第10話
もう昼も過ぎていたからどこかで昼食を食べようと提案したのだけれど、お嬢様が家で食べると主張した。やはり知らない人の料理は食べたくないのかもしれない。
帰る道すがら食事についての相談をして、家に残っているパンで小腹を満たして、夕食を早めに食べることで決着がついた。
途中で高級食材を扱うスーパーに寄って夕食に使う食材を買った。お嬢様はスーパー自体が珍しいらしく、幼い子どものようにはしゃいでいたのが微笑ましかった。
家に帰ると、お嬢様はパンを持って部屋に引きこもる。私は少し休憩をしてから夕食の準備をはじめた。夕食に食べたいものは、スーパーで買い物をしているときにお嬢様から聞いた。少し時間がかかるけれど急ぐ必要はない。
夕方というには少し早い時間に夕食を作り終えた。少しパンを食べたとはいえ、お嬢様もお腹を空かしていることだろう。
私はお嬢様の部屋をノックした。
「お嬢様、夕食の準備ができました」
しかしいくら待っても返事がない。もしかして眠ってしまったのだろうかと思いながらもう一度ノックをする。それでも返事がなかった。
私は「失礼します」と言ってドアを少し開ける。
お嬢様は眠ってはいなかった。床に座ってベッドの上に広げた画集を真剣に眺めていた。
「お嬢様」
もう一度声を掛けると、お嬢様はビクッと肩を震わせて振り返った。その顔を見て私は身動きが取れなくなる。
お嬢様はすぐに顔を背けて「すぐに行くから出てって!」と叫んだ。
私は何も言えないままお嬢様の部屋を退いたけれど、お嬢様が泣いてたように見えた。使用人になってお嬢様が泣いているのを見たことがない。
感動超大作と言われる映画を一緒に見たときだったお嬢様は一粒の涙もこぼさなかった。号泣してしまった私は、お嬢様の涙腺が壊れているのではないかと疑ったくらいだ。
画集に感動していたのか、私の見間違いなのか、なんだか胸の辺りがザワザワして気持ち悪い。
しばらくして部屋から出てきたお嬢様に涙の跡は見えなかった。質問をしようかとも思ったけれどなんとなく聞きづらい。
そのまま何も話すことなく静かな夕食がはじまった。
食事中、あまり会話をすることはないけれど、こんなに重苦しい雰囲気の食事ははじめてかもしれない。
食事を終えてもお嬢様は部屋には戻らず、リビングのソファーでくつろいでいた。くつろいでいるはずなのに、空気がどこか張り詰めている。
私は黙々と夕食の片づけをした。
「紗雪、ちょっと話があるの」
片付けを終えた頃を見計らったかのようにお嬢様が私を呼んだ。私はお嬢様の前に立つ。
「ここに座って」
お嬢様はそう言うと自分が座っているソファーの横を示した。広いソファーだから並んで座るのはまったく問題がない。実際に映画を見るときなどはそうして横に並んで座ったことはある。だけど今日は少しだけ気まずい感じがした。
「早く」
お嬢様に急かされてしまったので、私は仕方なくソファーの端にちょこんと座った。
なんだか先生に怒られている子どものような気持ちになる。年齢は私の方がずっと上だけど、お嬢様が主で私が従なのだからこれも致し方ない。
「いままでありがとう」
お嬢様が静かに言った。
「へ? いえ……」
私は返事をしながらも意味が分からず首を傾げる。
「契約は私が短大を卒業するまでだったけど、今日で契約終了よ」
「え? は? そんな、突然」
「違約金は支払うから安心して。それから次に住むところが決まるまではここにいていいから」
お嬢様は淡々と契約の終了を告げる。あまりに突然過ぎて考えがまとまらない。
「解約については、改めて書面で渡すからサインをしておいて。話は以上よ」
「あ、いえ、ちょっと待ってください」
「何か質問?」
「えっと、どうして急に?」
「実家に戻ることになったの」
お嬢様は表情を変えることなく淡々と言う。その表情は実家のパーティーのときに垣間見た仮面によく似ていた。
「どうして?」
「どうしてって、家に戻るのは普通のことでしょう?」
そう言われてしまえばその通りだ。中学生になったばかりの子どもが一人暮らしをしていたことの方が異常なのだ。だけどそうしなければいけない理由があったはずだ。
「でも……こんな急に。納得できません」
食い下がる私にお嬢様はため息をつく。
「結婚することになったのよ」
「け、こん?」
「正式には高校を卒業してからになると思うけど」
「え? そんな話、いつの間に……」
「この間実家に呼ばれたでしょう? あのときが顔合わせだったの」
「そんな、一度会っただけの人と?」
お嬢様が「好きな人と自分の意思で一緒にいられるっていいわね」と言った理由をようやく理解した。私はただ恋愛に憧れを持っているだけだと思って軽く応えてしまった。後悔しても遅いけれど、もっとちゃんと話を聞けばよかった。
「面倒なだけだから別に会わなくてもよかったんだけど」
お嬢様は投げやりに言った。きっと政略結婚というものなのだと思う。庶民にはわからない世界だ。それでも相手がいい人ならば……、お嬢様が幸せになれるのであれば、せめてもの救いになるだろうか。
「お、お相手はどんな方なんですか?」
「あんまり覚ええないけど……どこかの会社の三男坊で、確か三十五歳とかだったかな?」
「オッサンじゃないですか!」
思わず叫ぶと、お嬢様はクスクスと笑った。
「紗雪の方が年上でしょう?」
「う……それは、そうですけど……」
「知ってる? この国の法律はどんなに愛し合っていても同性だと結婚できないのに、どんなに嫌でも異性となら結婚できるのよ」
「お嬢様……」
「紗雪がそんな顔しなくてもいいのよ。仕方のないことなんだから」
お嬢様は手を伸ばして私の頬をつねると、またクスクスと笑った。その笑い声が胸に突き刺さる。
「でも、どうして……」
「私にはそれくらいしか利用価値がないからでしょう?」
お嬢様は平然と言う。それが何よりも悲しい。
「まだ高校生なのに」
「それは私も計算外だったかなぁ」
そう言うとお嬢様はグーっと背伸びをした。
「成人するまで逃げ切れば、自力で何とかできると思ったんだけど、向こうもそれを読んでたんでしょうね」
私はお嬢様に体を寄せてその手を掴んだ。
「じゃあ、逃げましょう!」
「何を言ってるの?」
「私と今すぐ逃げましょう」
「そんなことできるわけないでしょう?」
「本当は嫌なんですよね? 実家に戻るのも、結婚も」
「嫌に決まっているでしょう。でも仕方ないのよ」
「そんなことありません! 一緒に逃げましょう」
お嬢様はしばらく私の顔を見つめたあと、スッと手を引いた。
「馬鹿じゃないの。それじゃまるでプロポーズみたいじゃない」
そうして顔を背けてしまう。そう言われて思わず顔が赤くなる。確かにプロポーズみたいだ。ただの使用人が出すぎた真似をしているのかもしれない。
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