第9話

 展示会場を出て辺りを見回したがお嬢様の姿はなかった。すでに駅の方に歩いて行ってしまったのだろう。少々焦りながら駆け足でお嬢様を追いかけた。

 やっと見つけたお嬢様に声を掛けると、お嬢様はピタリと足を止めてものすごい顔で私を睨んだ。

「遅いわよ、本当に愚図なんだから」

「すみません」

 私は素直に謝罪する。休日扱いとはいえ、お嬢様の護衛も兼ねているのに一人にしてしまったのは私の落ち度だ。

「あの、お嬢様」

 私は手に持っていた袋を差し出す。

「なに?」

 お嬢様は怪訝な顔をしながら袋を受け取った。

「脇山先生の画集です。絵は飾る場所とか保管とか難しそうですけど、画集ならいつでも眺められるかなと思って」

「紗雪が買ったの?」

「はい」

「私に?」

「はい。脇山先生にサインも書いていただきましたよ」

 私は少し自慢気に言ったのだけど、お嬢様は眉をしかめて微妙な顔をした。喜んでもらえると思ったのだけど、うれしくなかったのだろうか。

「馬鹿じゃないの、紗雪はお金を貯めなきゃいけないんでしょう」

「さすがにこれくらいは買えますよ」

「こんな無駄遣いしちゃだめじゃない」

「無駄遣いだとは思いませんけど……」

「本当に、馬鹿じゃないの」

 お嬢様はそう言って画集を抱きしめた。どうやらこの「馬鹿」は怒っているわけではなさそうだ。

「美羽ちゃん、あんまり馬鹿っていっちゃだめよ」

 突然降ってきた声に私は思わずびっくりして肩を震わせてしまった。お嬢様も驚いた様子で声の主を見る。

「あ、安曇(あずみ)先生」

 お嬢様が声の人物の名前をつぶやいた。そして私に向かって「弁護士の安曇先生よ」と教えてくれた。

 安曇先生はお嬢様が抱えている画集の袋をちらりと見た。

「……すみ枝の展示会に行ってきたの?」

「安曇先生は脇山先生のことをご存じなんですか?」

 お嬢様も知らなかったようで首を傾げながら聞く。

「まぁ、腐れ縁というか……彼女の高校時代の先輩なの」

 そう言って安曇先生は隣いいた女性を見た。シャープな印象の女性はペコリと頭を下げる。

「もしかして、こちらが友永さんですか?」

 お嬢様が聞くと、安曇先生がニコリと笑った。お嬢様の問いが正しいという意味だろう。

 しかし、お嬢様が弁護士の先生と知り合いだなんて知らなかった。長く使用人として勤めているけれど、私が知っているのは家の中のお嬢様だけだ。それがなんだか少し寂しく感じる。

「もしかしてデート中だった?」

 安曇先生が突然突拍子もないことを聞いた。

「そ、そんな訳ないでしょう! 絶対に違います!」

 お嬢様は真っ赤になりながら即座に大声で返す。安曇先生はほんの冗談のつもりだったのだろうし、そんな赤くなってまで怒ることはないのにと思ったけれど、よく考えたら親子ほど年が違うのだ。怒って否定するのも当然のことかもしれない。

 お嬢様はまだ十七歳だ。本当なら私とこうして出掛けるよりも、好きな人とデートでもしたいところだろう。そんな普通の女の子が当たり前に楽しんでいることができないお嬢様を気の毒に感じる。

「ねー日和、ひと口ちょーだいっ」

「雅も買ってくればいいじゃない」

「いやいや、ひと口でいいんだって」

 二人の女性の掛け合いが背後から聞こえて私はチラリとそちらをみた。ソフトクリームを持っている女性が「日和」でソフトクリームをねだっている女性が「雅」だろう。

 そしてじゃれ合いに夢中で進路上にいるお嬢様に気付いていないようだった。私はお嬢様の腕を咄嗟に引く。それと同時に「あ、日和」と言って雅さんが日和さんの体を引き寄せた。お蔭でぶつかるのを回避することができた。

「ごめんなさい」

 日和さんが小さく頭を下げると雅さんも頭を下げた。そして二人は寄り添って歩き去る。

 お嬢様は「危ないわね!」なんて怒るのかと思ったけれど、去っていく二人の後ろ姿をぼんやりと眺めて「あの二人、仲が良いわね」とつぶやいた。

「そうですね……」

 お嬢様のつぶやきに答えたのは、ずっと黙っていた友永さんだった。友永さんもじっと歩き去る二人の後ろ姿を眺めている。すると安曇先生はそっと友永さんに近づいて耳元に口を寄せた。

「なに? 市子もソフトクリームが欲しいの?」

「なっ、違うわよっ」

「じゃあ、一緒に食べたいの?」

「だから違うって言ってるでしょう!」

 真っ赤になって叫ぶ友永さんを安曇先生はニタニタと表現するしかない笑みを浮かべて見つめている。先ほどまでの聡明そうな表情は一気に消えてしまった。

「えっと、お嬢様もソフトクリームが……」

 安曇先生にならって私も発言しようとしたのが、お嬢様から冷たい視線とともに「馬鹿じゃないの」という言葉をもらって最後まで言い切ることができなかった。

「往来での立ち話は邪魔になるからそろそろ行くわね」

 友永さんをからかうのに満足したのか、安曇先生が聡明な表情を取り戻して言った。

「はい。それではまた」

 お嬢様が笑みを浮かべて返事をする。

「美羽ちゃん、困ったことがあったら何でも言ってね。できる限りのことはするから」

「ありがとうございます」

 そして安曇先生はお嬢様の肩にポンと手を置いて微笑むと、友永さんと一緒に私たちが来た方向に向かって歩き去った。もしかしたら脇山先生の展示会に行くのかもしれない。

「本当にあの二人って仲がいいのね」

 安曇先生と友永さんを見送りながらお嬢様がポツリと言う。そして「ソフトクリームを食べてた二人も仲が良かったし」と続けた。

 お嬢様の言葉は私に対して言っているものではないようだった。だけど私はその言葉を拾上げて返事をする。

「女性同士ですよ?」

「それが?」

「いえ……」

 どうしてそんなことを言ってしまったのか、自分でも恥ずかしくなった。

「好きな人と自分の意思で一緒にいられるっていいわね」

「……お嬢様は、好きな人がいないんですか?」

 するとお嬢様はキッと私を睨んだ。そして小さく息を付く。

「私より紗雪でしょう。もう三十七歳でしょう? 恋人はいないの?」

「ずっとお嬢様と一緒にいるのに恋人を作る時間なんてありませんよ」

「私が学校に行っている間ならデートくらいできるでしょう?」

「いや、一般的な大人はその時間に仕事をしてますからね」

「それなら……これから探さなきゃね」

「うーん、お嬢様の相手で手一杯ですからねぇ」

 するとまたお嬢様がキッと私を睨む。

「馬鹿じゃないの? 帰るわよ」

 そうしてお嬢様は大股で歩きはじめた。

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