第28話 愛おしさ

「……鮫島さめじまくん、……こ、これは君が一人でやったのかい?」


 横倒しになったままのプランターに背中を預けて座り込み、疲れ果てて朝日を浴びていた俺の姿とプランターを交互に見ながら、白崎しろさき先輩が瞬きを繰り返しながら声をかけてきた。

 そのすぐ後ろで、一緒に登校してきたのだろう鈴木さんも驚いた表情を浮かべて立ち尽くしている。


 驚いているのは俺自身もだ。やれるところまでやってやるつもりで始めたことだったが、ここまで出来るとは思わなかった。


 俺は昨日、フラワーショップ咲彩さあやからグラウンドに戻ってきて一晩中、一心不乱に10基のプランター全ての汚れ放題だった表面の土や泥を落として綺麗に磨き上げた。


 さらに倒されたままのプランターとは別に3基の古い土を運び出し、用務員倉庫にあった培養土へと入れ替えてやった。

 本当は半分の5基は済ませたかったのだが、朝日が顔を出し始めた頃にはさすがに時間的にも体力的にも限界を迎え間に合わなかった。


「……見違えたよ。しかも土の入れ替えまで。……鮫島くん、まさかとは思うが、一晩中やっていたのかい?」

「はい。どうしても、朝までに済ませないといけなかったので」

「こ、ここまでしなくても、プランターを元に戻すのは朝にしようと――」

「おいおい、まだ片付けてないのかよ? 練習の邪魔になるって言っただろう?」

 白崎先輩の戸惑い混じりの声を遮って、朝練にやって来た石中部長と陸上部員たちが姿を見せるなり飽きもせず苦言を突き付けてくる。


 本当に昨日の放課後から、水を得た魚みたいに元気になったなこの人。いまが人生の絶頂みたいな気分なんだろうな……。


「なんだよこれ? いまさら綺麗にしたところでどうせ撤去するのに意味ねえだろ」

「これなんて倒れたまま磨いてるとか何がしたいんだよ?」

「ったく、零れた土はそのままじゃねえかよ。綺麗にするならこっちが先だろ?」

 競うように勝ち誇ってニヤついた笑みを口の端に貼り付けて、座り込んだ俺を見下ろしながら罵声を浴びせてくる。


 正直、疲れ果てていてそんな安い挑発ではピクリとも触発されない。


「はっ、図星突かれて何も言えねえんだろ」

 それを見て、俺がぐうの音の出ずに黙り込んでいると思い込んだのだろう、倒されたプランターの側に置いておいた苗たちの入ったトレーを足で小突く。


 もちろんそれは昨日、鈴木さんが必死で掘り起こして救出し、用務員倉庫に避難させていた苗たちだ。

 すぐにでも植え込めるようにあらかじめ持ってきておいたのが裏目に出てしまった。


【いやー!】

【怖いよー……】

【やだー、ひどいよー!】


 ギラリと、座り込んだ姿勢のままで、ただ静かに、冷たく鋭い眼光を突き付けてやる。


「――ヒィッ!?」


 そんな苗たちの悲鳴を聞いてしまって放ってなどおけるはずがない。

 それにもう、遠慮もいらない。


 俺は微塵も敵意を隠すことなく、自分の視線の殺傷能力をきちんと理解したうえで、トレーを小突いた陸上部員をまっすぐに睨み付けてやった。

 普段そんなつもりはないのに勝手に勘違いされてしまう視線ではない。完璧に睨み付けるつもりで仰ぎ見てやったのだ。


 そうはいっても軽く睨んだつもりだった。軽く、手加減を加えて、だ。

 なのに、短く息を飲んで膝をガクガク震わせながらよろよろと後退ってしまう。

 散々勝手に、俺のことを腫れ物に触るように扱ってきたのはそっちなのに、ちょっと睨んだだけでこの世の終わりみたいに顔面蒼白でまごつかれるのは甚だ心外でしかない。


「やめてください! 乱暴なことしないでくださいっ!」

 鈴木さんが肩にかけていた鞄をなげうって駆け寄り、育苗トレーをしゃがみ込んで庇う。


 それを見た陸上部員が、俺から目線を逸らして鈴木さんへと標的を変える。


「な、なにムキになってんだよっ、そんな汚え雑草なんかどうせ枯れるだけだろっ」

「違いますっ! あなた達にはわからなくても、この子たちは必死に生きてるんです!」

【そーよそーよ!】

【これからたくさん咲かせるんだからー!】

 同調して葉を震わせる苗たちを覆い被さって守りながら、今度は鈴木さんが陸上部員たちをキッと睨み付ける。


「なにが、生きてるだよ……」

「手をかけてちゃんと愛情を注いであげたら、綺麗に花を咲かせて応えてくれるんです! この子たちには心があります! それなのに、どうしてこんな酷いことするんですか!?」

「……し、知らねえよ、その雑草のための、このデカい植木鉢が倒れたせいで俺たちの大事な練習用具が壊れるところだったんだぞ?」

 鈴木さんの圧倒的な剣幕に気圧されながら、不愉快そうに眉根を寄せて倒れたままのプランターを顎で指し示す。


「その用具を大切に思う気持ちと、わたしがお花を大好きな気持ちが同じだってどうしてわからないんですか?」

「お、同じだろうが邪魔なものは仕方ねえだろ……」

「邪魔だったら人の大切なものを足蹴にしてもいいんですか?」

「……」


 鈴木さんの訴えは至極真っ当だ。


 嫌みったらしい理屈でも論破することだけが目的の正論でもなく、どこまでも純粋な疑問として訊ねている。ことごとく真っ当と形容するより他なかった。


 その証拠に、あっさりと狼狽えてしまった陸上部員は言い淀んで口をつぐんでしまう。


「あのなぁ? 俺たちはこの用具を大切に扱ってコンマ一秒でもタイムを縮めたり、1ミリでも記録を伸ばすための努力を日々やってるんだ。この高校で唯一の偉大な先輩の記録に少しでも追いつくためにな」

 言い淀んでしまった部員を押し退けるようにして石中部長が歩み出る。


「……偉大な、先輩」

「そう、偉大な先輩だ。陸上競技の魅力にも気が付けないお前らは知らないかもしれないが、我が校の誇りとも言える先輩が陸上部にいたんだよ」

「…………」

「それにひきかえ、お前らのそれはなんだよ? その汚い雑草に心を込めたら花を咲かせるのか? なるほど、それはすごいな。――けど、だったらどうだっていうんだ? その花が咲いたらいったい何があるっていうんだ?」

 心の底から見下しきった、むしろ憐れんでさえいるかのような表情を浮かべ、呆れ果てた口ぶりを隠そうともせず問い掛けてくる。


「………………」

 鈴木さんはジッとまっすぐに石中部長を見上げたまま、けれども唇は固く引き結ばれて黙りこくっている。


 それは、詰問に対して屈してしまったわけではない。そして当然ながら、言い負かされたからでもない。


 俺には鈴木さんが黙ってしまった理由が痛いほどわかる。


 どんなに熱い思いを胸に抱いていようと、理解し合えない、理解しようとしない人には決して伝わらないことを知っているからだ。


 育てた植物が花を咲かせる。

 そこに意味を求めることだけに言及してしまえば、俺たちガーデニング部の活動には意味なんてないのかもしれない。

 野菜を育てるさかえ先輩の園芸部の方が、収穫後に食べることも出来る分、意味や目的という点ではより明瞭かもしれない。


 おそらくグラウンドのプランターが薄汚れたまま草も生えない状態であろうと、学校の敷地内にある花壇のどこにも花が咲いていなくても、そんなことでは誰も困らないだろう。

 逆に、花が咲いていたとしても気にも留めない、まったく気が付きさえしない人だっているだろう。


 それでも、そこに何があるのかと問われるならば、言えることはただ一つ。


 ――楽しいから。嬉しいから。なにより、好きだから。


 どんなに真心を込めて丹念に世話を続けても、花たちはいつかは枯れてしまう。花の一生は短いなんて誰かが言っていた、だって生き物なのだから。


 よく出来た最新の測定器でコンマ数秒まで計測されたタイムのように、後世に語り継がれるような記録として残すことは出来ない。そんな風にして残すことに意味なんてないし、まったく重要ではないからだ。


 だから、『花が咲いたら何があるのか?』なんて問い掛けられている時点で、もう絶対に理解し合えないのだ。

 価値観の違いといえばたやすいだろう。たやすいけれど、そんなたった一言で片付けられてしまう虚しさに返す言葉をなくしてしまうのだ。


 そんな、どれだけ説明したところで絶対に理解してもらえない絶望を痛いほど知っているから言葉に出来ないのだ。


「――愛おしさです」


 なのに、鈴木さんはあまりに毅然とその小さな唇を開いた。


 捨て台詞でも負け惜しみでもなく、わかりきったことをあえて口にするみたいに、

「がんばってお世話したお花たちが綺麗に咲いてくれた時、その花たちは愛おしさを返してくれます。それは、誰かにとってはささくれ立った気持ちを癒やす手助けになったり、ほんの一瞬だけでも嫌なことを忘れさせてくれたり、いま幸せな人の気持ちをさらに豊かにしてくれたり様々です。だからわたしは、お花が大好きなんです。わたしの大好きに応じて咲き誇ってくれるこの子たちに、それ以上の何を求めるんですか?」

 いともたやすく、なにをつまらないことを問い掛けてくるのかと小首を傾げて、言い淀むこともなく一息に言い切ってしまう。


 小学生の時の作文で将来の夢を否定されてからというもの、これまで口籠もり続けて決して口に出来なかった花が大好きという気持ちを、さも当然のように言ってのけたのだ。


 ほんの少し思い返しただけで、くっきりと小学生の時の記憶が、教室内のざわめきが、口々に俺の思いを否定する刃物のような言葉たちが蘇り怖気が走る。


 あどけない子供の頃とは違い、物心がついてくるとはっきりわかる。


 自分の大切なもの、大好きなものを口に出して言うことは、とても怖くて、とんでもなく勇気のいることなのだ。それが本当に心の底から大好きなものであればあるほどに。


 だって、それを口にしてしまったがばっかりに心ない嘲笑を浴びせられるか、あるいは聞くに値しないと一笑に付されてしまうかもしれないのだ。


 石中部長が言っている陸上競技にかける情熱は、本当のところでは俺には理解出来ない。

 誰かの大切なものが俺にとっても大切とは限らないし、大切だと思わないのだからそこに傾ける熱量の大きさなんて伝わらない。そして当然ながら、俺にとっての大切なものだって同じなのだ。


 俺が他の何より大切にしている大好きなものは、他の誰かにとってはまったくの無価値で、意味をなさないゴミ以下のものでしかないかもしれないのだ。


 それなのに鈴木さんは、

「いつかは枯れてしまうこの子たちのことは記録には残らないです。でも、失敗しながらも育てた日々の結果、それでも花を咲かせてくれた感動がわたしの記憶に残ります。永遠に忘れることのない思い出としてわたしの中に残ります。この子たちのことが大好きだからそれが全てです」


 俺が体裁を気にして隠し通そうとしてきた大好きな気持ちを、恥じらいもせず自信たっぷりに淀みもなく言葉にしてみせたのだ。


 こんな見た目のせいにして自分の気持ちを偽り続けている俺を見透かしているみたいに。


 ――だから、ここから先は俺が引き受ける。


 これ以上、鈴木さんを矢面には立たせない。絶対に傷付けさせない。


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