心臓酷使の夜


「ふう……」


 トイレに駆け込み、なんとか心を落ち着ける。危なかった。あのままでは落ちていたかもしれない。

 ……それにしても、なんであんなに突然咲ちゃんを意識してしまったんだ。料理から?あの横顔?最近二人の時間がなかったのに、突然できたからか?それとも、ただただ俺が咲ちゃんの横顔に惚れただけか?わからない。

 まあ、もう落ち着いた。とりあえずあんなに取り乱すことはないはずだ。


 トイレから出ると、丁度風呂が沸いたことを示す音声が鳴る。


「おーい!風呂どうする?」

「うーん、正直何も気にしないので、どの順番でもいいですよ」


 リビングにいたのはゆずちゃんだけで、特に順番にこだわりはない様子だ。

 どうしたものか、と考えていると、上の階から、どたどたとひまりと咲ちゃんが降りてくる。


「お兄ちゃんは最後ね!」

「すいません、私たちが一番最初でもいいですか?」


 うちの風呂はそこそこの広さがある。ひまりと咲ちゃんは一緒に入るのだろうか。


「ゆずちゃんはいいの?」

「私はこの前私の家でお泊り会したときに、お風呂場で咲ちゃんを独占してしまったので、決まっていたことなんです」


 いつも通りすました顔をしているように見えるが、最近は細かい表情変化がわかるようになったからわかる。めちゃくちゃ悔しがっている。


「まあ、決まっていたことなら早く入ってくるといい。体冷やすなよ?」

「わかってるって!ガールズトークで体を温めてくるよ!」


 嬉しそうにひまりは風呂場に向かっていく。咲ちゃんははにかみながら「ありがとうございます」と言ってその背中を追いかけていた。



 ●●●



 「なんか落ち着かないな」


 ゆずちゃんも入り終わり、俺が最後の風呂。……なのだが、不思議と落ち着かない。明らかにいつもと匂いが違うからか。

 俺と、ひまりのシャンプーの匂いには慣れているが、明らかにそれ以外……主にゆずちゃんのシャンプーやらリンスやらの匂いが目立つ。


「体を温めたらすぐ出よ……」


 風呂を出て、体を拭く。洗濯カゴにはいつもよりも多いバスタオル。下着類や、来ていた制服は自分で持って返ってもらうが、流石にかさばるバスタオルはもってこいとは言えなかった。……洗濯物を干すスペースはあるだろうか。


「上がりましたか?」


 リビングに行くと、まだほんの少し髪が濡れているゆずちゃんがいた。

 すわっていたソファーから立ち上がり、目の前に来る。


「ぬるくはなっていませんでしたか?私が少し長く入ってしまったので、冷めていたのなら申し訳ないです」


 申し訳無さそうな顔で頭を下げられる。

 その瞬間、ふわりと髪が舞い、さっき風呂場に漂っていた匂いが鼻を刺激した。

 鼓動が早くなる。何なのだろう、この気持ち。ときめき、というやつだろうか。

 ともかく、この気持ちは長くあってはいけないものだ。そう思い、深呼吸をする。しかしそれは悪手で、更にそのにおいを吸い込んでいまい、変に女の子というのを意識してしまう。


「ちょ、ちょっと離れて!」


 焦った様な声が出る。すると、ぽかんとした表情になった後、いつものぴしゃんとした態度からは想像もできないくらい小悪魔な笑みを浮かべた。


「もしかして、意識しちゃいましたか?」

「そ、そんなことはないから!」

「……私のお婿さんになっちゃいますか?」


 からかうようにそう言って、くすくす笑った。

 ……これが令嬢か?まるで惑わすようなことばかり言っているが。そう疑問に思うと、即座に「こんなこと、和人さんにしか言わないので問題ないんです」と言ってくる。そういう問題なのだろうか

 

 どうしたものか、と考えていると、突然見覚えのある着物を渡される。


「はい。この前いらっしゃったときの紬です。これに着替えましょう?咲さんとひまりさんにも渡して、今着替えているはずですから」


 その顔には、さっきまでの表情は消え失せており、すっかりいつも通りに接していた。……ように見えるが、よく見ると、耳が赤くなっている。


「ねえ、さっきのって……」

「さっきのってなんです?」

「小悪魔ゆずちゃん」

「それは忘れて下さいっ!」


 目をそらしたゆずちゃんに追い打ちをかけると、真っ赤になった顔でぐいぐい押された。やっぱり、やったはいいけど恥ずかしくなってたな?かわいいやつめ。


「とっとと着替えてきて下さい!」

「はいはい」


 部屋に戻り、いつものパジャマを脱ぎ、このまえの着流しで階下に降りる。


「おお、遅かったねえ、お兄ちゃん」


 既にひまりと咲ちゃんも降りてきており、目立たない程度の柄が入った小袖を着ていた。この前と違い、少し家の温度が高いからか、二人共……というか、ゆずちゃん含め三人とも、羽織は着ていない。


「カレー温めてるんですけど、大丈夫でした?」


 カレー鍋の前で立っている咲ちゃんがニコニコしながら聞いてくる。手伝ってもらえる分にはありがたい限りだ。

 

「ゆずちゃん、どれくらい食べる?」

「ひまりさんと同じくらいでお願いします。くれぐれも、咲さんと同じ量にはしないように頼みますね」


 少し必死な様子で話すゆずちゃん。この様子を見る限り、食べる量を咲ちゃんに合わせて痛い目あったことあるパターンだな?


 全員分の皿を盛り終わり、ダイニングテーブルに四人でつく。咲ちゃんの隣りに座ったひまりの頬が引きつって見えるのは気のせいだろう。


「いただきます!」


 全員で合掌し、食べ始める。


「美味しいですね。なんだか、暖かい味がします」


 普段もっと美味しい料理を食べているはずのゆずちゃんは、目を輝かせながら食べる。


「本当においしーね。久しぶりにカレー食べたかも」


 具合悪そうにしているひまりに笑顔で咲ちゃんは語りかける。


「ちょ、ストップ。見てるだけでお腹いっぱいになってくる量って、一体何!?」


 ひまりは不幸にも大盛りのカレーをとんでもない勢い食べている咲ちゃんを見て、胃がとんでもないことになっているようだ。

 お代わりしてもいいですか?と聞いてくるので、良いよ、と答えたら、ひまりからとんでもない目で睨みつけられた。すまん。


「……お兄ちゃん、恨むから」


 妹からの怨嗟の声は無視して、黙々と食べる。うん。カレーは美味しいなあ!


「久しぶりにお腹いっぱい食べられるかも!」


 どん、とこの家にある中で一番大きな皿に溢れんばかりに盛られたカレーが来る。

 ……あ、ひまりの顔が面白いことになってる。


 カレーを綺麗に食べ終わり、カレーの鍋を洗ってしまえば、後は何をしても良い。


「なにする?」

「三人とも宿題はどうなんだ?」

「一年生は二日あれば終わる量ですね」

「私は頑張れば一日で終わると思う」

「早すぎじゃないですか!?私は一週間はかかります。頑張れば二日でできますけど」


 軽い顔で咲ちゃんとひまりが言うのを、明らかにおかしいものを見る目でゆずちゃんが見つめる。なんでも答えなしの冊子一冊らしい。そこそこの難易度かつ、正答率が一定以下なら補講があるらしく、そんな短時間で終わらせられるのは化け物であると言えるらしい。


 ちなみに、去年はもうちょっと難易度が低かったし、答えも配られていたし、補講とかもなかった。やはり、今年の生徒は期待されているのだろう。


「お兄ちゃんは?宿題」

「二年は宿題出てないなあ」


 二年からは進路に向けて自由に学習しよう、というスタイルで、特に宿題は出ない。もちろん三年生もであるので、生徒会のメンバーは全員宿題なしのはずだ。

 ……ただ、例外として、斗真はテストの点数が芳しくないので、数枚プリントがあるらしいが。


「まあ、つまりみんな今から宿題しないといけないくらい逼迫はしてないってことだね!またトランプやろ!」


 ひまりがテンション高めにトランプを取り出し、ゆずちゃんが露骨にビクッと反応する。……この前、負けまくってたからなあ。


「良いでしょう。受けて立ちます!」



 ●●●



 暫くトランプをして、十時を回ったくらいから、ゆずちゃんがうとうとし始める。


「そろそろ寝ようか」


 そう提案すると、全員同意の声をあげる。

 歯磨きをして、食べたお菓子を片付ける。


 部屋割りはどうするのかな、と思っていると、ゆずちゃんと咲ちゃんはひまりのベッドで、俺とひまりがいつもの俺のベッドで寝ることになっていたらしい。


「さ!寝よ!」


 まるで自分の部屋かのごとく、すぐにベッドに入り込むひまり。

 俺もすぐそれに続き布団に入る。他の同世代の兄妹なら殆ど無い様な状況だろうが、起きたときに布団の中にひまりがいることも珍しくない俺は、完全に慣れていた。

 ひまりはと言えば、のんきにこっちに背を向けて、鼻歌を歌っている。

 ……すこし、いつもの仕返しをしてみるか。いっつも、俺が起きたら抱きついてきてるしな。

 俺はゆっくり、ひまりに抱きつくように手を回した。いわば、妹抱きまくらだ。


「ひゃ!……んぅ……お兄ちゃん……!?」

「え?」


 ひまりは、想像もしなかった声をあげる。耳を真っ赤にして、弱々しい声で、「お兄ちゃん?」と不思議そうな声で聞いてくるのだ。

 こんな反応は想定していなかった。なんだか変にこの暖かい体温と、小さな体格が愛おしく思えてきて……焦って体を離した。

 俺は妹にどんな感情を持ってるんだ!心臓!静まってくれ!今日は酷使してすまん!

 顔が真っ赤になっているような気がして、俺もひまりの背に背を向け、背中合わせの状態で寝る。


「……ねえ、お兄ちゃん?」

「な、なんだ?」

「……良いよ?ぎゅっとしてくれても」


 明確な好意の言葉。

 ひまりは妹のはず。なのに、なんで咲ちゃんやゆずちゃんに言われた時と同じように、胸が早鐘を打っているのだろう。


 断るのも癪だったので、さっきと同じ姿勢で寝に入る。手を回した瞬間、「えへへ」と、小さく恥ずかしそうに笑って、ひまりは目を閉じてしまう。

 なんだよ!「えへへ」って!胸が更に高まってしまい、ひまりに伝わってないか心配になるほどだ。


「眠れない……」

 

 一応目を閉じてみるが、変に目が冴えて眠れない。

 普段嗅ぎ慣れたひまりの匂いが、いつも以上に近い位置であることでより濃く感じる。


「落ち着けないー!」


 悪い気分じゃないが、寝不足にはなってしまいそうだった。

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