29 そして聖女は竪琴を受け取る
「美味しい!」
シチューを頬張るノアを見て、アニーが朗らかに笑った。
「あんたさっきからそればっか言ってるねえ。いいんだよ、そんなに気を使わなくとも。あたしはまったく気なんか使ってない、普段通りの食事しか出してないんだからさ」
「だって本当に美味しいんです!」
心から本当だった。
シチューにパン、それに果物。シンプルな食卓だが、シチューは肉がホロホロと口の中でほどけ、野菜は柔らかすぎず煮込まれ、パンは焼きたてだった。すべてアニーの手作りだという。
(夕飯に焼きたて手作りパンとか、どっかの高級レストランだわ!)
前世だったら、家で夜に焼きたてパンとか、そんな手の込んだ物は出てこない。
――いやお母さん、ごめんなさい。お母さんの夕飯はじゅうぶんに美味しかったからね!
と心のなかで前世の母に謝りつつ、パン、シチュー、パン、シチューのループが止まらない。
「そうかい、それならよかったけど。今日はあんたが手伝ってくれたから、パンが早く焼けて助かったよ」
「あたしもパン作ってみたいです!」
「そうかい? なら、教えようか。あんたが作ってくれたら楽だしねえ」
そんなふうにノアとアニーが会話する間で、マシューは一言も口をきかずに黙々と食べていた。ぼんやりと空中を見つめ、もぐもぐとずっと口を動かしている。老人にしては良く食べるなあと感心するほどだが、おしゃべりはまったくない。
「いっつもこうなんだよ。少しくらいしゃべったっていいのにさ」
アニーは顔をしかめる。ノアは
「――ん、湯が沸いたかね。ああ、ノア、あんたはいいよ、まだパンのおかわりはあるからね。食べてなよ」
アニーが席をたった。おっとりとしてふくよかなアニーだが、ころころと良く動く。
二人になると、マシューは何か言いたげにノアの方をじっと見た。
(な、なんだろう)
昼間の言い方からして、マシューは「あの曲」をどうも知っているようだ。
(聖女ノアってバレるとまずいから、あたしからは話しずらいしな……何か言いたいことがあるなら、言ってくれればいいんだけど……)
ノアが気にしながらパンを食べていると、突然、マシューは席をたった。お皿はすべて空になっている。
(ごちそうさまくらい言ったほうがいいんじゃあ……)
それに、キッチンではアニーがお茶の支度をしているというのに。
(アニーさんが呆れるのも無理ないわ)
不愛想すぎるほど不愛想なマシューに、ノアがちょっぴり腹を立てていると、後ろから肩を叩かれて飛び上がりそうになった。
「わわ、マシューさん? どうしたんですか?」
マシューはノアの後ろにつっ立たまま、じっとノアを見下ろしている。その手に握られた物にノアは釘付けになった。
「どうしたんです、その竪琴」
マシューは竪琴を手に握っていた。礼拝や儀式のときに使われるような美しい模様が意匠された、飴色の竪琴。
(この竪琴、さっきマシューさんが隠していたやつじゃない?)
ノアがそう思ったとき、マシューがその竪琴をノアの腕に押し付けて、
「逃げろ」
しわがれた声だが、はっきりとそう言った。
「え?」
「逃げろ。呪いを知る者は殺される」
切迫した様子でマシューは言う。先ほどのぼんやりした様子からは想像できないほど早口で、目にはしっかりと生気が灯っていた。
「早く逃げろ。殺されたくなかったら、逃げるか呪いを解くかだ」
(呪い?!)
まさかそんなことはないだろうと思いつつ、聞いてみた。
「呪いって、もしかしてブランデン王国とモーム王国に掛けられた呪いのことですか……なーんて、まさかね、タイムリーすぎるものね」
笑い飛ばそうかと思ったノアの予想に反して、マシューは驚愕したように目を見開いた。
「知っていたのか……!」
(まじで?!)
ノアとマシューが互いに驚きと困惑に固まっていると、キッチンからアニーの声がした。
「ノアー、店の方にお客みたい。もう今日は店じまいしたからって言ってくれるー」
「は、はーい」
ノアはアニーに返事をして、とりあえず工房兼店へ行った。
確かに、誰かが扉を叩いている。
カーテンを閉じたその隙間から外を覗いてノアは驚いた。
「貴方は!」
ノアは扉を開ける。
「すんません、せいじょ……あっと、ノア様。ちょっと嫌な感じがするんで、お知らせにきたっす」
昼間の元・人買いの小男だった。
「嫌な感じ?」
「はい。とりあえずここから逃げた方がいいっす」
「な、なんで?!」
たった今マシューからも逃げろと言われたノアは訳がわからない。
「俺っちもよくわかんねえけど、さっきからこの職人エリアに少なくない数の神官兵が集まってるっす。俺っち、もうボスの所へは戻らないんで、しばらくここのエリアに隠れてようと思ってうろついていたっすけど、神官兵がぞろぞろ来るし、奴らが会話の中で『ノア様が』って言うのを聞いたんで。ほら、ノア様お忍びだって言ってたじゃないっすか」
(テオ大神官の追手に見つかったんだ!)
ノアは小男の手を握った。
「ほんっとにありがとう! 貴方、名前は?」
「えっ、え、俺っち? 俺っちはロイっていうっす」
「ロイ、いつか御礼は必ずするから!」
ノアはダイニングに戻った。マシューは睨むようにノアを見て言った。
「逃げろ。呪いから」
瞬間、アルとレオの顔が脳裏をよぎる。
これはもう、何か見えないチカラが働いているとしか思えない。
(転生して再誕聖女になって隣の国の皇太子たちに会って。その呪いを解く方法を探していた矢先に呪いを解くカギになるかもしれない物を託されて)
あたしが呪いを解くしかない。――アルとレオにその場しのぎの苦し紛れで言ったことだったが、今ははっきりとそう思える。
そしてアルとレオを、宣戦布告されたオルビオンの民を救うしかない。
ふつうの元OLがこの世界へ再誕したのは、このためだったんだ!
ノアは竪琴をしっかりと背負った。
「ありがとうございます。逃げるけど、逃げませんよ」
混乱したような顔のマシューにノアは竪琴を軽く叩いて笑んだ。
「これ、お預かりします。後でちゃんと返しにきますから! あと! 汚した竪琴の代金も後でぜったい持ってきますから!」
キッチンからお茶のいい香りが漂ってくる。アニーに何も告げずに行くのは胸がきゅっと痛んだ。
「アニーさん……ごめんなさい!」
胸の痛みを振りきるように、ノアはマシューに一礼するとダイニングを出た。
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