11 癒しの音色


 トレスは川で水を汲み、アルフレッドの元へ急いでいた。


「満月が出てきてしまった」

 煌々と昇りはじめた月を見て、トレスは舌打ちする。


 アルフレッドは王家に伝わる呪いのため、狼男に変化する。


 シュトラスブルク王家の第一王子は、皆そのように生れつく。大人になると慣れもあり、自分で変化をコントロールできるが、満月の夜だけは別だ。


 身を焼き切るような痛みと苦しみに苛まれ、アルフレッドは一晩中悶絶する。

 宮廷医官に命じて作らせている痛み止めも、気休め程度だ。


 それでも、少しでも楽になってほしいと、トレスは水と痛み止めを主に捧げた。


「すまない」

 すでに狼の姿のアルフレッドは、わずかにあぎとを開いた。並ぶ牙の間に垂れる舌の上に薬を載せると、アルフレッドは水と一緒に一飲ひとのみみした。


 月明りに照らされた見事な白い毛並み。浅い呼吸に上下する腹は虹色に月明りを弾き、不謹慎ではあるが美しいと思ってしまう。


「早く聖女を捕えなくてはならないというのに、僕がこんな有様では」

「どうぞお気になさらず。聖女は、まだそう遠くには行っていないでしょう。捜索は明日でも大丈夫ですよ」


 トレスは本当にそう思っていた。聖女とはいえ、特別な魔法でも使えないかぎり瞬時に遠い場所へ移動することなどできない。とすれば馬か徒歩での移動であるから、一日でそんなに遠くは行けないはずだ。


「ですから、今夜はここで休みましょう。ラデウムからそう遠くないですから山賊のたぐいも出ないと――」


 トレスは言葉を呑んだ。痛みに苦しんでいたアルフレッドが、急に立ち上がったからだ。


「アルフレッド様?」

「……聴こえる」

「なんですって?」

「聴こえる。竪琴が」


 言い終わらないうちにアルフレッドは駆けだした。


「アルフレッド様!」

 白銀の狼はみるみる距離を空けて疾走していく。


「いったいどうなさったのだ!」

 狼に変化したアルフレッドに追いつくのは至難の業だった。馬でも引き離されるほどの速さとしなやかさであっという間にどこかへ行ってしまうのだ。


「くっ」

 トレスは急いで馬に飛び乗り、馬尻を蹴った。いなないて走り出した馬はすぐにスピードに乗るが、白狼との距離はなかなか縮まらない。どころか、引き離されていく。


「竪琴が聴こえたとおしゃったな」

 銀色の狼はすでに視界から消えようとしている。トレスは追跡しつつ、竪琴の音色を聞き分けようと必死に夜闇に耳をそばだてた。



◇◇◇



「くそっ……」


 木の根元でうずくまる王子に、マルコスは小さな焚火で煎じた薬草を差し出した。


「レオナルド様、さあ、できましたよ。少しでも楽になるとよいのですが」

 巨漢のマルコスですら一抱えできるかどうかという、大きな黒狼。月明りをそのまま映す黄金の輝きの毛並みは思わず見惚れてしまうほどだが、苦しそうにうずくまるその姿は胸をつくほど痛々しい。


 開いた口に、静かに薬湯を注ぎ込む。一気に飲み下した黒狼は、薬湯の苦さに大きく唸った。


「マルコス、すまない。聖女を追跡せねばならぬというのに、俺がこんな有様では」

「何をおっしゃいます。聖女はおそらく一人で動いているのです。今日の今日ではそう遠くに行けないはず。明日捜せばいいのです。今はとにかく、お休みになってください。できることならこのマルコス、御身に代わってさしあげたいっ」


 マルコスは拳を握りしめて打ち震え、涙さえこぼしそうな勢いだ。


「気にするな、マルコス。いつものことだ」

「ですからっ! 今回のこの外交工作、万が一にも本当の本当に聖女がレオナルド様を呪いから解き放つ別世界からの聖女なら、このマルコス、身命を賭して聖女を御前にお連れする所存!」

「そのセリフは……数時間前に聞いた気がする」

「お許しをいただければ今! 今すぐにそれがし一人で聖女を――」


 マルコスは言葉を呑んだ。苦しんでいた黒狼が、急に身体を起こしたからだ。


「……竪琴だ」

「はい?」

「聴こえる……痛みが消えていく!」

「へ? 薬湯が効いたということで……あっ、レオナルド様!!」


 マルコスの言葉が聞こえていないかのように、黒狼はマルコスの脇をすり抜けて駆けだした。


「えっ、ちょっと、えっ?! レオナルド様ーっ、お待ちくだされーっ、焚火を消しますればーっ!」


 マルコスはあたふたと焚火を消して、馬に飛び乗った。


「いったいどうなされたというのだ」


 黒狼に変化したレオナルドに追いつくのは無理だ。馬ですら追いつくことができない。今も、馬を疾駆しっくさせても一向に追いつかない。


「くっ、やむなし」

 馬を無理に走らせてつぶすのは得策ではない。


「確か、竪琴が聴こえるとかなんとか」

 マルコスは黒狼の走り去った方向へ馬を進めつつ、竪琴の音を拾おうと耳を澄ませた。


◇◇◇



 ノアが手を止めたのは、樫の木がざわめいたからだった。


『ノア、何か来るよ』


 樫の木は緊張したように言った。マロンも耳をぴんと立てて立ち上がった。


「どうしたの? 何かって、何?」

『もうそこまで来ている。――狼だ』

「ええ?!」


 ノアは竪琴を置いた。こんな平原に狼?


「魔物じゃなくて?」

『ちがう。魔物じゃない。狼だ』


 樫の木はノアたちを囲っている枝をぎゅっと縮めた。小さなテントのようになったその囲いの枝の隙間から、ノアは目を凝らす。マロンが落ち着かない様子で地面を掻いている。


「ほんとだ」


 ノアは呆然とその光景を見つめた。


 月明りを銀色に弾く白狼が、夜闇をこちらに向かって疾走してくる。

 魔物かと見紛みまごうほどの大きさだが、樫の木の言う通り狼に間違いない。


「ど、どうしよう……!」

 白狼はもうすでに、目前に迫っていた。




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