第3話

 祖母によると呪いが始まったのは高祖父の代、大正後期のことらしい。

 江戸時代には織物問屋だった我が家は、明治に入って本格的に繊維業へ手を出した。うまく時流に乗って一族は繁栄し、高祖父の代では大屋敷を何軒も建て妾を囲うほどの分限者となっていたらしい。しかし第一次世界大戦後の恐慌を受けて経営が傾き、事業が立ち行かなくなってしまった。高祖父は事業を縮小し奢侈な生活を改める中で、芸者で浪費癖のあった妾も捨てた。妾はその心変わりを恨み「お前の血を引く娘は亭主を殺す」と呪いを吐いて首を吊った、というのがあらましだ。

 高祖父は娘を持っていなかったが、曽祖父の代で祖母が生まれた。祖母は二十歳で結婚した二年後に二十四歳の夫を心不全で亡くし、産まれたばかりの母を連れて出戻った。母は二十八歳で結婚した二年後に三十四歳の父をこれも心不全で亡くし、一歳の私を連れて出戻った。そして私も。

 住職の喘息悪化と尚隠の説得を受けて躊躇いながら入籍した二年後、住職の喘息が小康状態を続ける一方で尚隠は前触れもなく突然倒れた。即死だったこれまでと違い生き延びたのは、僧侶だからだろう。私が結婚の条件として準備した離婚届を市役所へ提出した頃、尚隠は病院のベッドで意識を取り戻していた。

 祖母と母に降り掛かった呪いを祓うために、曽祖父は菩提寺である尚隠の寺を始めとして著名な僧侶や霊能者と名のつく者を訪ねて歩いたらしい。でも彼らにできたのは、妾が掛けた呪いだと解明するところまで。あとは皆、血を引いた子孫が粛々と弔い続けるしかないと言った。その見解は、尚隠も同じだった。

――恨みが深すぎて、その先に踏み込めん。弔いを続けて恨みが少し弱まったら、経も言葉も届こうけどな。

 でもそれがいつになるのかは、誰にも分からないのだ。直系は私で最後だし、このまま私が一人で死ねば祓わなくても呪いは終わる。それでもう、いいのではないだろうか。


「よし、こんなもんかな」

 今日の持ち帰り仕事になった音源チェックを一通り終え、外したヘッドフォンを古びた座卓に置く。明日は保育が済んだらピアノの練習をして、先生達からの意見を元に合奏の構成を練り直して……頭の中で膨らんだ予定に、眉間を揉む。

 脳裏に母の姿がちらついた時、誰かがパーカーの袖を引いた。驚いてそちらを向くが、目に映るのはいつもの居間だ。古びた茶箪笥の背後に、日に焼けた襖が半開きになっている。向こうには、真っ暗な仏間。ぞわりと粟立つ肌に身を引いた時、ちがうよ、と男の子の声がした。

「だいじょうぶだよ、あやのちゃん」

「でも、なおやすくんは、だいじょうぶじゃない」

 誰もいない空間から聞こえた声に、肩で大きく息をする。思い当たるのは、「彼ら」だ。震えそうな指先を握り締め、恐怖の名残を収める。

「尚隠は、なんで大丈夫じゃないん?」

「ぼくたちのふとんを、きれいにして」

「ふたりでつこうて」

 兄弟は私の問いには答えず、あの布団に注文を出したあと沈黙した。

 ……消えた?

 しばらくしてようやく気づいた状況に長い息を吐き、乾いた喉に冷めたコーヒーを流し込む。胸が日常を取り戻したところで、携帯を掴んだ。

 三回鳴らして繋がった尚隠に今起きたことを伝えると、そうか、と少し抑えた声で受け入れる。

「大丈夫じゃないのって、なんでなん?」

 尋ねた私に、尚隠は沈黙を選ぶ。問い質すように呼ぶと、溜め息が応えた。

「結婚しとった時の呪いが、まだ残っとるんだ。俺は、仕留め損ねた旦那だけえな」

 明かされた事実に、視線が揺れる。離婚すれば、許されるのではなかったのか。私は、まだ傷つけるのか。

 座卓の上に並べた資料が、視界で滲む。

「ごめん、また私の」

「違う、文乃のせいじゃない。俺だ。分かっとっても、それでも」

 久しぶりに聞く熱っぽい声に目を閉じると、涙が頬を伝う。

 でもやっぱり、尚隠だけのせいではない。私も、傍にいたかったのだ。住職になれば当然、檀家に妻帯を求められる。その隣に、自分以外の女性が座るのを見たくなかった。

「あの子らが、俺らを助けようとしてくれとるんかもしれん。布団を綺麗にせえ言うんなら、そうしよう。明日の晩、寺に来れるか」

「うん。園から直接行くわ。じゃあ、おやすみ」

 洟を啜って頷き、通話を終える。携帯を置いて残る涙を拭ったあと、思い出して仏間へ向かう。照明を点ければすぐに、かつての繁栄を伝える黒檀の仰々しい仏壇が見える。その上に並ぶ遺影の中で、知っているのは母だけだ。

 呪いが父を殺したことで、母は父の実家から死ぬまで責められ続けた。少しでも償いたいと身を粉にして働き続けた結果、脳出血を起こし三十七歳で死んだ。多分、今なら過労死だと言われるだろう。

――お母さんは、あんたがおってくれたらそれでええんよ。

 大事そうに私を抱き締めてくれる手を、忘れたことはない。優しい人だった。

 合わせていた手を下ろし、一番端に並ぶ高祖父の遺影を眺める。どうして、呪われるような捨て方をしたのか。

 昔は気にしなかったが、この年になればいろいろと察せることもある。普通なら、自分を酷い目に遭わせた高祖父を呪い殺すのが妥当だろう。でも妾は、高祖父本人ではなくこれから生まれるであろう子孫の娘達を呪った。本人を殺す呪いでは生温いと思われたのかもしれない。

 私は祖母に、祖母はおそらく曽祖父に聞いた話しか知らない。周囲も「捨てた妾の呪い」と蔑んだが、具体的にどう捨てたのかまでは知らなかった。

 一方的な話では事実と呼べないのは、毎日のように経験している。「あのこがたたいた」と言っても、先に抓っていることはいくらでもある。

「何したんか知らんけど、死んでから悔いたって遅いんよ。『次』はもう、間違えんといてな」

 輪廻転生があるのなら、高祖父もまたこの世に降りてくるのだろう。母も。

 次は幸せであることを願い、腰を上げた。



 翌日仕事を終わらせて寺へ向かうと、尚隠は法衣を着て観音堂で私を待っていた。長持を開ける前に、経を上げるらしい。尚隠の背後に座り、久しぶりの袈裟姿を眺める。響き始めた読経の太い声に、手を合わせた。

 読経を終えたあと、子供の頃のように二人で堅牢な長持へ向かう。

「なら、開けるぞ」

 尚隠は法衣の袖を払い、懐から簡素な真鍮の鍵を取り出す。年代物の錠は、しばらく格闘したあとにようやく外れた。

 固唾を呑んで見守る私の前で、尚隠は長持を開けていく。小泉八雲は十九世紀後半の人物だから、おそらく二百年以上は昔の布団だろう。きれいにするといっても、どれだけ形が残っているものか。

 文乃、と信じられないような表情で振り向いた尚隠に、傍へ行って私も覗き込む。そこにあったのは、確かにくすんで薄っぺらく潰れてはいるが、打ち直しに出せば十分に使えそうな布団だった。とてもそんな昔のものとは思えない。これくらいなら、うちの押し入れを探せばいくらでも出てくるだろう。

「観音さんの力だろうな」

「すごいね。ずうと守ってくださっとったんだ」

 尚隠は頷いて布団を取り出し、早速広げる。

「綿布団だな。ふとん屋に持ち込めば、綿足して打ち直してくれるわ」

「ただ、『二人で使うて』って言うとったんよね」

 思い出して、携帯を取り出す。読書アプリで『鳥取の蒲団のはなし』を開き、最後の方にヒントを確認した。

「神様が二人に真っ白な布団を掛けたことになっとる」

「シングル一枚、もしくは半分にして二枚作れ、て感じじゃなさそうだな」

 尚隠は長い息を吐いて頷いたあと、隣の私を見下ろす。蝋燭のぼんやりとした灯りに、昔と変わらない穏やかな笑みが浮かんだ。

「もう一回、嫁に来てくれるか」

「来るよ、何回でも。ほかのとこになんかよう行かん」

 快諾した私に、尚隠は安堵したように笑う。いつからなんて覚えていないが、気づいた時には好きだった。今更、ほかの方など向けない。

「次で終わるとええな」

「ほんにな」

 答えて笑い、法衣の肩に凭れる。ふわりと立ち上る馴染んだ香りを深くまで吸い込み、長い息を吐いた。

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