第27話 新生活と初飛行

 年長者のいうことは聞いておくものなのだ。


 イシュチェルがこの部屋を飛び出した、あの瞬間。追おうとしたおれの前に立ち塞がり、ヌンは邪魔をした。今のおれはイシュチェルたちとは違う、必要なのは挑戦だといって。


 その言葉はおれを腹立たせると同時に失望させた。ヌンが大嫌いになった。でも今となってみればその通りだったのだ。


 からりと晴れた空を見ていると、彼女とセラプトに執着していた自分が恥ずかしくなってくる。あの二人にとって、おれの独りよがりな振る舞いは、いい迷惑だっただろう。


 どちらも放っておくべきだった。そうすべきだった。それなのにおれは自分が正しいと思っていることをやろうとし、押し付け、自分だけ楽しんだその結果、最後はバカを見た。おれの正義を彼らは拒絶した。あれがすべてだ。


 土砂降りだった雨は止んだ。


 竜なんて関係ない。最悪なことを想像して心を痛めたことさえくだらなく、苦い記憶になってしまった。何をあんなにも必死になっていたんだろう。ひとり相撲だったんだ。


 おれは支度をすませるとアオサギ亭を出た。あんなふうに飛び出したので、厨房の仕事は首になっているかもしれないが、更衣室に着替えと金が入った巾着を置いてきてしまっている。それにヌンのいうように、たとえ料理長に包丁で追っ払われてもちゃんと謝罪しておきたかった。


 料理長は声が大きくて顔も大きい迫力のある人だったが、新入りのおれをとても気にかけてくれ、仕事も熱心に教えてくれた。厨房の先輩たちだっていい人ばかりだった。ヌンが用意してくれた職場は最高だったのに、バカな真似をして不意にしてしまったなんて。本当に子どもだったと思う。


 飛行船に向かう足取りは重くて、早めに宿を出たのに、到着したときは遅刻ぎりぎりの時間になっていた。


 厨房に入ると、何人かはすでに働き始めていて、煮えた鍋からは鶏ガラのうまそうな匂いが立ち昇っていた。静かに音を立てずに近づいたはずなのだが、甘藍キャベツを刻んでいた料理長が、包丁をにぎったまま振り向いた。目が吊り上がっている。


「小僧。何かいうことはないか」

「……申し訳ありませんでした」


 深々と頭下げる。沈黙。姿勢を戻す頃合いを失して下を向いたまま視線を左右に動かした。ひゅん、と音がした。首をすくめたが、包丁をまな板に置いただけのようだった。


「なぜ飛び出していった。腹でも下したか、え?」

「申し訳——」

「理由を聞いている」


 圧迫感のある低い声に、二の句が継げず頭も上げられずにいると、横から助太刀が入った。


「竜を見に行ったんでしょ?」


 供物を差し出すつもりらしい、そう噂していたマユリさんの声だった。ゆっくり顔をあげると、彼女は前掛けを締めながら厨房に入ってきているところだった。


「竜の話をしてたら血相変えて飛び出していったんだもの。ね?」


 笑いかけられ、あいまいに微笑む。料理長の舌打ちが聞こえた。


「竜か。で。見たか?」

 すぐに返せず、目をまたたいていると、

「見たか、竜!」と強く重ねてくる。


「あ、はい。見ました」

「でかいか」

「はい。ものすごく」


 腕組みし、ぐぅとうなる料理長。


「わたしも見ましたよー」


 のんびりした声はポロさんだ。小柄な彼女は、下段の棚から丸い器を取り出して、卵を割る準備をしていた。


「この飛行船よりは小さかったですけど、あれが生きてると思うと、怖いですよねぇ」

「寝ているんだってな」


 料理長が鼻先まで顔を近づけてくる。おれは慌ててこくこくうなずいた。


「はい、寝てました。ぐっすり」


 と、そこへ、がやがやと厨房に数人が入ってくる。彼らは料理長の前で小さくなってるおれを見つけると、「おー、脱走兵」「ご帰還ですか」「料理長、貴重な人材なんですから、怒鳴らないでくださいよぅ」と口々にいっては肩や背を叩いてきた。


「怒鳴ってなどおらん!」

 ひと吠えする料理長。

「ケセド、許すのは一度だけだ。早く仕事にとりかかれっ。今日は玉ねぎを切り刻むように!」


 そして背を向け、包丁をにぎると、料理長はぼそりといった。


「わしだって竜が見たいのに」


 おれは笑ってない。堪えた。でもその声が聞こえた全員が、どっ、と吹き出して、また料理長が「黙って働けっ」と吠えたのだった。


 おれは恵まれている。本当に。目が熱くなった。刻んだ玉ねぎのせいにしたけど、胸の奥がずっととくとく鳴っていた。


 悪天候で欠航した飛行船だが、今日は出航する予定だという。ついに空を飛べるんだ。離島まで行くらしく、午後に出発して夜に到着。離陸は翌朝になるので、休憩時間になると、仮眠室によって自分のベッドに名札を置いてくるようにいわれた。


 仮眠室は飛行船の最上階にあった。廊下の角には棚が備え付けてあって畳んだ毛布が重ねてある。おれは一枚取ると、廊下に並ぶ仮眠室の一つに入った。


 どの部屋も同じ造りだと思うのだが、この仮眠室の天井はとても低かった。平均的な背丈のおれでも頭をぶつけそうだ。そこに二段ベッドが左右に二台ずつ置いてある。


 手前の下の段に目をやると、先約があって他の人の名札が奥の板に挟んであった。その上も同じ。この部屋は満員かと思って次に移ろうとしたけど、奥の上段はまだ名札がなかった。


 毛布を先にベッドに置く。低いので飛び乗れそうだったが短いはしごに足を乗せた。はしごは鉄製で軋みもなく頑丈だ。奥の板に名札を挟むと、飛行船の一員になった気分がして笑顔が出てしまう。手書きの「ケセド」の文字が気恥ずかしくも自尊心をたっぷり満たしてくれた。


 今日おれは空を飛んで、夜には離島に到着している。海の上を飛び、行ったことのない陸地を踏む。なんて素晴らしいんだろう。


 おれは両足を投げ出してベッドに寝転んだ。興奮で体が弾けそうだった。何気なく天井に向かって手を伸ばした。と、仮眠室に入ってからわずかに憶えていた既視感の理由に思い当たって興奮が少し冷えた。


 ここは集落にあったおれの屋根裏部屋に似ているんだ。天井は低く、狭い薄暗い空間。ふと、丸籠で眠る丸くセラプトの虚像が見えた。身を起こし、硬めの寝具を触った。そしてまた横になった。


 セラプトはいない。おれは一度、彼を捨てている。瀕死のヘビを集落の端に置いて逃げた。もうあんなことは二度としないと誓ったところで、事実はなくならないのだ。


 岩場にいるとき、セラプトは自由だった。人目を気にして隠れる必要はなく、陽の光を浴び、狩りをして、水辺を泳いだ。


 おれといた頃とは全然違う。イシュチェルを選ぶのは当然だった。


「これでよかったんだ」


 ため息のあと、怠けていてはだめだと起き上がった。と、聞きなれない警報音が響いた。わんわんと反響している。この警報音が鳴ったらその場を動くなと聞いていた。豪雨のあとだから、飛行船が通常通り動くか試運転するから、と。その合図なのだ。


 まだ警報音が鳴っているうちに、がく、と振動した。窓の外を見たいがこの部屋にはない。廊下に出たらあるはずだけど。


 揺れは最初の一回だけで、そのあとは何の変化もなかった。外を見ないと本当に浮遊しているのか、それとも故障で動いていないのかもわからない。


 おれはそろそろとベッドから下りて、廊下まで出てみることにした。ドアを開け、泥棒のように慎重にあたりを見回す。誰もいない。窓は備え付けの棚の近くにあったはずだ。


 滑るように移動していると、がく、がく、と二度、振動があった。緊張する。小さな丸窓までいくと、浅い窓枠にしがみつく。


 期待と緊張で表情が緩んでいたけれど、外を見て、かちっと固まる。何にも見えなかった。窓の位置が最悪で飛行船の淡い茶色の布地と骨組み部品が見えているだけ。


 背伸びして下をのぞこうとしたり、屈んで上を見ようとしたりと苦心したが、どうやっても地面も空も見えなかった。


「あんまりだな」


 再び警報音が鳴り、試運転に問題がなかったと拡声器から声がする。それは嬉しい知らせのはずなのに、おれはがくりとして思わず廊下に座ってしまった。

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