鯖寿司の解剖

如月姫蝶

鯖寿司の解剖

「あ……その……ますだ屋の鯖寿司はサイコーです!」

 僕は叫んだ。見合いの席で、声をひっくり返してシャウトしてしまった。

「あら、嬉しい。でも、ご無理なさらなくていいんですよ?」

 君は、無様な僕に引くことも無く、気さくにしてお上品に、口元に手を当てて笑ってくれたね。

 志真子しまこさん、実のところ、僕が一目でサイコーだと思ったのは、君自身のことだったんだよ。ますだ屋の鯖寿司なんかじゃなかったんだ……


 の体当たりによって、非常口は外から破られた。

「ひ〜や〜っ」

 運悪くその場に居合わせた僕は、無様にひっくり返った悲鳴を上げつつ、全力疾走で逃げ出したのである。こうなった以上、武装した警官隊が詰めている、一階の大ホールを目指すしか無い。

 僕なんて食べてもおいしくないぞ!

 ちょっとばかり背骨の曲がった小男で……お陰で、ネクタイを締めるといつも歪むんだよ!

 おまけに、度の強い分厚い眼鏡を掛けた、白髪頭のおじさんなんだから!

 ああ……全力疾走によって、早々に息が切れてしまったよ。そして、二十年ほど前の見合いの席での記憶が、走馬灯のごとく駆け巡り始めたのだ。

 ねえ、志真子さん、僕は、人生の節目や分かれ目ごとに、無様にシャウトする運命だとでもいうのだろうか。


 招かれざる群衆が、非常口を破って、大学病院の内部に侵入した——

 その一報を受けた和泉いずみ南部なんぶは、吹き抜けの二階部分に駆け付け、一階の大ホールを見下ろしたのである。

 そこまで辿り着く頃には、群衆は自ずと三種に分類されていた。

 先頭グループは逃げ足が速い。そして、警官隊と言葉を交わすこともできる。彼らは、たとえ斧が頭に刺さっているように見えたり、血糊を塗りたくっていたとしても、生きている人間の若者である。

 夜間の集会が規制されているにも関わらず、今夜ハロウィンイベントを強行したクチだろう。保護すると同時に、噛まれたり引っ掻かれたりしていないかしっかり確認しなければならないのだ。

 二番手グループは、警官が言葉で制止しても応じない。低い唸り声を上げて、手で虚空を探るように、そして、幾分足を引き摺りながら歩くのだ。

 ハロウィンならではの仮装による「成り済まし」の中に、いつの間にやら「本物」が紛れ込んでいたのだろう。本物たちのことは、警官隊に制圧してもらうより他に無い。

 そして、三番手はただ一人——防護服に全身を包んだ小柄な人影だ。見たところ、全力疾走しているつもりらしいのだが、それでもに追い抜かれて遅れをとっているのが謎だった。

氏家うじいえ博士!」

 和泉は、彼に呼び掛け、吹き抜けの二階部分から、縄梯子を投げたのだった。階段にて人々が助けを求め、さらには、と警官隊が交錯しているうちに、マッチョマンの南部と、女性にしては長身の和泉が力を合わせて、縄梯子になんとかしがみ付いた上司たる氏家を、二階へと回収したのだった。

「博士! どうして一人で非常口のほうへなんて行かれたんですか!」

 和泉はついつい、赤の他人でありながら、娘が父を叱るかのような口調になってしまった。南部と二人して、氏家の防護服が破損していない——つまり、ウイルスに感染していないであろうことをテキパキと確認しながらだった。

 非常口が破られたのは、これが初めてではない。そして、破損した非常口には、応急処置しか施されていない状態だったのだから。

「だって……僕の大好きなムラムラミルクは、あの非常口のそばの自販機でしか売ってないんだもん!」

「ムラムラミルク?」

 ちょっと攻めた商品名だったから、南部は思わず鸚鵡返しにしてしまった。

 ムラムラミルクとは、茶葉をじっくりと蒸らしたような味わいをウリにしているミルクティーなのだ。

 銃声が何度か響いた。警官隊が発砲したのだ。

 その後、防護服を纏った三名の医師たちの前に、何人かの若者たちが引き据えられた。彼らは皆、血が滲む程度ではあるが、咬傷や引っ掻き傷を負っていた。既に高確率で感染が成立しているだろうが、彼らに最善の治療を行うのが医師の仕事である。たとえそれが、死に至るまでの苦痛を緩和する対症療法に過ぎないのだとしても。


 はぁ……志真子さん……あの日、双方の両親が結託して設けた見合いの席で、僕たちが出会ってから、もう二十年になるのか……

 新型ウイルスというものは、およそ十年に一度は流行して、人間の社会を引っ掻き回す。僕とてベテランの医師だ。新型ウイルスの流行に立ち向かったのは、決して初めての経験ではない。

 過去には、重度の肺炎を引き起こすウイルスやら、全身の穴という穴から出血するようなウイルスやらが流行して、世界中で数多くの死者が出たし、我々医師もまた死ぬほど苦労して、実際に殉職する者も少なからずいた。


 そこへまた、今回の新手のパンデミックだ。僕のこれまでの経験に照らしても、なんだかんだと強烈なんだよ、今回は……  


 流行が始まってまだ日が浅かった当時、それでも多忙を極めていたこの大学病院に、ちょっとは名の通った哲学者が乱入した「事件」があった。そう、この大学の哲学科出身で、テレビ番組のコメンテーターもこなす、あの宍戸徹ししどとおるという男だ。

「死者の権利が蔑ろにされている! 由々しき事態だ!」——彼は吠え立てた。

 死者よりは生者を優先するというのが、医師にとっては道理である。しかし、感染の拡大を抑制すべく、感染者の葬儀を簡略化し、遺体を速やかに火葬すべしという施策が、死者の権利や歴代の死者たちが築き上げてきた文化への冒涜に他ならないというのが、彼の言い分だった。

 なんでも宍戸は、現代に至るまで土葬の風習を尊ぶ集落の出身であるらしい。

 当時すぐさま病院から摘み出された宍戸と議論を戦わせることは、もうできない。彼もまた、その後いくらも経たぬうちに、新型ウイルスのせいで死去してしまったからだ。 


 同じ頃、この大学病院でも、霊安室の警備が手薄だったことから、安置されていた感染者の遺体が動き出し逃げ出して、食欲と破壊衝動の赴くままに暴れることを許してしまった痛恨の事例があった。動く遺体を制圧するまでに職員二名が殉職し、患者ら五名が負傷に伴い感染して、結局亡くなってしまったのである。これが、病院内に警官隊が配備されるきっかけとなった。

 通り魔のごとく七名を死に至らしめたからといって、動く遺体の責任を問うわけにもゆかない。その患者が、生前は多臓器不全に苦しみ、死後に活動を再開して暴力行為に及んだのは、全て新型ゾンビウイルスのせいなのだから。

 ゾンビもゾンビウイルスも、火葬により加熱すれば死滅する。ゾンビウイルスに感染した死者の火葬が急がれるのは、そのせいだった。


 ワクチンも特効薬も無い中で、人々がこの新型ウイルスに恐れ慄いたのは無理からぬことだ。

 ただねえ、志真子さん、政府も医師も、あくまで「火葬を急げ」と推奨しただけで、なにも「焼き殺せ」なんて言ってない。なのに、感染者やそうだと怪しまれた人々が焼き殺される事件が相次いだものだから、僕は震え上がってしまった。主目的は患者だとしても、入院先の病院ごと燃えてしまう。あるいは、「医師もその家族も感染しているに違い無い」と、自宅に放火された同僚までいたなあ……

 志真子さん、僕は医師のくせに、大切な妻である君の癌を早期発見してあげられなくてごめんなさい。ただ、君は今回のパンデミックよりも前に、親しい人々に見守られつつ旅立てたし、無惨に焼き殺されるような死に様と比べればまだしも……

 いやいや、そんなことを僕が勝手に決めつけるわけにはいかないね。いつか再会できたら叱ってよ、志真子さん……

 もちろん、世の中の人間がみな、感染者に危害を加えようとしたわけじゃない。ただ、穏健派の人々でも暴動を起こしかねない事実が発覚した。

 そもそも、ゾンビウイルスは、感染者が死してゾンビと化す頃には、その体表面や口腔内でうようよと増殖している。

 しかし、感染者が未だ存命で無症状であるうちから、その排泄物に潜んでいて、そこからも着々と感染経路を広げているとわかってきた。

 そして、牛、豚、鶏といった、食用の家畜とされがちな動物たちもまた、ゾンビウイルスに感染することが判明したのである。

 畜産物は汚染された。

 そして、家畜の糞尿だけでなく、時として人間のそれも農業に活用されるため、結局、野菜も汚染されたのだ。

 汚染された食材であっても、それこそ消し炭になれよとばかりに加熱すればウイルスは死滅するのだが……それを怠れば感染源となる。食糧危機、そして、食文化の危機でもあった。


 志真子さん、君がいなくなった自宅に戻る気にもなれなくて、僕は、病院に泊まり込んで働くようになった。そして今、僕の私室と化した一室で、疲れ果ててしょぼくれてる。

 ほんの数時間前の経験がこたえていた。あれは、幼い女児で、僕が経験した中では最年少の感染者だった。

 既に重症化して末期の女の子は、防護服を着た両親と面会した。父親が、やっとの思いで入手したというペットボトルを、娘に差し出したんだ。

 娘が大好きな「いちごみるく」。そんな飲料も、いつの間にやら驚くほど値上がりして、品薄になってしまったのだよ。

 女の子は、一口含んだけど、嚥下できないまま激しく嘔吐した。いちごみるくよりも赤くて暗い、融解した臓器そのものなんじゃないかというような吐物だった。

「これ……あげる」

 女の子は、すごく淡々と、ペットボトルを僕へと横流しした。利発そうな彼女は、長い睫毛の下で、迫り来る運命を見据えているかのようだった。

 ああ、志真子さん……君は、女の子を欲しがっていたね。僕も、僕に似た子供よりは、君に似た娘が欲しかったな。結局、子宝には恵まれないまま、僕自身が手の掛かる子供のような有様だったけど……

 両親の面会は、ものの十分くらいで終わった。僕は、火葬場へと直行する小さな納体袋に頭を下げた。

 女児を死に至らしめた感染源は祖母だ。祖母は、孫娘の面倒を見る一方で、近頃流行りの、闇ルートで入手した食材を楽しむ、秘密の食事会に出席していたらしい。和牛のレアステーキやら、生野菜やら鮮魚まで堪能したらしい。

 魚の生食は、わりとローカルな食文化なので、発覚が遅れたのだが、肉や野菜だけではなく魚も、ゾンビウイルスを媒介する。

 より正確には、魚に潜む寄生虫が、ウイルスを媒介するのである。


「氏家博士、レーションの配給ですよ」

 そこへ、南部くんが顔を出した。

「ちょっと、あんた、何やってんだ! まさか飲んだんじゃねーだろーな!」

 二言目にして一転して、マッチョマンは声を荒げたのである。

 ふと気付くと、僕は、いちごみるくのペットボトルを手にしていた。あの女の子に花の一輪でも手向けたい気持ちだったんだけれど、花なんて急には手に入らないから、代わりに形見のボトルを私室のデスクに置いて、手を合わせようと思ったんだ。そのボトルは、間違い無くゾンビウイルスの感染性廃棄物だけれど、置いておくだけなら実害は無いはずで……

 元々、考え事をしながら甘い飲み物をちびちびと飲むのが僕の癖である。できればそれがムラムラミルクであるに越したことは無いんだけれど、ムラムラミルクはとうに売り切れており、一向に補充される気配が無い。

 あれ? おかしいな、僕は確かに、いちごみるくを卓上に置いて、手を合わせたように思ったんだけど……いつの間にまた手に持ってたんだ? やっぱり疲れてるんだろうな。疲れが溜まると無意識にトンチキになってしまう僕だから。それになんだか、口の中が甘ったるい気がするぞ。あれれ?

「飲んだのか!? おいっ」

「……記憶にございません」

 僕は率直に答えたが、南部くんが、僕を殴り付けたい衝動に駆られているのが見て取れた。そういう衝動は、当然のことながら、ゾンビ以前に人間にも備わっているんだよなあ、トホホ……


 志真子さん……僕の親も、そちらのご両親も、随分と気を回すタイプだったねえ。

 うちの息子は、うちの娘も、放っておいたら独身を通すに違い無いだなんて、古めかしいお見合いの席を設けちゃうんだもの。

 あの日も、僕のネクタイは曲がってしまっていた。眼鏡だって、いつも通りに分厚く野暮ったい。

 まさか、両親から「しゃんとしなさい」と叱られてばかりの僕の前に、気性も笑顔も温かくて、小学校の先生で、将来的には校長を目指してるだなんて素敵な女性が現れて、「愛嬌に溢れておいでです」なんて言ってくれるだなんて……ありがとう、志真子さん。

 ただ、君がますだ屋の娘さんだと聞いて、僕は冷たい汗をかかずにはいられなかったんだ……


「氏家博士、ご気分はいかがですか?」

 防護服越しに尋ねられた。和泉くんだと、声でわかった。

「そりゃあ……申し訳無い気分だよ。今時、殉職者が出たって、人員の補充は難しいんだから……」

 僕はもはや防護服を着用することはない。新型ゾンビウイルスの感染者として隔離された身の上なのだから。

 そうだ。僕がこのまま死んだとしても、殉職者と称するのはおこがましい気がする。だって、疲労のせいだったのか、はたまたムラムラミルクの禁断症状だったのか……ともかく僕は、無意識のうちに感染性廃棄物を口にするという、一世一代のトンチキをやらかしてしまったわけだから。

 今はまだ、肝臓の機能が低下しつつあるだけらしく、認知機能も概ね保たれている。しかし遠からず、僕は、トンチキを反省することも、志真子さんを思い出すこともできなくなってしまうんだろうな……

「ま……ますだ屋の鯖寿司ぃ、の、解剖!」

 僕は、口に出さずにはいられなかった。なんだか声がひっくり返ってしまった。僕が思い出せなくなることを、誰かに覚えていてほしかった。

「あら、懐かしい。昔、実習でやりましたね」

 和泉くんは言った。医学部の学生だった当時から優秀だった彼女は、覚えていてくれたようだ。

 医学部の学生は、解剖用のメスなどを一通り買い揃える。しかし、最初から人体にメスを入れられるわけではない。

 僕はある日、まだ初々しい学生たちに、ますだ屋の包紙を破って、鯖寿司を一切れずつ配った。

 この界隈は、祝いの宴といえば鯖寿司を食べる土地柄だ。ゆえに、高級な鯖寿司専門店もあれば、お手頃価格でそれなりの品を提供してくれる店もある。ますだ屋は明らかに後者だった。

 べつに学生たちに軽食を振る舞ったわけじゃない。彼らには、実習の手始めとして、酢飯の上に鎮座するしっとりとした締め鯖を、メスで切り裂いてもらわねばならなかった。

「うわっ、いた!」

「出た!」

「ひい〜っ!」

 何人かの学生たちが、相次いでを発見しては、お化け屋敷じみた声を教室に響かせた。

 ソレは、そうめんほどの太さで、色もいい感じに白い。ただし、長さは二センチほどである。

 そして、そうめんとのある種最大の違いは、ピンセットで摘むと、クネクネと激しく抵抗することだろう。

 ソレは、アニサキスという寄生虫だ。魚が生きているうちは、その内臓に留まっているが、魚が死ねば筋肉に移動したり体表面まで出てくることもある。加熱や冷凍によって死滅するが、酢で締めたくらいでは死なないのだ。

 食中毒の原因となる寄生虫の代表格だから、医学生には実物に触れて学んでもらわなければならない。

 そして、アニサキスを入手したくなった時、コストパフォーマンスを考慮するなら、ますだ屋に勝る店は無い!

 僕は、志真子さんと結婚して以降、そのコスパについて語るのを控えた。鯖寿司の包紙も、学生の目に触れぬうちにさっさと破り捨てるようになった。

 けれど、ますだ屋の鯖寿司を実習で使うこと自体はやめなかったから、志真子さんへの背徳感を拭えなかった。

 まったく、僕が妻に背徳感を覚えたのは、実家の鯖寿司に纏わる一件くらいのものさ!

……いやいや、彼女の癌を早期発見できなかった事実から目を逸らすべきではない。それに、仕事に関してはともかく、世事に疎くトンチキな僕は、夫だか子供だかわからないくらい、志真子さんの手を煩わせたじゃないか。彼女はそんな僕のことを、愛嬌たっぷりだなんて言ってくれたけど……


「どうも、ご馳走様です」

 上司の惚気に、和泉は、笑みを含んで応じた。

「アニサキスといえば……以前、もちろんパンデミック以前のことですけど、高校の同窓会で、『ダイエットしたいから、何か食欲が無くなるような話をしてくれ』なんて頼まれたことがありました。『まずは、和食に合いそうな藍色の大皿を思い浮かべて。そのお皿には、一面に白くて細い唐草文様が描かれているの』——私は言いました。『あら不思議! 唐草文様のとぐろを巻いた部分が、一つだけクネクネと動き出しました。それはなんと、寄生虫として悪名高いアニサキスだったのです! 一匹丸呑みしただけで、うまくすれば七日七晩、脂汗をかきつつ激痛にのたうち回ることができます。なんなら、大皿一杯の唐草文様の全てが、わっさわっさと動き回るアニサキスだと想像してみましょう!』」

 和泉は、言葉を切り、いささか俯いた。

「せっかくリクエストされたのだからと熱弁をふるったんですけど、『お願いもうやめて』だとか、『夢に見そうな逆・飯テロ』だとか、何人かからは絶交まで言い渡されてしまいました。理不尽じゃありません?

 ああ、あの頃は……うっかりアニサキスを口にしても、七日七晩のたうち回るだけで良かったんですよね……」

 今となっては、そうはいかない。アニサキスは、新型ゾンビウイルスを媒介するのだから。


 ああ……なんだか、背中が痒い……

 志真子さん、僕は、死後の世界の実在を立証するエビデンスなんて持ち合わせていないけど、仮にそうした世界が存在するなら、君は天国に逝ったものだと信じてる。

 再会に備えて、恋文とか準備しちゃおっかなぁ……

 けれど、ロマンチックな文面を練るなんて、背中の痒みをなんとかしてからでなけりゃ無理そうだ。

「和泉くん、実は、背中が痒くてたまらないんだ」

 孫の手ならぬ部下の手を借りたくなったけど、なるべく自力で……と掻こうとした僕の指先に、何かがクルリと巻き付いた。

「ちょっと、見せてください」

 和泉くんが、僕の手を取った。

「これ、アニサキスですよ! 懐かれてますよ!」

 冗談はよしてくれよ、和泉くん。まあ、僕の指先のそれは、そうめんを二センチほどにちょん切ったような、あの線虫の姿に似てはいるけど……

「 失礼、拝診します!」

「ひえ〜っ」

 興奮気味の和泉くんは、僕の病衣の背中側をひん剥いた。

「すごい! 博士のお背中、してますよ!」

 そんなわけないだろう! 僕は、締め鯖じゃないんだ!

 人体に取り込まれたアニサキスは、一週間もすれば死滅する。僕が魚なら、僕の死を察知したなら、体表面に出て来るかもしれないが……

 至極真っ当に反論したつもりだ。すると、和泉くんは、意を決したように、自身の防護服に手を掛けた。

 待て待て! 感染者のそばでそれを脱ぐとは、どういう了見だ!

 和泉くんは無謀にも、防護服の上半分を脱ぎ、その下に着ていたスクラブシャツを捲り上げ、脇腹を露出したのである。

 そこには、赤い帯が存在した。

 虫刺されのようにも見える、数多くの赤い発疹が、帯のように並んでいたのである。そして、発疹からは毛が生えていた。いや……毛ではない。毛よりは太くて白い何かが、赤い発疹から頭を覗かせて、ゆらゆらと揺らめいているのである。

 まさか……そんな……アニサキスなのか!? こんなアニサキスを、僕は知らない……

「実は、私も感染者なんです。もう長いこと、配給のレーションしか口にしていなかったのに……そのレーションがウイルスに汚染されていたんです!」

「まさか……ますだ屋謹製のレーションかい?」

「違います」

 感染者だとカミングアウトした和泉くんだが、そこはきっちりと否定した。

「不思議なことですが、私に取り込まれたアニサキスは、死滅せずに生き続けています。アニサキスごとゾンビウイルスを取り込んだ私も、知性や生命を失うことなく、こうして存在しているのです」

 和泉くんの脇腹の赤い帯と、そこに揺らめく線虫たちは、まるで、僕の知らない深海かどこかの生態系のようで、寄生というより共生を思わせた。


「今こそ、人間とウイルスが互いを認め合う時だ。の時代の到来なのだよ!」

 気障で耳障りな台詞と共に、そこに新たな人物が現れた。洒落たスーツ姿で、ポケットチーフまで挿しているその男は、どこからどう見ても、いつかの傍迷惑な哲学者——宍戸徹だった。

 おいおい、僕の記憶が正しければ、あんたはゾンビウイルスに感染して死んだんじゃなかったか。

「実は、この私こそが、ゾンビウイルスとの共生を体現した、新人類の嚆矢のごとき存在なのだよ。魔女狩りや火炙りはごめんだからね、表向き死んだことにして、身を隠していたというわけだ」

 宍戸の物言いは芝居がかっていたが、彼が防護服を着ていないことを含めて、一応筋の通った話だった。すると彼もまた、スーツの下に、アニサキスの棲息する赤い帯のごときコロニーを抱えているのだろうか?

「実は、私は、新人類のためのコミュニティを、生まれ故郷の村で立ち上げようとしている。こう言ってはなんだが、世間の無知蒙昧から隠れ住むにはうってつけの片田舎なものでね」

 そりゃあ、土葬の風習を尊んでいるなら、相当な田舎だろう。そもそも都市部では土葬は禁止されているのだ。

「氏家博士、見たところ、君も新人類らしいじゃないか」

 宍戸は、僕に向かって先輩風を吹かせるかのように、ふてぶてしく言った。

「私は、こちらの和泉氏を、コミュニティの一員として迎えに来たのだが、なんなら、君も連れて行ってやらんでもない。人間とゾンビウイルスが共存するメカニズムを解明するには、医師の頭数は多いほうがいいだろう」

 宍戸の言葉に、知的好奇心と医師としての使命感が、僕の中でむくむくと頭をもたげた。なんだか、僕の背中に巣食うアニサキスたちまでもが、一斉に白く細長い頭をもたげたかのようだった。

 もしも、人間とウイルスが共存するメカニズムを明らかにできたなら、ワクチンも碌な治療法も無いままのこの悲惨なパンデミックを終わらせることができるかもしれない。

 ねえ、志真子さん、僕は、恋文を準備して、君に会いに行くつもりだったけど、ちょっとばかり待ってもらってもいいかなぁ……


「笑ってやがる……」

 交代要員として詰所に現れた南部は、吐き捨てるように言った。感染者を隔離した百以上もの個室を網羅的に映し出すモニター——その映像の一つに、彼は目を止めたのだ。

「ああ、肝炎だけじゃなくて脳炎も進行しちゃってるのよね……」

 その患者のデータを確認して、和泉は眉を顰めたのだった。

「でも、脳波を見る限り、夢を見ているようね。亡くなった奥様の夢かしら……氏家博士」

 氏家は、自らのミスにより感染してしまい重症化しつつあるが、モニターに映し出された彼は、何やら夢を見ながら幸せそうに微笑んでいるのだ。和泉は、有能でありながらトンチキでもあった、そんな上司に暫し思いを馳せたが、傍らの南部が、マッチョな体を小刻みに揺すっていることも気になった。

「どうかしたの?」

「え!? いや、背中が痒いんだ。すごく痒いんだけど、ただそれだけのことだから……」

 南部は、両の大きな掌によって、同僚の疑念の眼差しを押し返すようにしながら、妙にぎこちない笑みを浮かべたのだった。

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