あるあるアルケミスト
國手薫乃 (くにでかるの)
第1章 フラスコの中の小人
第1章第1節 赤ずきん
「ああ、林檎落ちてこないかなぁ。」
赤いフードを目深に被った少女が嘆く。
「今朝もあれだけ食べたでしょう。それでなくとも当研究室のエンゲル係数高いんですから。」
目が隠れる程前髪が長く、すらっと長身の青年が諌める。ここは西の端ポルトガルの、とある村へ続く畦道。長閑とは良く言ったもので、森林開拓によってつくられた広大な森の中に、ポカリと空いた土地に集落がある。
「しかし、こんな辺境で小人憑きが出現するとは。ギルドに支援要請がなかったら中央は気づかなかったぞ。」
「ええ。小人憑きの目撃の殆どが、陸の孤島の様な集落ですね。連絡が途絶した村がすでに壊滅しているのを、調査隊が確認した例もあります。」
「それよりも根本的な問題は……あ、見えてきた。」
農地の中に林に囲まれた土地に20棟程の民家が立ち並んでいる。その中に一回り大きな建屋と、その手前に新鮮な作物を扱う屋台が見えた。
「おお! 西部特産のドラゴンブラッドじゃないか! 店主ふたつください!」
「お師……。」
「まあまあ、ウルにもいっこあげるから♪」
そういうと少女はウルと呼んだ青年に真赭色の林檎を手渡す。ウルは林檎を受け取り不服そうな顔をしながらも一囓りした。
「うまいだろ?」
「うん、おいしい……ですね……。」
「こんなところに外からお客さんとは珍しいね。それもお嬢ちゃんはお師匠さんなんかい。」
外部からの客に自慢の林檎を誉められたことにより改めて生業への誇りを感じた店主は、違いのわかる少女の素性に興味を持った。
「いや、それはウルが勝手に……。」
「そうなんです! とても高名で、中央でも有名な方なんですよ!」
主張に割り込まれたことに加え、不本意な紹介に不服そうな顔をしながら林檎を一囓りした。
「へぇっ! そんな大先生なんかい! 何を勉強してる先生なんですかね?」
自分の林檎を評価したのがまさか、中央でも高名な、何かの……えらい先生であることへの喜びを隠しながら問いかけた。
「ええ、我々はですね……。」
「錬金術師! 錬金術師のメルって言うんだ!」
「なんだい! 狼男の狩ってくれるっていう錬金術師様かい!」
巷の噂に聞いた屈強な人物像とはかけ離れた少女を前に驚きを隠せなかった。
「錬金術ってのは、あれだよな。黄金を創れる魔法だよな。」
「うんまあ、そんな理解だよな。その紙切れ貰える?」
メルは紙の切れ端を摘まんでひらひら遊ばせながら、説明口調で話し始めた。
「錬金術は魔法じゃない、歴とした科学技術なんだよ。例えばこの紙切れに……。」
メルは、胸のブローチに収まる輝石に人差し指と中指を優しく添え、ある文言を唱えた。
「
すると、紙片の周囲に立方体に良く似た、多胞体と呼ばれる図形が浮かび上がった。すると、紙片は前触れもなく、突如発火した。
「これは、紙の炭素と空気中の酸素を結合する反応、俗に燃焼を促進する錬成だ。さらに、紙に含まれるナトリウムを濃縮して滞留させると……。」
そう言い終わったタイミングで、生じた炎が橙色から黄色に変わる。
「さ、ら、に、空気中の水分を水素と酸素に分解して、再結合を促進すると……。」
今度は、軽く跳ねる様な破裂音と共に、炎が吹き消された。
「おお。やっぱり魔法みたいだけんど。どう違うんだい?」
「それは
だ。」
理解が追い付かない店主は、口を開けて次の言葉を待った。
「つまり、理論上有り得ることしか出来ないのさ。そして、その理論はオレ達錬金術師が作る。研究に研究を重ね、実現できる事を実現する技術。それが錬金術さ!」
「むつかしいことは分からんが、そんなに便利なもんでもないってことかね?」
「耳が痛いがそういうこと。錬金術の大半は、端から見ると面白くも何ともない基礎研究だからな。」
「はあ、やっぱむつかしいな。さすが、錬金術の先生だ。」
店主は分からないなりに、メルの技術と努力に尊敬を示した。
「村長に用ってことだいね。それならあそこの大きい家だよ。」
そう言った店主はこう付け加えた。
「無理はするんじゃないよ。わしらのために死ぬことなんかないんだからね。」
そう言われた少女は少し驚いた顔をしたあと、屈託のない笑顔でこう答えた。
「ああ、お互いにな! うまい林檎つくり続けてくれよな!」
ギルドへの依頼主である村長の家の前に立ち、戸を叩いた。
「おーい。中央から派遣された錬金術師でーす。村長殿はおりますかー?」
言い終わるか否かの時間で戸が急に開いた。
「ああ、錬金術師様ですか!? お待ち申し上げておりました! ささ、中に入って。まずは状況の説明を……。」
「あの、すみません。僕は助手でして。
「ちっこくて悪かったな……!!」
いつもの事ながら、大変ご立腹である。
「いや、大変失礼しました……。どんな屈強な男が来るのかと待ち構えていたので、なんというか、想像とは違っただけというか……」
この村で手に入り得る最高のお茶と、この村自慢のアップルパイを平らげても尚、依然頬を膨らませているメル。さすがに高名な錬金術師様、献上品でご機嫌を治されることは難しいか……。
(いや、これは……)
その外観に対して内心では、大層な貢ぎ物に大変満足し、村に到着する前よりも寧ろご機嫌であった。食べ物程度で機嫌を治す小物と思われたくない一心から、表情筋を引き締めている。しかも、あわよくば、このままならもう一切れ頂けるのでは、と目論んでいた。それは、ウルから見れば明瞭であった。メルの額から伸びる触覚に似た前髪が左右に揺れ、上記の心理を雄弁に語っている。
「ええ、それでは狼男による被害状況と目撃証言についてお訊きしても宜しいでしょうか?」
メルの目が、余計なことを仕出かしたウルに対し、怒りと悲壮感を漂わせる。ウルの視線が、仕事でこの村へ訪れたことを指摘し、メルの過剰請求を非難した。
「そうでした、そうでした……!」
これ好機と話を反らす村長。
「被害状況ですが、重傷者が1人、行方不明者が1人です。行方不明者は恐らく骨も残らず……。」
「……!! 死者は確認されてない? 行方不明者も1人だけ?」
メルが立ち上がり、乾いた音を立てて椅子が倒れた。
「いえ、行方不明者は恐らくすでに……。」
「観測出来てない推測は後で良い。報告内容は確かなんだな?」
「え、ええ……村人も多くないですから、報告漏れはないはずですが……。」
「最初の目撃から今日で1週間だったな……?」
「ええ、2度目の目撃までに2日、中央までの通達で2日、派遣隊、お二人のことですが、選定まで2日、そこから2日かかると聞いていたところが1日でいらっしゃったので7日ということになります。」
メルが困惑とも、憐憫ともとれる表情を浮かべた。ウルは倒れた椅子を直しメルを優しく座らせた後、肩に手を添えた。
「心苦しくはありますが、村全体の被害としては最も芳しい状況と言えます。そうでしょう?」
その言葉に村長は怪訝な表情を浮かべたが、メルの目には僅かながら光が戻った。
「そうだな。聞き込みを始めようか。狼男のためにもな。」
村長から、重傷を負った被災者がアグラ、行方不明者がヘルセという名前であることを聞いた。メルとウルはまず、狼男の目撃者の証言を聴きに行った。
「なんとも恐ろしい姿で……え? 耳の形? これくらいの大きさで先が尖ってたね。」
「こちらに振り返った時、足がすくんでしまって……え? 目の位置? 前に付いてたけど、今そんなこと大事?」
「オレは勇敢にも立ち向い危機的状況から機転を効かせて……え? 腕の長さ? 凄く長かった気がしたけど、ずっと目瞑ってたからな。」
ここまでで得られた情報を整理する。
「今回の対象を、スタロックと仮称しよう。狼男という形容は大方正しいようだが、生物学的特徴としては一部違和感があるな。」
整理した情報を統合し簡単な模式図に落とし込む。
「まず、四肢が長く大腿部から下が細い。狼というより草食獣の脚だ。」
「前足というか腕も細長いですね。肉食獣としては、対象を殺傷する、という性能は低そうですね。」
「しかし、目は前向きについている。獲物を追うための性能は残してある。」
各要素の組み合わせから導き出せる小さな考察を1つの結論に結びつけていく。
「やはり、人間を捕縛する目的で何者かに設計されている可能性が高い。今まで観測してきた〝
聞き込みの中で行方不明者ヘルセと唯一の重傷者アグラについての情報も得られた。ヘルセとアグラは同い年の幼馴染みで、さらにひとつ年下のクレアという少女と親交があったようだ。300人規模の村で歳近い若者が少ないこともあり頻繁に交遊していたという。
「3人ね。錬金術的には3という数字は安定を表すが、それは3つの要素が対等なときだけだ。」
「今回の件に関係があると?」
「さあな。ただ、これまで見てきた小人憑き感染症と異なる点があるかもしれない。かもしれない程度だ。早速、アグラとクレアに話を聴きに行こうか。」
そういうとメルは踵を返し住宅密集地の方へ歩き出した。
「アグラ氏が療養されてる診療所はあちらですが、お師。」
「うん、まずクレアから話を聴こう。」
振り向きながら短く答え、足早に進んでいく。ウルは、特に気にする様子もなくメルの後をついていった。
クレアの家は住宅地のはずれ、ヘルセの家から200 m程の位置に建っていた。クレア家の戸を叩くと母親が応対してくれた。どうやらクレアはアグラの見舞いに出ているらしい。アグラが重傷を負ってからというもの、毎日のように見舞いに向かうらしい。
「それなら、診療所に行けばお二人に会えるのでは?」
「いや、疲れちゃったし、ここで待たせてもらおう。いいかな?」
「ええ、何もおもてなしできず、すみませんが……。」
「いいのいいの! 突然来ちゃってごめんね!」
とは言いつつも、アップルティーとお茶受けに出されたアップルクッキーに、ご満悦のメル。丁度出されたクッキーを、ほぼ1人で、平らげた時、家の戸が開いた。クレアが帰ってきたようである。
「あら、お客様が来ていたの? それなら少しお外にいるね。」
「君に用があって来たんだ、クレア。少し話を聞かせてもらってもいいかい?」
クレアは不安そうな表情を浮かべながら頷き、机の反対側へ腰を降ろした。メルはウルに小突かれ口元を雑に拭いた。
「酷かもしれないが、ヘルセとアグラのことを訊かせてくれないか。」
「え? 2人のこと……ですか?」
何のためにどのような情報が必要なのか図りかねてまた不安そうな顔を見せるクレア。
「なんでもいい。なんの話をしたとか、どんな遊びをしたとか。」
「それでいいのであれば……。」
クレア曰く、3人の関係はこうだ。幼少から3人で遊ぶことは多かったが、クレアと2人では体格の差があったため、度々2人が競い合うところを、クレアが観戦することがあった。ただ最近は、アグラから競争を申し込みヘルセがそれを宥めることがあった。
「それはヘルセが負けちゃうからか?」
「いえ、それは逆で……。」
アグラはヘルセに勝てることが減ってきたらしい。それは数字にすれば僅かな差異だった。しかし、3人の認識の中では如実であったようだ。そして、ヘルセと最後に話した際のことを語ってくれた。
「うん、そうか。辛いだろうに話してくれてありがとな。とても参考になったよ。」
「いえ。ヘルセを見つけて、アグラを傷付けた狼男をやっつけてくださいね……!」
クレアの家を後にした2人。
「あとはアグラか。」
「診療所に向かいますか?」
「いや、その前に探し物がある。発見されるだけで捜査方針が事故から事件に切り替わる物証だ。ほとぼりが冷めるまで手元に置いておくつもりだったはずだ。」
その時、前触れもなく少女の悲鳴が響いた。恐らくクレアの声だ。
「……!! 帰ってきたか!!」
クレアの家まで駆けつけると、そこには地面に座り込んだクレアの目前に、目撃者の証言通り、恐ろしい風体のスタロックが、虚ろな目で佇んでいた。顔の角度はそのままに、その目だけが、ぎょろりとクレアの方に向けられ狼男が呻き声を上げた。
「くぇぁ……。」
「え……?」
たった3音節の発声だったがクレアは、ヘルセが自分を呼んでいる、と確信した。
「ぼく、がまんしてたんだ……みんなをたべないように……でも……モウ……」
「ヘルセ!? ヘルセなの!? そんな……どうして……どうして……?」
「ドウシテ……ドウシテ……? ソレハネ……。」
スタロックの纏う空気が淀み始める。放つ眼光が鋭さを増す。閉じた口角が裂けて開いていく。
「オマエヲタベルタメダヨ!!」
不自然に裂けた顎を大きく拡げクレアを呑み込もうと跳躍した。その刹那、セラミックと金属が衝突する大きく鈍い音が響いた。
「赤いフードは嫌いだったっけか?」
鎌にも似た形状の双剣を盾にクレアと狼男の間にメルが割り込んでいた。
「筋書きなんだから、相手しろよ。」
盾にした双鎌剣を支点にして上体を後方に捻りながら、右足を狼男の顎へ突き上げる。痛みに顔を歪めながら、3歩後退るスタロック。
「ウル、近くの村民を優先して東部へ向けて避難。足の悪い者、子供は男手に運ばせろ。こいつはオレ1人で食い止める。」
「承知。御武運を。さぁクレア殿、お母様。参りましょう。」
「待って……そんな……ヘルセッ……!!」
ウルに担がれて離れていくクレア。その光景を静かに見詰めるスタロック。安堵なのか落胆なのか悲哀なのか、その表情からは読み取れない。
「安心しろ。お前はここで止めてやる。」
狼男は、短く唸りを上げた直後、メルに向かった跳躍し、鋭い爪を向けた。メルは後退することなく、前進し、交差する刹那、狼男の腕を足場にして後方へ宙返りした。そのまま回転しながら双鎌剣を振り上げ、狼男の棘上筋を切断した。だらりと下がる狼男の両腕。着地の際に紅い頭巾が捲れる。すると、三つ編みに結われた長く真っ白な頭髪と紅蓮の瞳が露わになった。
「ハアァ……。」
スタロックの、肩の傷口から白いもやが上がる。それと併行して傷口がゆっくりと塞がっていく。しかし、メルに幾ばくかの時間が与えられた。
「実験実習の時間だ。大事な単位だ、寝るなよ?」
そう言うと、メルは腰後部に備えたポーチからガラス製の筒状容器、所謂、試験管を1本取り出した。中には透明な液体が封入されており、ゴム栓で封止してある。
「これは硝酸銀と濃アンモニア水だ。これを隔膜で隔離してある。さあ、何ができるかな?」
さらにメルはL字の構造物、一見拳銃に見える道具を太ももに巻いたホルスターから取り出した。
「こっちは超弾性合金製ワイヤーを利用したコンポジット・スリングショット・ガン。銘は
じわじわと傷が塞がり、すでに臨戦態勢のスタロック。メルは試験管を雷銀弩に装填し、
「
メルが唱えると、胸に付けられたブローチの中心に位置する輝石が光を帯びる。次いで、雷銀弩の周りを光の多胞体が飛び交う。メルが引き金を引くと、風を切る音と共に黒銀の軌跡が伸びていった。丁度、両腕が復元したスタロックが、大きな掌で軌跡の先端を受け止める。大きな炸裂音が轟きと強い閃光が走った。明順応が追い付かなかった目が視力を取り戻すと、スタロックの右腕の肘より先が欠損し、掌の第一関節より上の部位が目前に転がっていた。
「アァン……?」
「錬成したのは雷銀。銀の窒化物とアミド化合物の混合物で、僅かな衝撃で爆発する物質だ。これを弾丸にして撃ちだす雷銀弾。」
腕の欠損断面からは白いもやも再生の兆しもなかった。
「ヒントだスタロック。お前ら小人は、感染により増殖を繰り返す、細菌類と推測される。自分で呼吸できる細菌は勿論存在するが、お前らは宿主が必要らしい。」
スタロックは構わず突進し、大きく裂けた歪な顎で咬みつこうと試みた。メルは狼男の上を飛び越え、これを回避した。
「かぶりつき(席の先頭で講義を聴講すること。深い興味を持ったことを示す。)、いいね。」
スタロックが振り向きながら唸る。
「そして、金属には一定の抗菌・殺菌作用が認められている。その中でも汎用的なのが銀だ。どうやら小人憑きには銀が効くらしい。テストに出すから覚えておけよ?」
スタロックが左右に跳躍しながら距離を詰めてくる。この速度で動かれては雷銀弾は当たらない。近接戦闘に特化した体躯に対して鎌剣による迎撃を繰り返すのは危険。狙うならば、咬撃の後隙。回避方向を気取られぬために、左右上に回避方向を散らしていく。しかし、後隙を狙っても、スタロックはこれを躱わしている。回避を行う余力を残した咬撃に抑えている。
「(クッソ、速いな……。偏差撃ちするにも予測が出来ん……。)」
すれ違いざま、体幹を軸に回転しながら鎌剣による斬撃を加えるが、瞬く間に回復してしまう。暫くこの攻防が続き、狼男は雷銀弾の回避のために深追い出来ずにいた。それはメルも同様であった。
「(回復機能がある以上、消耗戦はこちらが不利だ……。奴の残りリソースも計り知れない。早く打開しないと。)」
次の一手を思案している間に、先にスタロックが動いた。回避しながら放たれた雷銀弾を、半壊した腕と、健在な腕を盾にして受け止め、損傷を構わず跳躍してきた。スタロックは両腕を失ったが、遂に自らの間合いにメルを収めた。メルをすっぽり覆うことができる大きさの顎が目前に迫る。
「ガァァウ!!」
するとメルは、腰のポーチから、試験管とは異なるガラス容器を取り出した。先ほどの試験管より大きい、賢者の卵、丸底フラスコである。フラスコには先ほどよりも大量の雷銀の原料が詰まっていた。
「自分の強みを良く理解している。そう来ると信じていたよ。短い間の我が教え子。」
フラスコをスタロックの喉奥深くに投げ込んだ。フラスコは、低い音と共にスタロックの喉元を過ぎていった。そしてまた、メルはあの文言を唱える。
「
輝石が瞬き、多胞体が躍る。数舜の後、くぐもった轟音が響き、スタロックの口と鼻から炎が噴き出し、追随して黒い煙が上がった。完全に脱力した狼男は右側面から落下した。
「カハァァァ……!」
発声器官を焼かれ、声にならない叫びが漏れる。続いてメルがふわりと着地した。地に伏したスタロックの口から、先ほどの煙とは明らか異なる、黒い泡のようなモノが大量に立ち昇った。メルの目の高さ辺りまで浮かんで、細かい粒子状にばらけて散り散りになって消えた。
「こんなに沢山の小人を抱えていたんだな。それでも尚、理性を保っていたなんて……」
スタロックが、うわごとのように何かを呟いている。
「アァ、シュヨ……イタイ、ゴジヒヲ……。」
メルはスタロックの傍らに歩み寄り、頬に手を添え、優しい声で囁いた。
「頑張ったな。お陰で死者は出なかった。クレアも無事だ。もう休んで良いんだぞ。」
それを聞くと、終始虚ろだった狼男の目に光が戻り、柔らかい口調でこう言った。
「ああ、そうか。ありがとう……。」
その一言を最後に、狼男の生命反応は消えた。
メルが村の中央部に戻ると、有志での炊き出しが行われていた。時は薄明。日が暮れていたら、対小人憑きの戦闘は非常に危険だった。そしておなかもへった。
「何飯食ってんだよ! オレにもご飯下さい!」
「お師! ご無事で!」
ウルはスタロックが突破した際の簡易防護柵を作っていたようだ。もちろん、メルの敗北ではなく、スタロックの敗走によって、村民に接近する可能性に対する策だ。
「彼は?」
「うん、見送ったよ。」
メルの安堵に弛んだ顔が怒りを帯びる。
「物証の回収の後、身柄の拘束に向かう。」
「承知しました。」
診療所の一室。アグラが療養している部屋。彼はスタロックの最初の目撃者で、その際に、大腿部に切傷を負った。それ以降、スタロックの目撃はあっても被害は増えなかった。そこにクレアが飛び込んできた。
「アグラ! 狼男はヘルセだったの!」
入るや否やベッドの端に両手を乗せ、早口でまくし立てた。
「落ち着けクレア。何があった?」
クレアは一息吐くと、先ほど見聞きしたことを話した。アグラは神妙な面持ちで聞き入り、額には汗が伝っていた。
「本当に? 狼男がしゃべったのか? 他に何か言っていなかったか? 誰に感染させられたかとか。」
「え?」
クレアは何か違和感を感じ、今しがたの会話を頭の中で再生していた。アグラが知りえないことを知っていたような。しばらくして答えが出た。
「アグラ……狼男になっちゃうのが感染症ってどういうこと……?」
アグラの顔に焦燥が浮かぶ。焦燥は焦燥を呼び、綻びが広がっていく。
「う、噂で聞いたんだ。誰だっかな。村長とかかな……。」
「いいえ。ヘルセが私に話しかけるまで、誰も狼男がヘルセだなんて知らなかったと思う。」
クレアを送り出す時に振り返ったメルの顔が、悲哀に満ちていたのを思い出す。
「アグラ……あなた、ヘルセに何かしたの……?」
「……。」
アグラはしばらく押し黙り、口を開いた。
「悪いのはお前らだぞ。オレを除け者にしようとするから。だから、少し痛い目に会えばいいんだって。」
今までにアグラから聞いたことのないような、低く重たい声でそう言った。目は焦燥に加え、諦観と狂気が宿っていた。
「そんな……私たち除け者になんて……。」
「いいや、言い訳は聞かない。劣っているオレを遠ざけようとしていたろ。二人だけでこそこそと会っていたろ。」
「違うそれは……。」
「言い訳は聞かない。そう言ったぞ。」
アグラの目が狂気で染まり、クレアに覆い被さろうと身体を持ち上げた。その時、唐突に部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「さあ、そこまで。まずは現行犯だ。この場で聴取に移行する。」
メルを先頭に、ウル、村長、村に駐在する自警団員が同伴していた。アグラは、先頭に立つ少女が件の錬金術師であると判断した。
「ははは……やだな、冗談ですよ……。空想ですよ……まさか本気で狼男がしゃべるなんて考えてませんよ……。」
「諦めが悪いな。ならもう少し論証が必要かな。」
そう言うと、メルはポーチからフラスコを取り出した。戦闘で見せた物と異なり、中は空で壁面に黒い粘性の液体が付着しているように見える。
「
フラスコを見るや否や、アグラの顔は青ざめ、冷や汗が滝のように流れ始めた。
「いよいよ、言い訳は尽きたか。だがみんなが解るように説明しよう。それが錬金術師の責務だからな。この黒色の粘性液体、これは小人の細胞膜が剥離した物だ。これを所持しているのは実行犯以外、有り得ない。今回の事件の実行犯がアグラである、最たる証拠だ。」
アグラは肩を落とし、罪から逃避することを諦め、ここに至るまでの経緯と、胸中を話し始めた。
「オレはヘルセより愚鈍で焦っていたんだ。ヘルセとクレアがいなければ本当に独りだったのに、最近疎まれていると感じて。二人だけで会っているのを見て確信したんだ。だから、オレは……。」
「違うのアグラ!」
クレアが言い終わる前に、メルが何かをベッドに上に放り投げた。剪定用の鋏である。
「そういえば、アグラは今日が誕生日なんだって? 事前に言ってくれれば、オレもプレゼントぐらい用意したのに。」
アグラはそれを聞くと、今までより一層、深い後悔に沈んだ。それは、自分では手を出しづらい大変高価な鋏だった。
「そんな……クレア。じゃあオレのために……。」
「そうだよ。二人で出し合って買ったんだ。他でもない、アグラのために……。」
気付けば、クレアは襟が濡れるほど涙していた。その光景を目にし、取り返しの付かない現実に耐え切れず、アグラは鋏を手に取り、自らの喉に突き立てようとした。そこにいた誰もが驚きに竦んでいる中、メルだけが駆け出し、アグラの手から鋏を叩き落とした。
「また間違ってるぞ。鋏はそう使うもんじゃない。」
ベッドに飛び乗りアグラを見下ろしながら続けた。
「劣等感や焦燥、孤独、嫉妬。誰もが抱き得る感情だ。それは正常だし間違ってない。だが、お前は向き合い方を間違えた。お前の罪はヘルセを死に追いやったことだけじゃない。二人の信頼と愛情に泥を塗ったことが最も罪深い。オレはそう思うね。」
振り返ってベッドからふわりと飛び降り、さらに続けた。
「個人の感想だ。罪状と刑罰は誰かが決めるが、罪の重さと向き合い方は自分で決めろ。」
それを聞いたアグラは、力無くうなだれ、沈黙した。アグラが自警団員に連行される。
「アグラ、最後にひとつ訊きたい。このフラスコを渡された相手は誰だ?」
アグラは疲れ切った様子で、力なく答えた。
「わからない。名前も知らないし、長いマントを着てフードを被っていたから顔もわからない。」
「なんでもいい。背格好やマントの色。体格。声。なんでもいい。」
諦め切れず、さらに詰め寄るメル。
「背格好はそこのお兄さんと同じくらい。マントは黒。あと、そういえば……。」
アグラが左上を仰ぎながら答える。
「フードに、赤い薔薇の刺繍が入っていたな。それ以外は、思い出せない。」
そういうと、メルの返答を待たず出口に向けて歩き出した。
「赤い薔薇……。」
何かを思案しながら俯くメル。ウルが傍らに歩み寄り話しかけた。
「僕、薔薇には良い思い出ないなぁ。」
「ははは、そうだったな。」
話しかけられて一旦思考を止めた。
「なんにせよ、今まで姿の見えなかった、主犯の尻尾をやっと掴んだ。」
疲れの中に強い意志を感じる眼光を宿らせた。
「
メルとウルの次の目的は決まった。
村を後にするため村の外縁に向かっていると、クレアが息を荒げながら走り寄ってきた。そのままメルに縋るように掴まり、矢継ぎ早に話し始めた。
「メルさん。私、一度に大切な人を二人も失ってしまったの。錬金術は善いものではなかったの? 私、錬金術が嫌いになっちゃう……。」
「クレア……。」
メルは少しだけ沈黙した後、返答した。
「錬金術は願いを叶えるための道具に過ぎないんだ。使い方を間違ったり、使用者が悪意を持てば、人を傷つけることもあるし、最悪死に追いやることも出来る、危険な道具だ。だからこそ、使用者は正しく錬金術を使う義務がある。」
メルは俯きながら続けた。
「だから、錬金術に善いも悪いもない。これはオレからのお願いで、必ず従う必要はない。どうか、錬金術を嫌いにならないでほしい。」
クレアは、真っ直ぐメルの目を見つめながら、話に耳を傾けていた。
「私、メルさんが言ったこと、難しくて全てはわかってないかもしれない。けれど、ヘルセを見送ってくれて、アグラに懺悔の機会を与えてくれたのも、同じ錬金術ってことなのね。」
必死に理解しようと言葉を咀嚼する様子は他者の行いに学ぶ人間の姿だった。
メルとウルはクレアと別れ、南へ向かった。
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