第16話
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理恵子からの電話はあのイベントの夜には冬真の元にかかってきて、冬真はわざと日にちを空けようとしたがしつこく日程を早めようとする理恵子をなんとか説得し、翌週金曜日の夜に洋館の仕事部屋で会うことになったのだが、今回は付き合わなくて良いという冬真に、朱音は自ら同席したいと名乗り出た。
最初に同席して欲しいと頼んだのは冬真であり、朱音がその後について気になるのは仕方がないとOKを出した。
洋館に来た理恵子はつい先日会ったときより痩せているように見え、それも前回のように切羽詰まった表情と言うより疲れ切っているようだ。
理恵子が隣の席に置いたバッグは二つあり、一つは大きなトートバッグで、大きな本やファイルなどが見える。
おそらく舞台の稽古かレッスン後かにそのままここに来たのだろう。
冬真は思ったよりも理恵子が深刻な状況であることを理解し、アレクに紅茶では無い飲み物を用意させた。
「ホットチョコレートになります」
アレクは三人の前に、白地でカップの縁は柔らかく波打ち、側面には大きくハーブが描かれたマグカップとクッキーを置いて出て行った。
「まずは温かいうちに飲みましょう」
「私はあまり・・・・・・」
「そのホットチョコレートには、隠し味にハーブを入れてあります。
どれも喉に良い物ですし、お仕事の後でしょう?
声楽は体力を使います。栄養をきちんと取るのもプロの仕事ですよ」
優しく冬真が言うと、理恵子は戸惑った表情をしたあと、カップを取りゆっくりと口をつける。
「美味しい」
少し表情を緩ませそう言ってまた飲んでいる理恵子を見て、冬真と朱音もホットチョコレートに口をつけた。
「気持ちは変わりませんか?」
しばらくして冬真が尋ねると、理恵子は少し間を置いた後えぇ、と返事をする。
「例の女性がしていた宝石の種類はさすがに集合写真ではわかりません」
「そうよね。宝石は確かサファイアだと彼女は言っていたわ」
「もしもあのサファイアが本物だとして約10カラット近いと思います。
最高級品だとすれば約10カラットで安くても数百万しますし、そのネックレスを貸したという親戚は随分気前が良い方なのでしょうね」
「えっそんなに?!」
思わず横にいた朱音の方が声を上げてしまい、慌てて口の前を手で覆う。
「産地や品質、加工の有無等で値段はかなり変わりますのでだいたいの値段です。
ネックレスのデザインからして最近の物ではありませんから、少なくともマダガスカル産のサファイアでは無いでしょう」
「どういうこと?」
理恵子が声をかける。
「サファイアの有名な産地はいくつかあるのですが、現在の主産地はマダガスカルです。
マダガスカル産は1998年頃からの南部イラカカ村から産出したのをきっかけに次々と鉱山が発見されたのですが、このネックレスのデザインだともっと前でしょう。
なのでマダガスカル産であることは無いと考えました。」
冬真が答えると、理恵子は頷きながら聞いていた。
確かにネックレスのデザインは無駄にごつい感じで、スタイリッシュではなく、むしろアンティークの印象だ。
「さて、今回はジュエリーアドバイスということでご相談をお受けしましたので、金額は抜きにあれがサファイアだと仮定して同じ色味でそれを超える品となると、希少性、人気、そして華やか、というところから、こちらの宝石をお勧めします」
そう言って出したのはケースなのでは無く大きめのタブレットで、それを開いて理恵子に見せた。
「なに、これ・・・・・・」
思わず理恵子はそのタブレットを持ち上げ、食い入るように見る。
「パライバトルマリンです」
その画面に映っていたのは、見たことも無いようなネオンブルーの宝石だった。
よく見るアクアマリンなどの青ではない、海の青とも、空の青とも違う、恐ろしいほどにビビッドな青なのに下品などでは無い、むしろ別格であることを感じる特別な色。
画面には何点か大きなサイズでルース、アクセサリーになっている状態が映っているが、これで凄い、ずっと見ていたいと思える宝石なのだ、実物を見てみたくなるのは当然だった。
「ねぇ!これの実物は無いの?!」
「さっきも言いましたが、非常に希少性が高く人気なため、この写真のようなものは早々手に入れることは出来ません。
小さい物でも上質な物は本当に少ないですし、上質なパライバトルマリンを購入したいならそれなりのルートを使わなければ無理です」
理恵子は淡々と話す冬真を呆然とみていた。
提案しておいて、手元には無い、早々手に入らないと言われたのだ、一気に期待した分突き落とされた気分になるのも無理は無い。
「あの、そんなにも希少性が高いのはなぜですか?」
おずおずと朱音が横から尋ねる。
「この宝石はブラジルのパライバ州から産出したことから命名されたのですが、1989年の1年間だけ大量に算出した後は全く算出していません。
現在はモザンビークやナイジェリアで算出された物が、パライバ州から算出された物と同じ、銅とマンガンを含んでいると言うことでこちらもパライバトルマリンと名乗ることが許されました。
なので現在はパライバトルマリンという名称だからパライバ州で採れたものではないですし、やはりパライバ州の物と新しい鉱山から出たパライバは色味も違うため、金額も違います。
一番人気は本家パライバ州から算出されたものですから、たった一年で取り尽くされた物が今は小出しに販売されているんです。
値段は上がるばかりで下がることはありえません。
そして良い品ほどコレクターが持ちますので、パライバ州のものならば欠片や質の低い物でも高額で販売されていたりします」
「例えば、さっきのサファイアくらいの大きさなら?」
じっと聞いていた理恵子が思わず聞く。
「パライバトルマリンであのようなカラットがあるなら、そもそも値段がついていません」
そう言った後、既に冷えたホットチョコレートを下げて紅茶を持ってきたアレクに冬真は礼を言うと、一口飲んだ。
そんな冬真を理恵子と朱音は早く聞きたいとばかりに見ている。
「そうですね・・・・・・せいぜいあのサファイアの半分くらいの5カラットくらいだとして、あぁカラットは大きさでは無く個体の重量なんですが、パライバ州の物で高品質、カットも良いとなれば1000万くらいはいってもおかしくはないでしょう。むしろお買い得な場合もありますね」
理恵子も朱音も声を出さなかった。ただ口はあんぐりと開いていたが。
あのサファイアの大きさの半分で値段は段違い、理恵子は声を出そうにも出しにくいほどの衝撃だ。
「そ、そんなの無理に決まっているでしょう?!買えるわけが無い!」
「ですから最初に、金額は抜きにして、と前置きをしたのですが」
ぐっ、と理恵子が悔しそうに睨み付ける。
「加藤さん、貴女はあの女性のサファイアよりも上の宝石を周囲に見せることで、ようは目立ちたい、注目を浴びたい、一泡吹かせたい、というのが真意でしょう?」
冬真はただそこに座っているだけなのに、一歩一歩追い詰められているように感じて理恵子は無意識に身体を椅子の背に押しつけた。
「でもおわかりですよね、もうそんなことをしても主役の座が戻ってこないことは」
顔を硬直させていた理恵子が、冬真の視線に耐えかねたように顔を背ける。
朱音はただハラハラしながらその様子を見ていた。
きっと冬真には考えがあってやっている。
そう思うけれど、苦しんでいる理恵子をより追い詰めているようにしか見えなくて可哀想でたまらない。
「・・・・・・パライバトルマリンは宝石の中でも非常に新しいものです。
他の宝石には無い色、希少性などからあっという間に人気を得ました。
資産価値の高い宝石でもあるでしょう。
でも、エメラルド、ルビー、サファイアのような伝統に裏打ちされた宝石にはやはり及ばない。
人それぞれ好みがありますので、これらの宝石より他の宝石が一番だと思う人もいますし、価値観はそれぞれです。
加藤さんは声楽家ですよね?」
「え、えぇ」
宝石の話しから突然そんなことを振られ、理恵子は戸惑う。
「先日のイベントで歌われた曲目は何でしょうか」
「え?歌った曲は・・・・・・滝廉太郎の花、故郷、荒城の月、アナと雪の女王で松たか子のLet It Go~ありのままで~、そしてアヴェマリア、だけど」
「何故その曲目にしたのですか?」
「イベントの主催者側から、多くの人が知っている曲にして欲しいと言われたの。
年齢層も幅広いっていうから、他のグループとかぶらないか確認してそれらにしたのよ」
「その曲目に、声楽家なら誰でも知っているイタリア歌曲を入れたらどうでしょう、例えば『Amarilli』(アマリッリ)とか」
「それは・・・・・・曲の間にでも入れれば流れで仕方なく聴くでしょうけど盛り上がりは少ないでしょうね、普通の人が相手だもの」
「そうですね、でも実力が素晴らしければ聴く人によれば魅了されるかも」
一体どういう流れなのかわからず、理恵子の表情は不信感を隠していない。
でもそんな様子を見ても、冬真は穏やかだ。
「宝石にあまり詳しくない人でも三大宝石は知っていますが、パライバトルマリンを知っているのは大抵宝石が好きな人だと思われます。
ごく普通の方に三大宝石である、エメラルド、ルビー、サファイアとパライバトルマリンを並べて宝石の名前だけ言って、どれが最初に欲しいかとなれば、まず大抵三大宝石のどれかを選びますよ。
宝石に詳しい者なら品質などが同程度であればパライバトルマリンを選ぶでしょうが、詳しく説明でも受けないと綺麗だと思ったとしても初めて買う宝石として選びにくい。
他の人に「サファイアを買った」と言えばすぐに通じますが「パライバトルマリンを買った」と話しても、トルマリンは安い種類も多いので、サファイアを買ったということより下に見られることがあるかもしれません。
宝石に高いお金を出すのなら、それも人に見せたいのならば、オーソドックスなものを選んでしまうのは仕方が無いことです。
今回の曲目だって同じようなものです。
大抵の方はよほど耳が良かったり音楽に詳しくなければ、オーソドックスなものの方が受け入れやすい。
でも手を抜きましたか?そんなに音楽に詳しくない人達が集まるイベントで。
オーソドックスな曲ほど難しい、特に日本歌曲は。
僕はイギリス人と日本人のハーフなので、英語などで話すときに口の奥が当然のように開いて話すことになれていますが、日本語はそうではありません。
母音を落とさずに日本歌曲を歌う、これがとても難しいのだと日本人の友人の声楽家が言っていました。
舞台で主役を張りたいと思うのです、イベントは小さくても、聴いている人を自分の歌で魅了したいと思うのでは?」
理恵子は、外国人のような顔で流ちょうに日本語を話す冬真の話しを、眉間にしわを寄せながら聞いていた。
ただ宝石に詳しいだけの美形なのだと思っていたが、少しは声楽の知識があるようだ。
イタリア古典歌曲というのは声楽では非常にオーソドックスなものでむしろ有名な曲も多いが、そういったクラシックに触れることの少ない日本では知らない人の方が多い。
それに日本歌曲は日本語だからこそ難しい。
一つ一つの言葉を聞き取りやすく響かせるのはかなりの技量が必要で、ついイタリアやドイツの曲を歌いがちになる世界ではあっても、理恵子は日本歌曲も手を抜かずに練習している。
プロといえどもまだ二十代、いつまででも練習が必要な世界で、より練習が必要な年齢なのだ。
多くの観客が自分の歌を聴き、嬉しそうにしたり、感動したりしているところを一度でも味わえばそれは癖になってしまう。
だからそれを味わうことの出来るよう、いつも観客を満足させる自分でいられるように、理恵子は必死にこの世界を生きている。
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