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 その一ヶ月後、沢村綾は研究所を辞めた。

 その件ではないだろうが、十一月の寒空を歩いて、ジョセフの指定したダイニングバーに入ると、既に三杯目のジョッキを握っていた彼が赤ら顔で手を挙げた。


「アルコールに強い方じゃないんだろう? 明日も仕事だぞ」

「わーってるってよー。けどクラベ。お前はサワムラに惚れてたんじゃないのか」


 ビールとブイヤベースを頼み、皿に残っていた冷めたピザをひと切れ摘む。


「ジョセフ。君がそうなるように仕向けていたことは分かっていたさ。ただ、そういうのじゃなくて、僕は学生時代、人間関係がどうにも苦手で、今でも苦手なんだが」

「そうかい? それにしては随分と積極的だった気がするよ」


 既に出来上がっているのだろう。水でも飲めと言ってから、倉部はやってきたビールを一口入れる。目の前に置かれたブイヤベースは美味しそうな湯気を上げていた。


「それよりクラベ。君はいつも何をメモしているんだい?」

「ああ、これか」


 ポケットから手帳を取り出す。開いてみると、何が書いてあるのか分からない。日本語だけでなく、英語にフランス語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語、それ以外にも象形文字のようなものまで混ざっている。しかも幼い頃からの癖でところどころ鏡文字になっているのだ。


「別に。考えをまとめたりする時に書きながらだと上手くいくという成功体験があってね」

「ずっと何か引っかかっていたんだが、それさ、クライオジェニアンの手紙に似てないか?」


 これから少しくらいアルコールによる酩酊をしようと考えていたのに、倉部はジョセフの言葉で急に体温が低くなったのが分かった。


「鏡文字、か。その可能性は検討していなかった」



 すぐにバーを出て消灯された研究所に戻った倉部は、一人パソコンのモニタを照らして解析された画像をじっと睨んだ。浮かび上がったのは『警告する』という言葉だった。日本語だ。


 翌日から早速、各国の研究チームが発表している解析画像を集め、それらの文字を拾い出し、書かれている文章を探る作業が行われた。文字は日本語だけではなかった。英語にフランス語、ドイツ語、ギリシャ語やラテン語まであり、それは正に倉部のメモ帳のようだった。解析をより困難にしていたのが風化だ。書かれていたであろう文字は表面に薄く傷を付けたもので、それらはX線などを使って浮かび上がらせたデータだけでは不十分で、倉部は沢村綾が残していった文字情報を補完するAIプログラムを用い、失われている部分をある程度までは復元することに成功した。

 それでも手に入る画像データの全ての解析にはおよそ一ヶ月を要した。


 研究室で年明けを祝った一週間後、慌ただしく研究成果を論文にまとめていた倉部の許を、青い顔をしたジョセフが訪れた。


「やられたよ、クラベ」


 それがクライオジェニアンの手紙に関するものだとすぐに分かり、倉部は彼が手渡したスマートフォンの小さなモニタを凝視した。映っていたのは世界的な科学雑誌のデジタル版だ。タイトルは『クライオジェニアンの手紙の内容と解析結果について』という簡素なものだったが、論文の要旨には書かれていたものが鏡文字であり、しかも日本語を中心に英語やフランス語、ドイツ語など複数の言語が混ざったもので文章が構成されていたこと判明したと書かれていた。


「どこかられた?」


 ジョセフは他の二人の研究員に目を向けたが、彼らもそれぞれ英語とドイツ語で否定し、首を横に振っただけだ。

 倉部は改めて論文の著者を見る。一人は日本人研究者の浦河亮うらかわりょうとある。ただその脇に共著者としてあの沢村綾の名が記載されていた。


「クラベ?」

「ちょっと調べてみる」


 そう言って険しい表情になると、倉部は自分のパソコンの全てのプロセスを調査した。すると常駐ソフトとして偽装しているものが見つかり、それによって倉部が書いた論文の下書きデータが別のサーバに漏洩していたことが判明した。

 色々な可能性はあったが、稼働日から逆算するとどうやら沢村綾の仕業らしい。

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