令和の街の森の生活

十二滝わたる

令和の街の森の生活

 小雪がちらつく中、今日もシジュウカラ(四十雀)が家の庭にやって来る。


 警戒心が強く、庭角の椿や沈丁花の枝に止まっては様子を伺い、安全を確認し、餌台に素早くやって来ては更に当たりを気にしながらヒマワリの種を咥えて一目散に木陰へと逃げ込む。逃げ込んだ木陰の枝でヒマワリの殻を器用に向いて中身を食べる。お陰で椿の下はヒマワリの殻で散らけ放題となる。


 それでも振る舞いといい、黒と白のツートンカラーに輝く緑色の配色をした容姿といい、四十雀は愛らしい。窓を開けると音を聞き付けて寄って来る癖に、一定の距離を保ってこちらを観察している。野生の猫科の生き物のような自然の距離感だ。


 最初の頃、餌台に粟や稗を置いてみた。スズメが集団でやって来るようになったのは3週間も経てからだった。仲良く啄む姿に癒やされていたものだか、そのうちに餌を巡っての争いや喧嘩を見ることになった。体の大きな強そうなスズメが仲間を追い払う。スズメはそれを気にしながらおこぼれを啄むのだ。こんな根性の集団形成のスズメに対して、お前らもう来るな、と嫌気が指すまでさほどの時間はいらなかった。これじゃ猿や人間社会の序列社会とさほど変わらない醜さじゃないか。そんなものを見るためにお前らに餌を提供しようと思ったわけではないぜ、お前らのどこに癒やしがあるってんだ。


 餌をヒマワリの種にしてからは、ほぼ、やって来るのはシジュウカラとなった。


 僕は社会人1年目にして、最初の研修期間である3ケ月を経過すると直ぐにテレワークとなった。会社には居場所をしっかりと伝えておけば、日本国内、一定の優先を基本とする通信手段さえあればどこで仕事をしてもいい。そして、基本は8時間労働であるが、それに見合った業務達成基準が与えられ、1週間毎にその作業工程に基づく成果品を創り上げることができれば十分なのだ。僕は仕事の容量がいいため人よりは達成が速いからかなりの時間を自由に使える。


 それにしても、この新たなパンデミックのせいで、僕の青春の過ごし方も大きく変わってしまった。それでなくても僕は大きな人生上にハンディキャップを抱えてきたのに。


 大学生活をなんとか謳歌できたのは、1年生と2年生の2年間だけだ。大学の宿舎に潜り込めたため、そこでは食事も出してくれていたから、生活していく上での僕の作業は、近くのコインランドリーでの洗濯くらいであり、その分、学業とアルバイトに専念することができた。


 しかし、3年生の始めから卒業までは、なんとほとんどかオンライン授業に切り替わってしまい、大学の校門をくぐったのは数回の教授からの指導のためと最後の卒業式の時だけだ。


 1年生のうちからゼミを選んでいたことと、2年生の学園祭実行委員をしていたことから、辛うじて数えられる程度の仲間がおり、彼らと互いに慰め合うように卒業旅行を密かに決行できたことが唯一の救いだ。


 3年生からは地方の主要都市ではあるがシャッター通りが街の中心部を締めている田舎の実家に戻った。戻ったというよりは、10年ぶりに実家で生活することになった。その家には祖父母も両親も親戚もいない。一人っ子だから兄弟もいない。


 僕の本格的な1人暮らしはこうして20歳から始まった。そういえば、「20歳の原点」なんて中古本を、以前、スマホからネット購入して読んだことがある。近くのレンタル店にもないDVDを探し求めて観たものだ。同じ京都の同じ大学の娘の日記なのだろうが、かれこれ50年前、半世紀前の代物だ。背景は全く理解できないから想像するしかないが、想像することも困難だ。タイや香港での学生の民主化運動とも違うようだし、歴史からしてその敗北した運動理論が正しかったとも言い難いような気がする。


 孤独であることと未熟であることを原点として、彼女の素朴な思考が記されている日記だし、時代背景は違っても今の僕の心境に近いような感じもするが、僕の場合は心が孤独だなんて言う程度のものではない。本当の意味で孤独だ。すなわち、両親も兄弟もいない、親戚とも袂を断った、一人ぼっち、正真正銘の天涯孤独だ。


 父と母は僕一人を残し、僕が小学5年生の時に交通事故で2人一緒に死んでしまった。対向車線の大型トラックがセンターラインを越えて正面から衝突してきたのだ。即死だった。


 事故処理が終わってからも、暫くは両親の遺体とは対面できなかった。グシャグシャなった遺体を更に原因調査のための検死解剖があり、体裁よく死体を整える時間が必要であったし、何よりも看護師の伯母が僕に気を配って悲惨な遺体を見せないよう賢明に努力してくれたせいだ。


 初めて両親の遺体と対面した時、僕は僕に訪れた今のこの出来事が理解できなかった。涙も浮かばなかった。ただ呆然と青白い顔をした縫い傷の痛々しい能面のような生気のない顔を眺めていた。


 どこかで自分の耳元で張り裂けるような大声で泣き叫んでいることに気が付いたのは、火葬場で父と母が別々に火葬炉に入れられて行く時だ。


 けれど、ほとんどの親戚は悲しみに暮れた顔をして伏しているし、中にはどんな気持ちでそうしているのか知らないが、僕の顔をずっと見続ける視線を不快に感じながら僕は泣くことを我慢していたはずだ。


 泣き叫んでいるのは僕だった。冷徹なほどに表情を表さない僕の中には、もう一人の僕が居て、僕の心の中で大きな声で張り裂けんばかりに泣いていた。


 降りしきる雪の中、お墓のない僕の両親の遺骨は、かつて大きな炭鉱で栄えた山裾に構えた父の実家の先祖代々の墓のある共同墓地の猫の額のような角地に埋められた。転がっていた大きなゴロタ石が墓石の代わりに置かれた。僕はてっきりあの大きな構えの立派な墓の下に埋葬されるものと思っていた。そこには、父の祖父母も父の母も埋まっているのだから。しかし、そこに納骨出来ない、と当然のように親戚も和尚も言い放った。分家だからと理由を教えられた。


 父は3人兄弟の真ん中であり、兄弟は仲が良さそうに見えた。特に少し年の離れた下の叔父とは気が合うようだった。両親に先立たれ、路頭に迷う僕の頼れる人はこの叔父しかいないと思っていた。


 しかし、僕を可愛がってくれたこの叔父も、父が亡くなると、それまでのように僕にはかまってくれなくなっていた。今から思えば、親戚は誰が後見人として僕を養育していくかの騒動の渦中にあり、僕から慕われることは大きな足手まといになると思ったのだろう。


 結局、僕は父方の親戚ではなく、葬儀で色々と世話を焼いてくれた伯母でもなく、母の弟である叔父夫婦の家で一緒に生活することとなった。夫婦の間には僕の一つ上の娘、つまり僕の従兄弟がおり、祖母も健在で同居していた。そもそも、両親が亡くなってからは、母と祖母の繋がりの縁で、ずっとその家で世話になっていたが、その延長で決着したらしいが、僕は詳しいことは聞かされてはいない。僕の意志なども聞かれた覚えはない。どうせ僕は何も知らない、何者でもない、何もできない、意志すらないような扱いの、唯の小学生なのだから。


 両親が建てた家は暫くそのまま放置されることになった。看護師の伯母が時々、空気の入れ替えと掃除のために訪れていた。


 僕に残された遺産は、その家と父の生命保険であったが、その額すら僕には明らかにされなかった。ただ、中学、高校、大学と進学するための学費と、僕が成人するまでの僕に関わる養育費に該当するお金にはなっているからと看護師の伯母から聞かされただけだった。


 養子縁組をするのでもない、叔父家族との名字が違うままであり、息子のようで息子でない、兄弟のようで兄弟ではない、唯の奇妙な同居人である僕と叔父家族との生活がこうして始まった。


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 今日はシフトチェンジにより一日中テレワークは休日となる。僕の住む家は、さほど大きくはない城下町の県庁所在地であり、県庁と市役所と駅を結んだトライアングルゾーンという街のど真ん中にある。


 僕の住む家は、この街の中心地に位置し、県内では住宅地価格では最高の一等地となっており、シャッター通りや空き家はご多分にもれず、ここにも多数あるものの、周囲には普段の食料調達には事欠かないスーパーを始めとして、県庁、市役所、郵便局、銀行、地方大学、生活雑貨店、ドラッグストアー、コンビニ、JR駅、市内バス乗り場と東京や大阪までの長距離バス発着所、和菓子屋、老舗蕎麦屋、ラーメン店、ケーキ屋、ホテル、レストラン、居酒屋、結婚式場、セレモニーホール、映画館、劇場が散在しており、歩いてほとんどの目的は簡単に達成できる便利さがあった。


 しかし、繁華街と言えるような派手な人混みでごったがえすエリアは、もうこのトライアングルゾーン内にはなく、休日の人出は、大規模な住宅開発と平行して誘致された郊外の大規模商業施設周辺へと集中している。


 昼間はほとんどの人通りがない中心市街地も、辛うじて駅前の縦横に交わる両脇二車線の通りだけは、夜の飲食店で賑わいを見せる。近くの小さな町や村には飲み屋などとっくに廃れているものだから、酒飲み地元運営鉄道とJR線が集まるこの街の駅前に、夜な夜な鉄道を使って呑み助達が集うためだ。行政が好みそうな広域化なるものはなかなか進まないものの、こうした変わらない人間の性がもたらす需要は知らず知らずのうちに自然と成り立ってしまう勢いがある。


 近所の数件先の空き家の庭は繁茂し放題となっており、その庭にはどこからやってきたハクビシンが住み着いており、夜中に目を光らせながら電線を器用に綱渡りする姿に驚かされることがあったり、昼は捨て猫の親猫が数匹の小猫をカルガモの親子のようにぞろぞろと連れて歩く姿に出くわしたりする。そして、僕の庭にはシジュウカラがやって来る。


 僕は駅前の夜の飲食店が売上向上のために昼に始めだしたランチを食べた後、食後の散歩として歩いて数分の大きく堀を巡らした城址公園へと赴くこととした。


 城址公園の名称の如く、ここには天守閣はない。失われたのではなく、そもそも存在しないのだ。長屋のような大名の居住地域があったのだとか。そのせいで、堀の内側には樹齢200年を超えた大きな大木、それはエドヒガン桜であったり、欅であったり、銀杏であったりするのだか、広々とした樹木とともに自然豊かな公園エリアが残されていた。


 東京の大学では素敵な辰子へ近づくための下心もあり、さほど興味もないままに野鳥観察同好会に入っていた。動機がそうだから、あまり熱心には活動するわけでもなかったが、彼女とはデートを重ねる程の中にはなれた。けど、デートの場所は何時も山里や自然公園。彼女の護身を兼ねた彼氏の地位に甘んじていたが、僕は彼女と居られることがことさらに幸せだった。


 そのため、多少の小鳥を見分けられるようにはなっていた。城址公園には様々な小鳥がいた。杜の都のような都会のど真ん中をゆうゆうとハエタカやハヤブサ等の猛禽類が飛び交うような雄壮さは無かったが、小さな幸せを運ぶように小さな鳥たちが木々に紛れて生活している。春には朗らかな歌声を聞かせてくれるウグイスは「ヒッコ、ヒッコ ケッ」と美声を出し惜しみし、モズは「キィーキィ」と騒がしく、ヒヨドリは「キィーッィ」と高い美しくはない声を響かせる。春の朝にはカッコウの声が澄み切った空を切り裂くように鳴く。今の冬の季節は、北からやって来た冬鳥も仲間に加わり、枯れ葉の森がさらに賑やかになる。柑橘色を羽に混じえたショウビタキやツグミは「ヒッ、ヒッ、ヒッ」高音で、「ポッポッ」と低温で鳴く。街のど真ん中にあるこの公園は、知ろうとする人だけが知ることができる様々な小鳥の楽園だ。


 今日の城址公園はあいにく昨日の降雪が至る所に残っている。小鳥たちも籔の陰で大人しく静かに過ごしているのだろうと期待は最初から持ってはいない。


 ふと目の前を小さな白い飛行物体が横切る。雪が飛ばされてきたのかとその後を負っても籔の枝木は雪でコーティングされ白一色だ。小さな枝に雪の吹き溜まりがあるなあと思って眼を離そうとした瞬間、その一つが風上の方向に飛ばされた。そんなはずはないと残りの吹き溜まりに目を凝らすと真ん丸とした小鳥が忙しく顔を動かしている。更にそんなはずはないと目を凝らして僕は驚いた。北海道の冬の妖精シマエナガがこんなところに居るはずはないのだから。瞬時にその小鳥は飛び立ってしまった。シマエナガの愛らしいふっくら饅頭姿は冬の北海道でしか見ることができないはずだが、突然の初冬の寒波から逃げるように下りてきたのかも知れない。


 そんな出来事を辰子に早速ラインで伝えみるが一笑に付されてしまう。「そんなはずはない、北海道生まれの私でさえ見たことはない」と言われてしまった。すずめが雪だるまになった訳ではあるまいし、「本当だよ」といくら言っても信じてはくれなかった。「写真は撮ったの」と言われても、そんな時間はなかったのだから証拠もある訳では無い。結局、その内、機会があったら二人で確認することで決着が着いた。けれど、二人は互いにどこに居るのかは知らないのだ。住所すらも知らない。電話番号すら知らない。ラインのメールが唯一の繋がりだ。まるでバーチャル世界との関わりだ。


 辰子とは大学時代は友達と恋人の間のような関係だった。同じ東京の大学に通っていたのだが、辰子は突然、大学2年で中退し故郷の北海道に帰ってしまった。実は彼女も複雑な家庭環境にあった。漁師の父は小さい頃に難破し行方不明のまま七年が経過し、ようやく失踪宣告をされている。母は漁協に勤めていたが、体調を壊して入院することになってしまったのだ。病院での看病と家に残された祖母の面倒を見るため、辰子はさよならも言わずに去っていってしまった。


 辰子から突然連絡をもらったのは、辰子が去ってから2年ほど経過してからだった。僕は大学を卒業し、同大学の先輩が経営している東京のとある小さなアプリプログラム作成のベンチャー企業に就職し、テレワークで故郷の古びた日本家屋の実家に移り住んでいた。辰子からすれば僕らの関係もテレワークのようにどこに居ようが関係はないライン上の空虚な関係だ。ブロックも削除も既読スルーもアプリ操作一つで決まってしまう簡単さと危うさの関係。僕が、これまでの未読されたままのラインをそのままほっといたために辰子と再び繋がることができたのだ。辰子も僕と同じで天涯孤独で一人で生きていた。母も祖母もたて続けで亡くなってしまい、今は漁港の街を出て一人で都会の街に一人で住んでいる。外国資本の今流行りの宅配サ-ビスであるイーパルで働きながら生活しているらしい。イーパルの姿をした辰子の写真がラインで送られてくる。僕も部屋からの庭の小鳥の写真や庭の季節が変わる毎の風景のスナップを送り続ける。


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 叔父家族と暮らした8年間を思い起こせば、楽しいものであったと言えなくもない。甥っ子とはいえ、本来は家庭にいるはずのない子供の生活を見てくれた上に、家族のように旅行等に連れて行ってくれたのだから、それなりの感謝もしなくてはならないのは当然だ。しかし、その一つひとつの思い出には、甘美な郷愁を伴うものは一つも無かった。


 叔父は完璧と言える程の追随型人間であり、自分の意志を表すときは最小限の自分神経に触れる時のみであり、この家庭は女帝のような見合いの末に嫁いできた叔母がほとんどを支配していた。叔母は見栄を張るための虚言癖があり、さらに金権主義の守銭奴であり、世間への体裁を第一にしていた。それは、理想的な主婦とか母親とかとはまるで正反対であるのだが、見かけだけは微笑ましい幸せそうな家族を演出することに努め、家庭内での不破や不満は陰湿な制裁を武器に言わせないようにさせていた。


 叔父夫婦には僕のひとつ上の一人娘の純子が居た。何も出来ない父親からの溺愛と母親からの躾という名の絶対命令の間で精神は揺れ動き、バランスの悪い卑屈な性格となっていたが、それでも一人娘としての家庭内での地位は安定的に確保されていた。僕はと言えば、あくまでもよそ者であり居候に過ぎず、事実、僕に為された扱いはそのとおりのものだ。


 ある夏休み、有名な海水浴場に一泊で出かけることになった。純子も僕もとても喜んだ。海までは在来線を二つ乗り継いでの列車の長い旅であったが、その行程も楽しみの一つだ。駅弁を選ぶとき、純子だけは一番高い一番美味しそうな弁当を選ぶことが許された。僕はなんだかんだと理由を付けられ、本意ではない弁当に我慢することになる。海水浴場ではテントの日差しよけの下にあるリクライニングチェアに座るのは純子だけだ。僕は純子がいない隙に座ったとしても、すぐに譲ることを要求される。旅館での席順すら暗黙の決まりがあり、今なら分かるが僕の席はいつもいわゆる一番の末席となっていた。帰りの列車は異常に混んでおり立ったままボックス席が開くのを待っていた。一人降りて席が開くと真っ先に座れと指示されるのは純子だ。「あなたは男の子だから我満できるでしょう」と一番年下の僕は言われる。次の席が空いたときに座るのは叔父だ。叔父も臆面もなく「年だから疲れた」と言って座る。その次も叔母が「私も年だから」と先に座る。見かねたボックス席の老人が「次に降りるからどうぞ」と僕に譲ってくれてようやく僕が座る。海水浴の疲れで泥のように眠った後に眼を覚ますと、先程の老人はデッキの端にまだ立ったまま乗っていた。


 すべてがこのとおりだ。ある春の日には近くの渓流にある鱒釣り場に行った。新緑の中の爽やかな渓流の水しぶきの舞う釣り場での鱒釣りは忘れることが出来ない。子供だから鱒の大きさを競うのが楽しかったのだか、一番大きい鱒を僕が釣り、僕の得意さも最高潮に達していた。釣った鱒を調理して貰い運ばれて来るのを待ち遠しくしていると、僕の釣った一番大きな鱒が最初に運ばれて来る。「この一番大きな魚はどなたにですか」と仲居が聞くと、「一番大きいのはお父さんだな」と叔母が指示する。叔父は食べた後に「大きいのは大味で美味しくないな」と言って食べ残し、残り物を「食べるか」と僕に問いかけるような擬似家族だ。


 海水浴も鱒釣りも、普通なら孤児のような僕には体験出来ないことであろう。それをしてくれた叔父夫婦には感謝しなくてはならないと世間は言う。しかし、僕にとって感謝には、人間の持つ罪深い醜い深淵を幼い僕にも包み隠さず見せてくれたことへの嫌悪の感謝も含まれるのだ。


 僕が高校を卒業し大学へ進学を希望したとき、これら隠蔽していた捻れた関係は、必然的に解消しなくてはならなくなった。ピアノの稽古や習字等の習い事をしていた純子の学業は奮わず地元の小さなブティックに勤めていた。そのため「うちの子が大学なんか行ってないのに、なんでお前だけ大学に行くのだ」となじられて大喧嘩となった。面倒見のいい伯母が仲立としながらも拉致が開かず、法定代理人選定の時にお世話になった弁護士に駆け込んだ。弁護士は父母の遺産管理状況も調査した上で、好ましい状況にはないと説明し、これまでの養育費と大学費用を鑑みてもさらに財産は十分にあるはずだとして僕の遺産の保全と管理について保証してくれることになった。


 こうして、僕は晴れて大学に入学するための上京を契機にして叔父夫婦家族とは事実上決別した。今度また会うことがあるとすれば、それは彼らの葬式のときだろう。


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 テレワークも一人で気ままにやれる分、楽といえば楽である。出来ない暇な上司からの如何にも管理していますよという目線を気にする事もなく、虚飾に満ちた仲間の探り合いもなく、仲良しグループですよと言わんばかりの上司の悪口とぐだぐだな仕事の愚痴に明け暮れる仕事終わりの酒飲み会の誘いもない。それらが寂しいと思えば寂しいかもしれないが、ノルマと出来具合で仕事を評価される今の会社は僕には討手つけだ。


 パソコンを打つ手を止めて、眼を上げれば、朝やった小鳥の餌に三々五々に色々な小鳥が集まってくるのに癒やされる。そして手製のドリップコーヒーと電子タバコで休憩を入れる。


 街の真ん中なのに街の音は聞こえない。窓を開けても車の音すら聞こえない。耳をすませば、聞こえて来るのは姿なき小鳥の声だ。あなたの街もそうかもしれない。耳をすませば森があり、眼を凝らせば小鳥が戯れている。


 僕は自分で料理することはほとんどない。お米すら炊飯することも、惣菜をレンジでチンすることもしない。近くに食べに行くか、買ってくるか、宅配を頼むかで食生活は済ませている。


 今日も昼に何か食べなくてはいけない。今日はイーパルを頼もう。辰子にイーパルで頼むなら何がいいかとラインする。すぐに返信があり、「あの店のピザなら美味しくて速いわよ」と言うからその店のピザを頼むことにした。どこに居るか分からない辰子に聞くのも変な話だが、食べ物のことは辰子が詳しい。バ-チャル的会話と現実との接点は、全国展開している有名チェ-ン店だ。


 昼の時間に合わせて辰子の言うピザをイーパルに頼んだ。朝はあんなに晴れていた天気が昼には鳥の羽が舞い降りるような大きな雪の塊がふわふわと風に揺られて幻想的に浮かんでいる。

 

 そんな突然の雪の中、大分遅れてイーパルは来た。玄関のチャイムが鳴り慌ててドアを開けると、雪で頭から足までこびりついた雪で真っ白になったままの女の子が大きなピザを持って立っていた。「ありがとう」と言って受け取ろうとしても反応がない。ふと、顔を見上げるとそれは辰子であった。その姿は以前話したシマエナガのような妖精の姿に思えた。


 僕は驚いて暫く言葉がでなかった。辰子は僕の住む街に住んでいたのだ。二人で見つめ合う長い時間が過ぎていく。それは僕にとっては、これまで辰子と会わないでいた時間に匹敵するほどに長く感じた。ピザを受け取り、僕は無言で辰子を抱き寄せた。


 そして、あれから何か月たったのだろうか。今日は僕にとっては遅れて祝うことになったクリスマスだ。僕はスーパーで安くなっていた辰子が好きなチキンをたくさん買った。今夜は辰子が家にやって来る。僕がイーパルで頼んだ二人分の小さなケーキを運ぶために。



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