愛を知らぬまま身を投げます。悲恋の湖に。

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愛を知らぬまま身を投げます。悲恋の湖に。

 はるか遠くに見えるお城から、黒い煙が何本も上がっています。

 さすがに音までは聞こえてきませんが、きっと城内、そして都は阿鼻叫喚に満ちていることでしょう。

 でも私は、そんな喧騒とはかけ離れた曇り空の森の中で、冷え切った心を抱え座っています。

 目の前にある湖はどんよりと淀んでいて、少し手を伸ばしてみれば異常なほどに水温が低いことが分かります。

 悲恋湖ひれんこ

 それがこの湖に付けられた名前です。

 悲恋という名がついたのが先か、それとも恋に絶望した者がここへ身を投げるようになったのが先かは分かりませんが、ともかくこの湖は悲しみや寂しさ、恨みや憎しみ、あるいは絶望を抱えて身を投げる場所なのです。

 そして私――アリス・レンドンドも、この場所へ身投げにやってきたのでした。


 事の始まりは3日前へと遡ります。

 第一王子の婚約者、未来の王妃だった私は、第一王子のアンカレー殿下からこう告げられたのです。


「アリス。君には失望した。浪費癖、不貞、侍女の虐待。これらは未来の王妃に全くふさわしくない。君との婚約は破棄させてもらう」


 私は必死に説明しました。

 お城の金を浪費したことも、アンカレー殿下以外の方と関係を持ったことも、侍女の誰かを虐待したこともないと。

 私は何一つ嘘をつくことなく、必死に弁明しました。

 しかし、アンカレー殿下はまるで聞き入れてくれませんでした。

 それもそのはず。アンカレー殿下にも、これらの罪状が嘘であると分かっていたのです。

 全てはアンカレー殿下が新たに愛するようになった女性、私が虐待していたという侍女のメリダと一緒になるための策略でした。


 私はお城を追い出されました。

 その時たまたま持っていたわずかな額のお金。そして着ていた服。

 これだけが私に残りました。

 そしてお城を出た後、ひょんなことから私は知ったのです。

 メリダが敵国のスパイであったこと。

 第一王子という権力者であるアンカレー殿下をたぶらかすために、ありとあらゆる色仕掛けを使っていたこと。

 そして私の婚約破棄を合図に、城内からも城外からも敵国の攻撃が始まったこと。

 アンカレー殿下は皮肉にもメリダと同衾中に彼女の手で刺殺され、あっけなく命を散らしたこと。


 今となって思えば、婚約者を裏切った第一王子に対する当然の報いだったのかもしれません。

 でも私は、心の底からアンカレー殿下を愛して疑っていなかったのです。

 婚約破棄により愛する人から拒絶され、その直後、まだ気持ちの整理がついていないうちに愛する人が殺された。

 今では「当然の報いだ。ざまあみろ」と思えますが、愛に絶望した傷が消えるわけではありません。

 私はもう、恋に疲れたのです。

 愛に疲れたのです。

 生に疲れたのです。

 だから何も抱えぬまま身を投げます。悲恋の湖に。


 ふと、後ろからガサガサと足音が聞こえてきました。

 振り返ってみれば、美しい顔立ちをした男性がこちらへ歩いてきています。

 向こうも私に気付き、そして一瞬戸惑った後、私の隣に腰を下ろしました。

 美しい銀髪も、真っ白な肌も、すらりと長い指も大変に目を惹きます。

 きっとこの銀髪は、太陽の光を浴びれば綺麗に輝くのでしょう。

 今日はあいにくの曇り空ですが。


 しかし何よりも美しいのは、サファイアブルーの瞳でした。

 吸い込まれそうな、全てを見透かされてしまいそうな、そんな碧眼です。

 でもサファイアと大きく異なるのは、まるで輝きを放っていないことでした。


 ああ、きっとこの方もここへ身投げに来たんだ。


 そう、私は確信しました。



「怖く……ありませんか?」


 男性は湖面を見つめながら、静かに私へ問いかけました。

 思いのほか低い声をしています。

 すっと入ってくる聞きやすい声です。


「怖い……なんて考えていませんでした。いつ身を投げよう、どう身を投げよう。そんなことで頭がいっぱいで」

「そうでしたか。私は怖いです。もし良ければですが、あなたが身を投げる時にご一緒してもいいですか?」

「構いませんよ」


 1人で身を投げようと2人で身を投げようと一緒です。

 暗く冷たい湖の底へと、絶望のままに沈んでいく。それだけなのですから。


「失礼ですが、お名前をお伺いしても?」

「ああ、私はエルト・フィオリーといいます。あなたは?」

「アリス・レンドンドです」

「はて。私が知っているアリス・レンドンド様は、第一王子であられるアンカレー殿下の婚約者様なのですが」

「“元”婚約者です。将来の国王と順風満帆な恋人生活を送っていたら、こんな薄暗くて寂しい場所へは来ませんもの」


 私は、どうせ自分もこの方も死ぬのだからと、直近で王宮に起きたことを洗いざらい話しました。

 どうして彼が私を知っていたのかといえば、彼自身もとある小貴族家の次男なのだそうです。

 私が存じ上げなかったことを詫びると、彼はむしろ恐縮してしまったようでした。


「それでエルト様はどうしてここへ?」


 我ながらぶしつけな質問だとは思います。

 でもどういうわけか、私は無性にこの方の話を聞きたいと思ってしまいました。

 彼が私の話を丁寧に聞いてくれたからかもしれません。


「アリス様と同じようなものです。私にも婚約者がいました。とても美しく、そして純粋な娘でした。でも、それは私の見誤りだったようです。彼女は兄と不貞を働き、挙句の果てには私を悪者にして婚約を破棄しようとしました」

「まあ……。本当にどこかで聞いたような話ですね」

「ええ。あいにく、兄に比べて私は出来が良くなかったのです。ですから両親も、私より兄の方を信じました。私は婚約者を失い、不貞によって家の名誉を傷つけたと追い出されました」

「それでこの場所へ……」

「はい。もう疲れたんです。恋することにも、愛することにも、そして生きることにも」


 私は黙って頷きました。

 最後の彼の言葉が、まるで自分の言葉のように頭に響きます。


「どうしましょう。お互いの事情も分かったところで、身を投げますか?」


 私が尋ねると、エルト様はしばし逡巡してから答えました。


「もう少しだけ、こうしていてもいいですか? そうだ。身を投げるのは、次の太陽が顔を出した時ということでどうでしょう?」

「ずいぶんと曖昧な基準ですこと。構いませんよ」


 私は少し笑って答えました。

 いえ、きっと彼には私が笑ったことなど伝わらないと思います。

 もうすでに死んでいるかのように、表情筋はまるで動きません。

 だから作ろうとしても笑顔は作れません。

 きっとこれはエルト様も同じで、これまでの会話のなかで彼の表情はまるで変りませんでした。


 私たちはよく似ている。


 そう思います。

 彼が横にいると、まるで私の分身が隣にいるかのようなのです。

 もう少し彼と話していれば。もう少し彼を見つめていれば。

 実のところまだ終わりきっていない気持ちの整理が片付いて、何も感じずに死ねるのではないかと思いました。


「できることなら、自ら相手を見つけて恋がしたかった……」


 小さくエルト様が呟きました。

 本当にこの方は私の分身のようです。私もそのことを思っていたのですから。

 あるいはあのサファイアブルーの瞳が、私の心の奥深くを見透かしているのではないか。

 そう思ってしまう程に、彼の語る言葉は私の心と一致していました。


「私もそう思います。与えられた相手とはいえ、私は心から愛していました。でも与えられた相手なんです」

「分かります。私の婚約者も両親が決めた相手だった。もちろん、愛していました。でも今となって振り返ってみれば、こう自問したくなるんです。私は彼女を愛したくて愛していたのか、それとも愛そうとして愛していたのかと」

「愛そうとして愛していた……」

「言い換えるなら、与えられたのだから愛さなくてはいけないという義務感から愛していたんじゃないか。そんな風に思うことがあったんです。でもやっぱり愛していたことには変わりはなくて。何も分からなくなった途端、愛ってこんなに疲れるものなのかと思ったんです」


 アンカレー殿下と私の婚約も、私の意志で決められたものではありませんでした。

 振り返ってみれば、婚約した当初はとても恋などしていなかったと思います。

 この婚約を成立させなければ、家に迷惑がかかる。決して失敗はできない。

 そんな考えだけが、私の頭の中を満たしていた気がします。

 ひょっとして、私もそんな義務感からアンカレー殿下を愛していたのではないか。

 そうだったとしたら、それは本当の愛だったのだろうか。


 私が心からの愛だと信じて疑わなかったものが、音を立てて崩れていくように感じました。

 でもそれと同時に、不思議なことなのですが、心の中で引っかかっていたものがすーっと流れていくように感じるのです。

 そしてまた、新たな後悔も生まれるのでした。


 本当の愛って何なんだろう。

 本当の愛があるなら、どれだけ素敵なものなのか知りたい。


 エルト様は、美しいそのお顔で私を見つめています。

 この方は、この短時間で私がまるで気付かなかったことに気付かせてくれた。

 ひょっとしてこの方なら、本当の愛すら教えてくれるのではないか。

 もちろん、今の彼が本当の愛が何かなど知らないことは分かっています。

 でも彼と一緒にいるうちにそれを見つけられる。

 そんな気がしてならないのです。

 でも。でも。でも。でも。でも。


 私にはもう気力が残っていないのです。


 また新しくエルト様を知り、エルト様に恋をし、エルト様を愛し、エルト様と一緒に生きていく。

 人生をまた新しく始める気力が、アリス・レンドンドには残されていないのです。


「もっと早くエルト様に出会えていれば……」


 つい、口をついて出てしまいました。

 でもエルト様は驚くようでも、ましてや気持ち悪く思うようでもなく頷いてくれました。


「私もそう思います。もしかしてあなたとなら……」


 エルト様がわずかに微笑みました。

 初めて表情が変わった。ひょっとしたら、私も今は微かに笑えているのかもしれません。

 私を見つめるエルト様の銀髪が、きらきらと輝いています。

 太陽の光が、雲の切れ間から私たちへと射し込んでいました。


「出て来ましたね、陽の光が」

「そうですね」


 エルト様が立ち上がり、私に手を差しだします。

 私はその手を取って、共に湖の際まで歩きました。


「この湖がどうして悲恋湖と呼ばれるか、アリス様はご存じですか?」

「いえ……。エルト様はご存じなのですか?」

「昔、愛を誓い合った若い男女がいたそうです。でも彼らの両親が結婚に猛反対し、2人の恋の邪魔をした。2人は駆け落ちして、この湖のほとりまでやってきたのです。しかし追手に追い詰められ、この湖に身を投げました。今度は2人が誰にも邪魔されず、純粋に愛し合える世界に生まれ変わりたいと願って」

「それが……悲恋湖の由来なのですね」

「そうです。いつしかここでは、恋に絶望した人々が1人で身を投げるようになりました。でも私たちは2人で身を投げる。どうでしょう、ここはひとつ願ってみませんか?」


 エルト様は私の手を優しく握ったまま、まっすぐにこちらを見つめました。


「私はあなたとなら、本当の愛を知れた気がする。でも今の心が死んだエルト・フィオリーにはその気力がない。だから私とあなたが、別の世界へ生まれ変わって純粋なままで会えるようにと」


 断る理由がどこにあるのでしょう。

 嫌だと言う理由がどこにあるのでしょう。

 私は頭1つ大きなエルト様の顔を見上げ、ゆっくりと頷きました。


「願いましょう」

「良かった」


 エルト様は再び微笑むと、縄を取り出しました。

 そして足元にあった大きな石をしばり、自らの腰にくくりつけます。

 私たち2人を湖の底へと沈め、そしてひょっとしたら新たな世界へと導くかもしれない石です。


「準備はいいですか?」

「とっくにできています」


 まるで怖いと言っていたのが嘘のように、エルト様が湖へと踏み出します。

 彼と手を繋いだまま、私も足を水に浸しました。

 不思議なことに、水の冷たさは感じません。

 でも陽光の温かさも感じない。

 やはり私の心は冷たいままなのです。

 でも初めより晴れやかなのは、隣にいるエルト様のおかげです。


 2人の足首が、膝が、腰が。

 徐々に徐々に水深が深くなり、体が水に浸かっていきます。


 ふと、私は足を滑らせました。

 急に水が深くなったのです。

 バランスを崩した私は頭まで水に覆われます。

 そんな私を、エルト様はそっと抱きしめてくれました。

 重りがついているのは彼です。

 私もエルト様の肩に手を回し、2人は湖の底へと沈んでいきます。

 水の冷たさは相変わらず感じません。

 手足の感覚も、もうありません。

 でも沈みゆくなかでエルト様を見つめると、ほんの少しだけ胸のあたりが温かいような気がします。


 温かい。

 周りは暗くなっていく。

 意識も朦朧としてくる。

 でも温かい。温かい。温かい。


 この温かさは一体……








 何なのでしょう?












 ※ ※ ※ ※


 日本。東京のとある都立高校。

 俺――如月きさらぎ恵流人えるとは、校門の前で彼女を待っていた。

 冷たい風が吹く12月の曇天。

 背後から肩を叩かれて振り返れば、そこには美野みの有栖ありすが立っている。


「お待たせ~。帰ろっ」

「おう」


 有栖と手を繋いで、帰り路を歩き始める。

 彼女の手はとても温かい。

 少し歩いたところで、ふと有栖が口を開いた。


「ねえねえ、恵流人」

「何?」

「本当の愛って何だと思う?」

「……え?」


 本当の愛……。本当の愛……。

 急に聞かれても、的確な答えなんて出せるはずがない。


「何で急に?」

「今日、授業でやったんだよ。『美野さん、本当の愛って何だと思いますか?』って聞かれたの」


 有栖が現代文の教師の口真似をして言う。

 唐突に聞いてきたと思ったら、そういう理由があったのか。


「それで有栖はなんて答えたんだ?」

「分かりませんって言った。高校生にそんなの分かるわけないじゃん」

「確かにな」

「でもね、その後にちょっと思ったの。恵流人とずっと一緒にいたら、いつか分かるんじゃないかって。だって愛って好きってことでしょ?」

「まあ、似たようなものなんじゃないか? 俺にも分からないけど」

「だったらきっといつか分かるよ。私、恵流人のこと大好きだもん」

「俺も大好きだよ」

「やったー!」


 はたから見たら、ただのバカップルでしかないかもしれない。

 でも今の俺にとっては、この一瞬が幸せな時間だった。


「えへへ。こうした方がもっと暖かいでしょ」


 有栖が腕を組んで、体をぴたりと密着させてくる。

 不思議なもので、いつしか風の冷たさは感じなくなっていた。

 それに胸のあたりが温かい。

 ひょっとしてこれが愛? ……なんて言ったら、有栖にからかわれそうだな。

 だから俺は満点の笑顔で、同じく満点の笑顔を浮かべる有栖に言う。


「本当に暖かいな」

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