第15話 お嬢様視点 4
「なに? やっぱり辞めたかったの?」
「あ、いえ、そうではないんですけど……」
紗雪は何やら言いづらそうに下を向く。紗雪が辞めたいと思っていたなんて想像していなかったからショックだった。
「はっきり言って。辞めたいなら辞めてもいいのよ」
つい口調が厳しくなってしまう。
「辞めたくはないです。だけど、それだとこれからも『お嬢様』とお呼びした方がいいんですよね?」
「え?」
「夕べは、その……『美羽』って呼んだじゃないですか。それはダメですよね?」
上目遣いで私の様子を伺うように紗雪が尋ねる。私は身悶えしそうになる体を抱えて必死で堪えた。そんなの呼んでほしいに決まっている。だけどそれを了承したらきっともっと求めたくなるような気がする。今はまだダメだ。
「ダメ」
私はなんとか言葉を振り絞る。紗雪は「やっぱり」といいながらうなだれた。本当に紗雪はずるい。私だって我慢しているのに、これではまるで私が意地悪をしているみたいだ。
「話の腰を折ってすみませんでした。聞きたかったのはそれだけです」
紗雪はやけにしおらしく言う。私は前言撤回したくなる気持ちを抑えてひとつ咳払いをした。
「私の結婚の話が持ち上がっていることは伝えたわよね」
私の言葉を聞き、紗雪が表情を引き締めて私を見ると「はい」と答えた。
「簡単に言うと、それを破談にした上で完全に自由になれるように色々動かなくちゃいけなくなるのね。のんびりしていると勝手に進められちゃうと思うから」
「はい」
「本当は紗雪を巻き込みたくはないんだけど、紗雪が本当にこれからも私と一緒にいたいと思ってくれるなら……」
「一緒にいたいです」
私の言葉に被せるように紗雪が即座に答えた。私は小さく頷く。
「それなら紗雪は興味ないかもしれないけど私の家族ことを説明しておくわ」
「興味はありますよ?」
紗雪がキョトンとした顔で言う。
「そうなの? 今まで一度も聞いてこなかったじゃない」
「それは聞かない方がいいかと思ったからです。ご実家に伺って拝見した感じで複雑なんだろうなというのはわかっていたので……。その、ここにいる間はご実家の嫌なことは思い出さずに、笑ったり怒ったりしていてほしいなと……」
「そう、だったの……」
私が思っていたより、紗雪は私のことを思っていてくれていたようだ。紗雪は私に興味がないから聞いてこないのだと思っていた。ジワジワと嬉しさが込み上げてくる。
「ありがとう。確かにこの五年、この部屋では実家のことなんて忘れて楽しく過ごせたわ」
「いえ。私にはそれくらいしかできないので」
紗雪は控えめに言ったけれど、だから私は紗雪を選んだのだ。
「私の実の母は私が三歳の頃に亡くなったの。だからほとんど覚えていないのよ」
「そうだったんですね」
「母が亡くなってから父が再婚したの。まぁ、よくある話よね」
そうして私は紗雪に我が家の事情をゆっくりと話した。
桜木家は歴史のある名家で政界や財界に大きな影響力を持っている。いくつもの会社を経営していて、桜木家の当主になればそれらのすべてを手にすることになる。
私の父は四人兄弟の末っ子だ。長男、次男、長女、父。順当にいけば、長男が桜木家を継ぐはずだった。
だが、野心家の父は桜木家の当主になることを望んだ。
長男は元々桜木家には興味が無く、あっさりと身を引いたらしい。最も優秀で人徳もあった長女はそういった争いを嫌い、早々と海外に移住したようだ。そうして次男と父の一騎打ちのような当主争いがはじまった。
父は手段を選ばず次男を追い落としたらしい。そして私の母との結婚も桜木家の当主になるための手段のひとつで、そこに愛はなかった。
母が亡くなったとき父は当主に収まっていたし、母との結婚によって手に入れたいものはすべて手に入れていたので、母の死を喜んでいたのではないかと思う。その証拠に母が亡くなってすぐに新しい妻を迎えた。
私にとって継母となるその人は、父が母と結婚する前から関係を持っていた人だった。思いを貫いたと美化して語ることもできるだろうが、結局父は女を道具としてしか見ていないクズなのだ。
愛人だった女性を後妻として迎え入れたのも、彼女が父の息子を産んでいたからだ。
そうして私が三歳の冬、新しい母と新しい兄が突然できた。
父は当時付き合っていた彼女が妊娠しているのを知っていて母と結婚したのだ。
三歳の私は、父にとってどうでもいい存在となり、継母にとっては邪魔な存在になった。
唯一私のことを気に掛けてくれていたのは離れに暮らしていた祖父だけだった。現役を退き隠居生活をしていた祖父だったが、まだその影響力は強く、父も無視することができない存在だった。
そんな祖父が倒れたとき私のまわりに不審な動きが見えはじめた。どうやら父と折り合いの悪かった祖父が、その莫大な遺産を私に相続させるのではないかという憶測のせいだということが後になってわかた。
「それが十歳のとき。紗雪とはじめて会ったときね」
「誰かに追われているって……」
「動向を見張っているとかそれくらいだとは思うけど、当時の私は本当に怖かったのよ」
紗雪は眉をひそめた。
「あのとき、信頼できる人の食べ物しか口にしないって言われてましたけど……それまでにそういうことがあったんですか?」
「私は家族と一緒に食事をしたことがなかったんだけど、私に用意された食事にちょっと異物が混入していることがなんどかあってね」
「それって……」
「犯人は家で働いてた使用人の一人ですぐに解雇されたんだけど、その人が生意気な子どもに嫌がらせをしたかったのか、誰かから命じられたのかはわからないわ」
「ひどい……」
「だからあのとき食べた紗雪のおじい様のパンがすごくおいしく感じたの。世界で一番おいしい食べ物だと思ったわ」
紗雪は悔しそうに下唇を噛みしめる。
「そんな顔をさせたくてはなしてるんじゃないのよ。それにおかげで紗雪と出会えたんだと思えば、悪いことばかりじゃないでしょう?」
笑顔を浮かべて言うと、紗雪も少し表情を和らげた。そしておそらくは気分を切り替えようとしたのだろう。
「それじゃあお嬢様の初恋はそのときの私ということですね」
「違うわよ」
つい即答すると紗雪はこれまで見たこともないほど目を大きく見開いた。その顔がちょっと面白くて思わず吹き出してしまった。
「十歳ですよね? 私が初恋の相手じゃないんですか?」
「残念ながら違うわね」
「違うんだ……」
「何をそんなにショックを受けたみたいな顔をしてるの? 紗雪だって私がはじめてじゃないでしょう?」
あんなキスを平気でしておいて、はじめてだなんて言わせない。
「それはそうですけど……初恋の人はどんな人だったんですか?」
「小学校の低学年くらいに私に付けてもらっていた家庭教師の女性。多分、大学を出たばかりとかそれくらいの年の人」
「年上好きはそのころからなんですね」
「まぁ、そういえなくもないかもね」
「素敵な人だったんでしょうね」
紗雪がいかにも棒読みと言った感じで聞く。実はこの初恋もそんなにいいものではない。確かにやさしくてかわいい人だった。
「その人、父の愛人だったの」
「へ?」
「私の監視と……そうね、都合のいい傀儡(かいらい)にするためにあてがわれたって感じかしら」
「その人はどうしたんですか?」
「使用人を通して、ごく自然に継母にリークしてクビにしたわ」
「なんだかお嬢様の人生はハードモードなんですね」
「私の側にいるのが嫌になった?」
「それはありません。ただ、お嬢様が一般的な女子高生よりも老け……大人びている理由がわかったというか」
「今、変な言い間違いしなかった?」
「してませんよ」
絶対に『老けてる』と言おうとしたけれど、あまり追求していると横道に逸れてしまうから私はそれを聞き流すことにした。
「まぁいいわ。話を戻すわね。祖父が倒れてバタバタしたんだけど、その祖父の体調も回復して一応は平穏が戻ったのね」
「スーパーハードモードがハードモードに戻ったということですね」
「そういうことね。私も子どもだったから、それまでは我慢をしていればそんなにひどい目には合わないだろうと思っていたの。だけど、ちょっとした状況の変化でどうなるかわからないんだって身をもって理解した」
「十歳で……」
紗雪の目は私を見ていたけれど、私とは別の所を見ているようだった。もしかしたら、十歳のころの私を思い出しているのかもしれない。
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