あなたの笑顔を見せて


 ひまりは実妹ではない。

 とは言っても、特にうちだけの複雑な事情があるわけではない。片親ずつ連れ子がいて、家族になっただけに過ぎない。

 俺の実母は、それはそれは素晴らしい人であったらしい。立派で、父を常に支えていたと皆は言う。俺の記憶にかすかに残る背中は、写真で見るよりずっと大きく見えた。

 ひまりの実父は、俺の父と親友だったそうだ。優しそうな瞳で、まだ子供のひまりを抱いた写真がある。父とは高校からの付き合いで、同じ会社に勤務していたこともあり、俺も会ったことがあると言っていた。


 なんの因果か、俺の実母と、ひまりの実父は、同時期に病に伏せた。ひまりの実父は、がんだったそうだ。そして、俺の実母は、生まれつき心臓が悪いのがひどくなった。

 父は大きく動揺した。突然親友と妻が入院、それも医者から望みは薄いと言われたのだから。しばらくの間、それをごまかすため、また治療費を稼ぐため、父は仕事に没頭した。

 その間、俺は遊ぶ人がいなくなった。まだ小さかった俺は遊び盛りの年齢で、我慢という言葉を知らなかったのだ。

 そんな時、遊び相手になったのが、ひまりだった。

 ひまりの実父は、職場恋愛で今の母と結婚していたため、父とひまりの実父、そして母は同じ職場だった。そして、俺の父が働きづめになっているのと同じように、母も働き詰めになったのだ。その間、例のごとく遊び盛りのひまりはわがままを言う。そこで、俺とひまりはちょうどよかったのだ。


 俺とひまりは、あまり面識がなかった。父とひまりの実父が親友であったとは言え、そう毎回遊びにきていたわけではなかったし、当時ひまりは家の中で遊ぶのが好きな控えめな子で、外で遊ぶ俺とは、あまり合わなかったのだ。

 しかし、それは遊ぶ環境があってこそ。俺は結局ひまりしか遊び相手がいないので、ひまりと遊び始めた。子供同士らしく、遊びをともにすれば、すぐに仲良くなっていった。

 ひまりは天真爛漫で、実母が入院し、ぴりぴりした心を唯一癒やしてくれる存在だった。父も少し不機嫌であったこの時、一番素でいられたのは、ひまりの前でだけだった。「和人さん」と慕ってくれる年下の女の子が、大切な存在になった。


 なんだかんだ、俺とひまりの平和な世界は大人たちをも癒やしていたのだが、結局その日々はそう長く続かなかった。

 先にひまりの実父が亡くなった。そして、すぐに俺の実母も亡くなった。


 父と母の悲しみはとてつもないほどだった。定かではない記憶も多い中で、二人が俺の家に集まり、昼間から酒盛りをして慟哭しているのを見て、俺もひまりもなんとなく気がついたのだ。ああ、俺の実母も、ひまりの実父も、もういないんだと。

 結局、泣き続ける親に甘えるのは憚られ、俺たちは二人で寄り添って静かに泣いた。


 翌日からは、目まぐるしく日々は進む。葬式の準備やらなにやら。相互に出席するため、葬式の日をずらしたりもしたらしい。お金もあまりなく、通夜もせず、身内だけで小さな葬式をすることになった。葬式で見た実母の顔は、物凄く小さく見えた。

 子供とはかなり薄情なもので、葬式のときには、俺もひまりも、親の死を受け入れつつあった。実際、きっと俺たちよりも、母や父のほうが涙していた。焼かれるときも、同じだった。ただ、ひまりは心から笑わなくなった。


 その後である。遺書の整理をしていると、実母、そしてひまりの実父、どちらも死んだときにのみ開けてほしいと書いてある遺書があった。開けた結果、連名で、再婚は二人に任せる。ただ、自分たちは、父と母が結婚してくれると嬉しいかもしれない。と書かれていた。


 二人が望んていたなら、と、父と母は結婚した。俺は新しい母ができた喜びよりも、ひまりと家族になれたことを喜んだ。ひまりも同じだった。

 ただ、二人の悲しみは終わらなかった。二人共、仕事以外に無気力になってしまったのだ。もちろん、ご飯は作ってくれたし、表面上、何も変わらないように見えたが、その真ん中には、深い悲しみが見え隠れしていた。


 ひまりと俺は退屈だった。俺はひまりを見ていれば幸せだったのに、退屈になった。理由はわかりきっていた。ひまりが心から笑ってくれないからだ。

 どこか陰っているように見えるひまりの表情を、なんとか晴らしてみたかった。


 俺は、ひまりを連れ、花見にでかけた。ひまりの家の直ぐ側の公園で、家からも見える位置。母も父も出掛けたくなさそうだったので、ここまでの距離。これ以上遠くは、保育園児には許されなかった。


「わあ……!これ、さくら?」

「うん。ひまり、あんまり外に出ないから知らないでしょ?」

「うん!」


 ひまりは目を輝かせた。かく言う俺も、その時見た桜は美しいと思った。何度か来たことのある場所だったが、何故か去年よりも綺麗だ、と漠然と思うほどだった。

 ひまりは久しぶりに見る笑顔で、俺の膝の上に乗ってニコニコしていた。なにか遊ぼうかと思って持ってきたおもちゃもリュックから出さず、ただただ二人で桜とお互いを見つめ続けていた。


 ひまりが戻ってきてくれた、と思った俺は、夕方に家に帰った。それまでニコニコとしていたひまりは、両親を見た途端、また陰り始めた。


「和人さん、はやくおへやにいこ?」

「うん」


 ひまりはあまりリビングに居るのは好きじゃないみたいだった。

 そこから一年経って、俺は小学生になった。友達はいなかった。学校が終わるとすぐに家に帰っていたからだ。ひまりはいつも一人になった。だから、寂しそうだったひまりと遊んでやるのが何より大切だったのだ。丁度桜の季節だった。


「ねえ、和人さん。……おはなみ、またいきましょう」

 

 珍しくひまりが外を見ながらそう言った。少し遅かったけど、街灯はあるし、両親は遅くなると言っていたので、すぐに外に出た。

 去年と同じく、俺の膝の上に乗って、ただただ眺める時間。


「和人さん、無理してるみたいです」


 ひまりはつぶやくように言った。驚いて顔を覗き込むと、ひまりは泣きそうになりながら、言葉を吐き出していた。


「わたしはいいから、無理しないで……」


 ひまりは泣き出した。去年のような笑顔が見られると思っていた俺は大いに狼狽した。それとともに、なんとしてでもあの笑顔が見たいというわがままが顔を出した。

 彼女の笑顔だけを見ていたい。その気持ちに名前をつける。


「俺はお兄ちゃんだ。ひまりは妹。俺はひまりをあいしてる。だから……お兄ちゃんにあまえてくれ。何も気にしなくていい」


 ひまりはぽかんとした顔をした。

 これまでは、あくまでひまりとはお友達に過ぎなかった。しかし、これからは家族になろう。なりたいんだ。と、独占欲にも似た感情は結論づけた。

 兄になれば、きっとひまりは俺に甘えてくれる。それに、ずっと一緒にいられる。それだけが、俺にとって大切なことだった。


「おにい、ちゃん?」


 ひまりはゆっくりと復唱した。そうしてハッとした表情で、また去年の様な笑顔をみせて、


「お兄ちゃん!」


 と抱きついてきた。

 俺はその頬にキスを落とし、ひまりが落ち着くまでずっと頭を撫でていた。


 結局その日は両親が帰ってくるまで外で桜を見ていた。帰ってきた両親は、遅くまで外で何をやっていたのか、と怒ったが、その表情には今までとは違う、決定的な変化があったように思う。

 きっと二人は二人になりに変わらないといけないと思っていたのだろうし、俺たちの変化にも気がついていたからかもしれない。


 母も父も、談笑するようになった。冷たいご飯が暖かくなった。だんだん笑顔が増えていった。ひまりがリビングに居るようになった。父が俺に妹を守るように言うようになった。そのすべてが俺にとって幸せなことだった。

 

 ただ、ひまりは想像以上に甘えんぼでいつもニコニコしながら俺と一緒にいるようになった。ひまりの部屋からは物が減っていき、俺の部屋のものが増えた。何故か自分のベッドではなく、俺のベッドで寝ようとする、今まで母と入っていた入浴は、俺と一緒に入るようになった。

 少し面倒だな、とは思ったこともあるけど、ひまりの笑顔を見れば、それも吹き飛んだ。

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