。


旦那さんを紹介してと私が言っても、彼は気むずかしい人だからと断られた。

せめてどんな人か教えて欲しいと言っても断られる。

時折家に戻ってきて一緒に食事をしようと言ったが一度も戻らず、こちらから一方的にかける電話でしか姉と話すことが出来ない。

それも必ず出るわけでは無い。

夜は忙しいから掛けてこないでと断られ、その頻度すら減っていった。


母も私も流石に不安になっていた。

姉の態度がどんどん変わっていったからだ。





私は姉からなんとか家の住所を聞き出し、約束も取り付けず会いに行った。

驚くほど古びた二階建てのアパートの一室が、姉の新居だった。

名前も書かれていないドアのブザーを押すと、灰色のドアが開いて人が出てきた。

そして私は呆然とした。


周囲でも可愛いと評判だった姉の面影は微塵も無いほど痩せ、姉の顔色は悪く、そして酷く腫れた状態だったのだ。



私はすぐに姉が夫から、ドメステックバイオレンスを受けていると確信した。

そうではなければこんな状態になっているはずが無い。


『お姉ちゃん帰ろう!

顔も酷く腫れてる!

叩かれたの?殴られたの?!

こんなの酷いよ!!』


『ダメよ、あの人が一人になってしまう』


姉は腫れた顔で横に振る。


『その前にお姉ちゃんが死んじゃうよ!』


『あの人が怒るのは私のせいなの、私がいたらないから。

私がきちんとやれていれば優しい人なのよ』


姉はあくまで静かにそう言った。



その後も私は心配で何度も家に通うと、こう姉に言われた。


『もう二度と来ないで。

貴女が来ることを知って彼の怒りが酷くなった。

全部貴女のせいよ』


姉は腫れた目で私を睨み、古びたドアを閉めた。


「お姉ちゃん!

開けて!お願いだから!!」


そう叫びながらドアを叩いてもドアは開かない。

私はしばらくそれを繰り返したが反応は無く、隣の男性が迷惑そうにドアを開けて睨んできたので辞めざるを得なかった。


それが姉と会った最後になる事など思わずに。




私はすぐに警察へ相談に行った。

姉がDVに遭っている、助けて欲しいと。

私が必死に状況を訴えても、目の前の警察官の表情は一切変わらない。

本人が一緒に来ないと無理だ、そもそもそれが本当なのかもわからない。

どうしてもというなら姉を連れてこいと実質門前払いされた。

その後何度も警察に行ったが、迷惑だといわんばかりの冷たい対応が続き、私は絶望していた。


だれが姉を助けてくれるのだろう。

姉に電話を掛けたら着信拒否されていた。

家に行っても出てきてはくれない。

私の手は振り払われてしまったというのに。


母は姉のことを心配し、鬱病になった。

私は高校を卒業し念願の正社員になれたばかりで、色々な事が一杯一杯だった。



*********



そんなある日の深夜、寝静まった自宅に電話が鳴り響いた。

私は何か嫌な予感がしてその電話を取る。

そこから聞こえてきたのは男性の声。


『渡辺さんのご自宅ですか?

下野警察署の松本と申します』




私と母はタクシーでその警察署に駆けつけると、松本と名乗る年配の警察官に警察署の地下に連れて行かれ、一番奥の部屋に案内された。


そこのドアには霊安室と書かれていた。


何故霊安室に?

もしかしてお父さんだろうか。

いやわかっている、私はここに何があるのかを。


警察官がドアを開け私達は中に促された。

電気で明るいがなんの色もない冷たいその部屋の簡易なベットには、人が寝ていた。

長いスカートから真っ白な脚が見える。

私達がそのベットの側に行くと顔にかけられていた布を、警察官が無表情のままめくった。




『娘さんの、姉の、由美さんで間違いありませんか?』



母はその場で倒れた。

警察官が声をかけているようだが私はそれを視線の端で見て、視線を前の人に向ける。

横たわっている女性らしきその顔は、羨ましいほどに可愛かった姉の顔では無かった。


しかし、何度もあの古びたアパートで会った時、殴られ見慣れている顔だった。

私は俯いて声を絞り出した。


『・・・・・・姉です』






姉の夫は傷害致死の罪で捕まった。


姉の夫を私と母が初めて見たのは、裁判所の法廷だった。

裁判官の前に立たされたその男は、暴力などとは無関係の人が良さそうな風貌で、受け答えはボソボソとした声。

だが、その男が裁判で話すことは、自己保身と姉への罵倒ばかりだった。



全てあの女が悪い。


しつけの一貫だった。


死ぬとは思わなかった。




そんな裁判を見て、母は、


『私が悪かったのよ、全て私が悪かったの』


そう言った。


そんなことないよ、悪いのはあの男だよ、と言っても、虚ろな表情の母の心には届かなかった。




それからはめまぐるしい日々だった。

警察での手続き、姉の葬儀、母の病院への付き添い、裁判に関わる事。

その当時の事はあまり記憶にない。




そしてしばらく経ったある日、会社で仕事をしていたら携帯に電話があった。

警察です、という言葉で、私の心臓が、ばくり、と大きな音を立てた。

この感じを覚えている。

だってそれは。


『あなたのご家族と思われる遺体が発見されました』




私が仕事に行った後、母は近くのマンションから飛び降り自殺をした。


非常に精神が不安定だった母を家に一人にするのは心配だったが、既に姉のことでかなり会社を休み、もうこれ以上休める状態では無かった。




今度は母に会うため、たった一人で警察署の霊安室に行ってから、やはり当時のことはあまり覚えていない。


こんな事が続いたというのに周囲の私を見る目が想像以上に厳しくて、私はその視線や声に怯えながら、母をひっそりと荼毘に付した。

祖父達の眠るお墓には姉と母の遺骨が入り、もうこれ以上こちらに入ることは厳しいですとお寺の職員さんに言われ、私の場所はここに用意されていないのだと遠回しに言われているような気がした。


そんな母が唯一残してくれたこの家に、私は今、独りで住んでいる。


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