10 異世界の水事情と懐かしい曲


「っくしゅん!」 

 ノアはマロンの上でくしゃみをした。


『どないした』

「誰かに噂されているのかな。ていうか、きっと今頃、館は大騒ぎよね」


 ノアが逃走したときに気付かれたか、もしくはあの神官兵が帰った後か、はたまた今現在の夕飯時か、いずれにせよアンナをはじめ、館に住む聖女見習いたちは途方に暮れているに違いない。


「ちゃんと説明できなくて悪いことしたよね……」


 ノアがこの世界にきてからというもの、親身になって身の回りの世話をしてくれたアンナ。そのアンナにすら何も言えずに出てきたことが、ちくりと胸を刺す。

 タイミングが悪かったとはいえ、せめてアンナには何か言ってくるべきだったと悔やまれる。


「……でも、しょうがなかったよね」

 伝えるヒマもなかったし、そもそも事の詳細を知ったらアンナ達にるいが及ぶと配慮しての逃走だ。


「アンナ達に何も被害が及びませんように」


 ノアは祈るような気持ちで川辺に降りた。


 街道からそれると、小さな森が点在する。その森をつなぐように流れる小川のそばで、大きなかしの木がゆったりと枝を広げている。ノアはその樫の木を目指した。


『なあ、ほんまに野宿すんのかいな。なんや魔物とか出そうな平原やで。次の町まで急いで走るから、ちゃんと宿に泊まらへん?』

「いいえ。野宿するの。お金は節約しないとね」


 今夜は野宿することに決めたのだ。


 すでに日が暮れていた。これ以上移動すれば山賊や魔物に遭遇する危険がある。今日は満月で、月明かりを頼りにできるが、それは山賊や魔物も同じこと。それに、やはり移動は日のあるうちがいいとノアは判断した。


 たった一人で野宿もじゅうぶん危険で怖いが、移動するリスクよりはマシだ。


 樫の木の下で荷を下ろし、火をおこす準備をして、川へ近付く。


「うわ、めっちゃきれいな水だわー」


 思わず前世の言葉遣いが出るほど、実際川の水はとてもきれいだった。


 この世界の川は、聖都ラデウムの中でも底が透き通るくらいの透明度だが、この城壁の外ではさらに水が澄んでいる。残照ざんしょうと昇りはじめた月明りの中でも、浅い川底を泳ぐ魚がはっきりと見えた。


『うわー!美味そうな水やん!』

 さっきまでの不満そうな態度はどこへやら、マロンはうれしそうに川面に口を付けて水を飲み始めた。


 この世界では川の水はどこの川でもふつうに飲めると聞いて「まさか」とドン引きしたことのあるノアだが、マロンが美味しそうに水を飲む様子を見てホッとした。


「ほんとにどこでも飲めるのね。道中、水に困らなそうでよかったー」

 ノアはさっそく水筒に川の水をたっぷり入れた。


 この世界のインフラは意外と発達していて、上下水道は町でも村でも地下水路カレーズが完璧に整備されている。

「あれだけ完璧な地下水路カレーズのある世界だもんね。川もきれいなわけだわ」


 この世界の地下水路カレーズはアーチ型の石造りの天井が続く、まるでお城の回廊のような瀟洒しょうしゃな造りだ。人が散歩できるほど整った気持ちの良い水路で、下水は更に地下へ通されていて悪臭などは一切なかった。ちなみに、魔法の力で下水処理などが行われ、汚水や環境問題などは聞いたことがない。


 日差しの強い暑い日や、聖女聖女と追われて誰にも会いたくない時など、こっそり地下水路カレーズを通ってラデウムの端に現れたりして、アンナ達を驚かせたものだ。


 地下水路カレーズは大神殿が管理しているため、一般の民は出入りが許されておらず、実態がほとんど知られていないため、ノアには都合の良い隠れ場所だった。


「川の水が飲めるほどきれいなのも、その辺のことと関係あるのかなあ」

 水筒に汲んだ川の水は冷たくて美味しい。


 ノアが前世で暮らしていた千葉の実家や会社のあった東京では、川の水を飲むなんて考えられなかった。


「前世の方が文明が発達していると思っていたけど、案外そうでもないかもしれないわよね」

 水の美しさやインフラの良し悪しで言えば、この世界は前世より何倍も発達していると言える。


「魔法も使えるしね」

 ノアは額の聖印に意識を集中し、樫の幹に手をそっと触れた。


『こんばんはノア』

 外見に似合った、太いおっとりした声が言った。

「こんばんは、樫の木さん。今夜、あなたの下に泊まってもいいかしら」

『もちろんどうぞ』

「あたしと馬のマロンが寝ている間に山賊や魔物が近付いてきたら、教えてほしいの」

『お安い御用』


 樫の枝がそよいだかと思うと、静かに地面まで伸びて、柔らかな枝々がハンモックのような丸い形を作った。


『ここでお休み』

「素敵! ありがとう樫の木さん」

『どういたしまして』

「お礼に何かあたしがしてあげられること、あるかしら?」


 木は眠らないとはいえ、一晩中見張ってもらうのだ。何かお礼がしたい。


『べつになにもいらないが、そうだねえ……じゃあ、その竪琴を弾いてもらおうか。楽器の演奏なんて、滅多に聴けないからねえ』

「もちろん!」


 ノアは火を熾し、マロンに川辺の草を食ませ、自分も持ち出したパンに火で炙ったチーズをのせて食べると、竪琴を抱えた。


「何かリクエストはある?」

『そうだねえ、ノアは、異世界からきたんだろう? なら、異世界の音楽というものを聴いてみたいねえ』

「異世界の音楽かあ」


 確かに、こちらにきてから前世のハープ教室で習っていた曲は弾いていない。


 実はノアは、弾けるようになりたい曲があって、ハープ教室に通っていた。


 死ぬ直前のレッスンでは、先生に合格をもらって浮かれていたことをうっすら思い出す。


「じゃあ、あたしが大好きだった曲を弾くね」

 大好きだった、と過去形なのが悲しいが、転生再誕したのだからよしとする。


 少し弦を慣らしで爪弾つまびくく。たくさん練習した思い入れのあるその曲は、楽譜がなくても弦に触れると自然と指が動いた。

(……やばい、エモすぎる)

 あまりに懐かしいその曲に、異世界へ来てからのいろいろや前世での記憶が入り混じって、鼻の奥がツンとする。



『ああ、良い旋律だねえ……』

 樫の木はうっとりと枝を垂れる。いつの間にかマロンがノアの傍でおとなしく脚を折っていた。

 樫の枝はすっぽりとノアとマロンを囲うように隠している。その枝の隙間から、満月の明かりが模様のように差しこむ。



 月明りと、ノアの竪琴が奏でる前世の懐かしい旋律だけが、川辺を心地よく満たしていった。



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